4月2日、天気予報では快晴だというのにどんよりとした花曇りになってしまった。
スーパーへ食料の買い出しに行ったが、名残りの桜をと3倍ほど遠回りをして、いつもの「マイお花見ロード」を通る。
桜の凄さはその花付きのボリューム感だろう。まさに溢れんばかりに咲き誇り、風につれてあちこちで花吹雪が舞っている。「静心なく花の散るらむ」だ。それらが水面に落ちて、花筏というにはやや密度が低いが、確実にそのエピローグは始まりつつある。
この時期、思い出すひとつは于武陵の漢詩「勧酒」だ。
勧君金屈巵
満酌不須辞
花發多風雨
人生足別離
これには、井伏鱒二の名訳がある。
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
とくに最終行は、ほかの歌のタイトルになったり、寺山修司の返歌のような詩になったりもしている。
もうひとつ思い出すのは、親鸞上人が残したという短歌である。
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かんともかな
(異本によれば最終7文字は「吹かぬものかは」)
一説によればこの歌、親鸞が9歳の折、いよいよ仏門に入るというので剃髪をする際、あまりの美少年ぶりにその髪を下ろすのを惜しんだ周囲の声に対し、彼が詠んだとされる。
9歳のガキにしては出来すぎだから、おそらくは偉人に対して後世の人間がくっつけたエピソードではないかと、私のような下衆な凡人は勘ぐってしまう。
私の個別の思いだが、これらソメイヨシノを見ると、ネットで知り合った沖縄の友人を思い出す。彼女とは一度会っているが、沖縄にはソメイヨシノはないといっていた。そのせいか、桜前線の開花ニュースに真っ先に出てきそうな沖縄はまったく登場しない。
私がこうしてのんびり花の下を歩いているとき、彼女は辺野古へ馳せ参じているかもしれない。
そういえば、70年前の4月1日は沖縄本島への米軍の上陸作戦が本格的に始まった日だ。過ぐる戦争で、沖縄のみが地上戦の舞台になったことを知っている人は年々少なくなってきているだろう。ましてやその地上戦で県民の25%、4人に1人が命をなくしていることを知る人は少ない。
あの狭い島で、当時の最新兵器を駆使する米軍相手に2ヶ月余を戦ったのだから、これほどの犠牲も不思議ではない。でも考えてもみるがいい、これを東京都の現在の人口に換算すれば300万人余(現在の人口1330万人余)が命を失ったことになるのだ。
なぜ、これほどの犠牲者がでたのか、それは当時の国策にある。
参謀本部は、米軍の九州以北への上陸を出来る限り遅延させるために徹底抗戦を命じたのだ。ようするに、沖縄を、「沖縄以北の本土」防衛のための防波堤に利用したのだ。そのため沖縄では、降伏すべき状況下にもかかわらず、まったく無駄な、抵抗のための抵抗、自爆的な玉砕行動などを含め、ただ死ぬための抵抗が延々と続き、そしてその結果としての目を覆うばかりの死屍累々が実現したのだ。
大日本帝国は、沖縄に国体護持のための捨て石になれと命じたのだ。
翻っていまはどうだろうか。
沖縄の民意がこれ以上の基地を拒否していることは、ここ何度かの選挙結果で明らかだ。そしてその民意が辺野古を拒んでいることも明らかだ。
それにもかかわらず、日本政府は、菅官房長官のにべない態度に明らかなように、沖縄の民意を力づくで蹴散らしてでも国策の優先を図ろうとしている。
ようするに、沖縄は、70年前と同様、「沖縄以北の」本土を防衛するための捨て石になれと命じられているのだ。
そんななか、沖縄独立論が浮上しているという。当然のことだし、私はこれを支持する。経済的にどうだとかいう現実論があるが、そんなものはその時点で考えればいい。ヤマトンチューの屈辱的な支配体制のうちに甘んじるより、琉球の誇りをもって独立した方がいい。少なくとこそれを切り札に日本政府に迫るべきだ。
桜の下を歩きながらの思いは、その散り際のごとく、千々に拡散してとどまるところを知らない。
とりわけ敗戦後70年の桜は、若くして散華した者たちをも偲ばせて重いものがある。
