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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「花の生涯・最終章」

2015-04-08 13:30:38 | 花便り&花をめぐって
 人を愛するなら、その人の最盛期からその終焉まで見届けるように、花を愛でるならその終章をも見届けるべきだというのは、ふと思いついた言葉で、何ほどの意味もない。
 しかし、今春、私ははからずもその機会を得た。

    
   
 車検である。車検代、自動車税、ガソリン代、その他の維持費、などなどを勘案しいたら、私のような高齢者がいつまで車を保有するかは、いろいろ考えるところである。
 しかし、郊外にあって公共交通も大したことはなく、近所に需要を満たす商店もないなか、やはり手放しがたいものがある。
 というわけで、また車検を受けた。

    

 委託した業者は自宅から2kmほどある。車を置きに行って、さいわい降りそうで降らない天候だったので帰りは歩くことにする。代車を借りるほどのことはない。
 帰路は川沿いに斜めに帰ると割合近い。この道は、ここ2、3回書いている「マイお花見ロード」へと続く。


          対岸の階段の白いところは降り積もった花びら

 そんなわけで、今年の花の終幕を見届けることができた。
 川の方は、昨日の雨で水量が増し、流れも早くなっているため、期待した花筏はほとんど見ることはできなかったが、その代わり、川岸や道路の花絨毯をしっかり堪能できた。
 思うに、昨日の雨の湿気で、花びらがしっかり地表に張り付いているため、例年になく濃厚な絨毯が出現したのだろ。

    

 最近の車検は早い。午前10時に持っていったのに、午後4時にはできましたと電話。
 またもや同じ道を逆にたどってとりにゆく。
 応対した若い娘が、「雨が降らなくてよかったですね」という。
 そういえば、先週見積もりに来たときに応対してくれたのもこの娘で、「いつ車をお持ちになりますか」との問いに、「今週は雨が多そうだから来週に」といって今日にしたのだった。
 そんなことを憶えていてくれたことが嬉しい。

    

 帰りは、せっかくここまで来たのだからと、私が60年ほど前に通学していた中学校から、道路を一本隔てた加納城址へ立寄ってみる。
 10年ほど前だろうか、ここへ来たとき、死角になるような木陰で、多分私の後輩になるような中坊のカップルが、パッコン・パッコンしているのを目撃してしまって驚いたことがある。いまから思うと、ちゃんと一部始終を見届ければよかったと思うのだが、何のことはない、こちらが恥ずかしいことをしているみたいにこそこそと逃げ出したのだった。

 駐車場に停めて、城址に入ろうとしたら、係の人らしき人が現れ、「申し訳ない、4月いっぱいまでは5時で閉門します」という。その人とちょっと立ち話をする。
 ここが戦後、米軍に接収されていたことを話すが、そこまでは知らないという。
 まあ、私より若い人は知らない話だろう。

    

 城内に入るのは諦めたが、石垣を外回りから観て歩く。角を曲がった途端、素晴らしい花絨毯の景観に出会う。古城の石垣と、落花のコラボといういささか郷愁をそそる情景だ。
 生憎の曇天で夕闇が迫るなか、しかも逆光で、こちらの装備はガラケーのみ。
 それでも、なんとか撮ったのが後半の写真。技術的に足らざる点は想像力をもって補って欲しい。

    

 かくて私は、今春の花を送ることができたのだった。
 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」といったのは林芙美子だった。
 花ならぬ私は、悲喜こもごもの春を送ろうとしている。





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過剰 (杳子)
2015-04-08 23:30:35
今年もまたゆったりと花見などできなかった私は、朝夕の通勤路で小さな公園の桜の老木が見事に咲くのを横目でみるのが精一杯でした。
でも、こちらで桜をたくさん見られて嬉しいことでした。ありがとうございました。

こうしてみると、桜というのは咲くのも散るのもなんか「過剰」な感じがします。まっしろに散り敷く様など、ちょっと息が詰まりそうな感じがします。桜はいまも昔も、いろんな意味で「のどか」じゃないものなのですね。
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お久しぶりです。 (六文銭)
2015-04-09 01:47:56
>杳子さん いらっしゃい。 
 コメントを頂くのは久しぶりなので、もうここは読んでいらっしゃらないのかなと思っていたのですが、ご応答いただき嬉しく思います。

 桜についてのご感想は、「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平 古今和歌集)を下敷きにしていらっしゃいますね。
 おっしゃる意味での桜の「過剰」は言い得て妙ですね。
 ひとつには桜の生態そのもの、あの花の付き方の「過剰」さにあります。花が、その種の存続に必要な領域をはるかに超えて、盛り上がるように咲く植物は珍しいですね。
 したがって、その散り際の旺盛さ、花筏や花絨毯の密集さも他の植物には見られないものです。

 それあってか、これに寄せる人の思いもまさに「過剰」です。豪華絢爛な宴があるかと思えば散華の悲哀、散った後の無常感、などなどなど。
 それが今に始まったことではないのは、先の在原業平の千年以上前の歌がよく示しています。

 「久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」は亡母の好きな歌でしたが、彼女はこの歌に過剰な意味を求めるのではなく、ただその中の「静」が自分の名前「シズ」に通じるから好きだったようです。

 彼女の晩年、犬山の有楽苑にある如庵に連れて行ったとき、おりから桜が満開を少し過ぎたあたりで、風もないのにハラハラと花びらが舞い落ちる様に、「ほらこれが『静心なく花の散るらむ』だよ」といったら、「ほほう」と、散る花のなかで表情を和らげていたのを憶えています。

 私ごとですが、あまりにも過剰な意味付与は、いくぶん苦手なのです。




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