スーパーへ食料の買い出しに行ったが、名残りの桜をと3倍ほど遠回りをして、いつもの「マイお花見ロード」を通る。
桜の凄さはその花付きのボリューム感だろう。まさに溢れんばかりに咲き誇り、風につれてあちこちで花吹雪が舞っている。「静心なく花の散るらむ」だ。それらが水面に落ちて、花筏というにはやや密度が低いが、確実にそのエピローグは始まりつつある。
この時期、思い出すひとつは于武陵の漢詩「勧酒」だ。
勧君金屈巵
満酌不須辞
花發多風雨
人生足別離
これには、井伏鱒二の名訳がある。
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
とくに最終行は、ほかの歌のタイトルになったり、寺山修司の返歌のような詩になったりもしている。
もうひとつ思い出すのは、親鸞上人が残したという短歌である。
明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かんともかな
(異本によれば最終7文字は「吹かぬものかは」)
一説によればこの歌、親鸞が9歳の折、いよいよ仏門に入るというので剃髪をする際、あまりの美少年ぶりにその髪を下ろすのを惜しんだ周囲の声に対し、彼が詠んだとされる。
9歳のガキにしては出来すぎだから、おそらくは偉人に対して後世の人間がくっつけたエピソードではないかと、私のような下衆な凡人は勘ぐってしまう。
私の個別の思いだが、これらソメイヨシノを見ると、ネットで知り合った沖縄の友人を思い出す。彼女とは一度会っているが、沖縄にはソメイヨシノはないといっていた。そのせいか、桜前線の開花ニュースに真っ先に出てきそうな沖縄はまったく登場しない。
私がこうしてのんびり花の下を歩いているとき、彼女は辺野古へ馳せ参じているかもしれない。
そういえば、70年前の4月1日は沖縄本島への米軍の上陸作戦が本格的に始まった日だ。過ぐる戦争で、沖縄のみが地上戦の舞台になったことを知っている人は年々少なくなってきているだろう。ましてやその地上戦で県民の25%、4人に1人が命をなくしていることを知る人は少ない。
あの狭い島で、当時の最新兵器を駆使する米軍相手に2ヶ月余を戦ったのだから、これほどの犠牲も不思議ではない。でも考えてもみるがいい、これを東京都の現在の人口に換算すれば300万人余(現在の人口1330万人余)が命を失ったことになるのだ。
なぜ、これほどの犠牲者がでたのか、それは当時の国策にある。
参謀本部は、米軍の九州以北への上陸を出来る限り遅延させるために徹底抗戦を命じたのだ。ようするに、沖縄を、「沖縄以北の本土」防衛のための防波堤に利用したのだ。そのため沖縄では、降伏すべき状況下にもかかわらず、まったく無駄な、抵抗のための抵抗、自爆的な玉砕行動などを含め、ただ死ぬための抵抗が延々と続き、そしてその結果としての目を覆うばかりの死屍累々が実現したのだ。
大日本帝国は、沖縄に国体護持のための捨て石になれと命じたのだ。
翻っていまはどうだろうか。
沖縄の民意がこれ以上の基地を拒否していることは、ここ何度かの選挙結果で明らかだ。そしてその民意が辺野古を拒んでいることも明らかだ。
それにもかかわらず、日本政府は、菅官房長官のにべない態度に明らかなように、沖縄の民意を力づくで蹴散らしてでも国策の優先を図ろうとしている。
ようするに、沖縄は、70年前と同様、「沖縄以北の」本土を防衛するための捨て石になれと命じられているのだ。
そんななか、沖縄独立論が浮上しているという。当然のことだし、私はこれを支持する。経済的にどうだとかいう現実論があるが、そんなものはその時点で考えればいい。ヤマトンチューの屈辱的な支配体制のうちに甘んじるより、琉球の誇りをもって独立した方がいい。少なくとこそれを切り札に日本政府に迫るべきだ。
桜の下を歩きながらの思いは、その散り際のごとく、千々に拡散してとどまるところを知らない。
とりわけ敗戦後70年の桜は、若くして散華した者たちをも偲ばせて重いものがある。