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「国語」は子どもたちに何を教えているのだろうか?

2012-12-27 01:05:14 | 現代思想
 この秋以来の日本語についての興味から始まり、その日本語についての教育はどうなっているのだろうかと写真のような二冊の本を読み始めました。
 その二冊とは、以下です。
 
   『国語教科書の思想』『国語教科書の中の「日本」』 
                  石原千秋(ちくま新書)


 これがなかなか面白いのです。
 正直にいってまだ前者しか読んでいないのですが、面白くて一気に読み上げたものですから、まあ、中間報告のようなものを書きます。
 著者は、国語教育は本来、リテラシー(広い意味での読解力にくわえて記述能力)と文学の享受で成り立っているはずなのに、近年、後者の文学の側面が次第に希薄になり、前者の情報リテラシーの側面のみが強化されてきたことを指摘しています。

 そして、そのリテラシー自身が、道徳的説教やある種のイデオロギーをも含んだものになっているというのです。ようするに、「こう読むのが正しい」という結論の中に凡庸で陳腐な道徳への誘導が巧妙に織りこまれているというのです。彼はそれらを、現在使われている教科書の内容を具体的に検証しながら見てゆきます。

      
 
 とはいえこれは、いわゆる「偏向教育」とは少しくレベルを異にする問題なのです(そこへ結びつく要因ももちろんあるのですが)。いってみれば、いわゆる「左翼」「右翼」にかかわらず、あるいはむしろ進歩的と自称する向きほど、陥りやすいトラップのようなもので、それが「国語」の名で子どもたちに押し付けられているといいます。
 
 たとえば、小学校の教科書に見られるそれらのメッセージを大別すると、以下のようにまとめられるといいます。
    1)自然に帰ろう  2)他者と出会おう
 これだけですと、それぞれもっとも至極で、それのどこが悪いのといえそうです。しかし、それらを詳しく見ると、やはりいろいろと問題があるようです。
 
 たとえば、この自然回帰については、教材に頻出する動物の話が象徴的です。動物の純粋さを賞賛するそれらの記述を、筆者は、まるで「進化論に逆行」しているかのようだといいます。
 「動物化するポストモダン」という言葉がひと頃流行ったのですが、筆者同様、私もそれを想起しました。ようするに、動物は自然で(素直で)いいのだという繰り返しは、「動物化」することで与えられた環境に従順な受動的人格へと誘導することにほかならないと筆者はいうのです。

 環境保護への呼びかけが繰り返しでてきますが、それらも過去への回帰が主として語られているようです。それらのほとんどが、大部分の子どもたちの住む都市部とはもはやかけ離れた昔ながらの山村や田園風景をモデルとして語られるのです。
 「昔はよかった」「自然に帰ろう」「動物に戻ろう」というメーセージのリフレインは、大部分の子どもたちが住む都市部、そのうちのかなりの部分の子は鉄筋コンクリートの団地やアパートという箱のなかに住んでいるのですが、そうした子たちのリアリティがすっぽり抜け落ちたところで、いわば「田舎はいいが都会は悪い」かのように語られているのです。

 「鉄筋コンクリートの校舎のなかでカラー印刷の教科書」を使い、やはり鉄筋コンクリートの箱の家でゲームにいそしむ子らに、そうした後ろ向きの自然回帰を教えることにどんな意味があるのかを著者は問います。
 それれは、「自分の顔を見ないで他人の顔を批判する」ような欺瞞ではないかというわけです。

 もう一つのテーマ、「他者と出会おう」にも似たような問題があります。
 サバンナで、ライオンの赤ちゃんが生まれ育ち、またシマウマの赤ちゃんも生まれ育つことが「共生」の名で語られますが、それらが、喰うか喰われるかの「共生」であることは語られません。
 また、ほとんどの「共生」が、「みんな違っていいだね」のレベルにとどまっていて、その違いを前提にした「共生」を具体的にどう実現するのか(現実の社会ではそれが求められるのですが)には踏み込まれません。また、自然との共生もよく読んでみると、人間による自然の一方的な利用に帰するのみで、人間のエゴの肯定ともいえるようです。

 これらの問題点のひとつは、それらのフィクションに気づいた子が、「先生、私たちのところにはもう、兎を追うような山もないし、小鮒を釣るような川もありません。大切にしようという自然がもうないのです。それに、ゲームを持っている子とそうでない子とは一緒に遊ぶことは難しいのです」といったとすると、その子は確実に読解力がない子とみなされてしまうのです。
 逆に、それらのフィクションの欺瞞性をどこかで感じながらも、「環境を大切にしましょう。自分とは違うものとも仲良くしましょう」と答えた子は良い評価をもらえ、内申書も良くなるのです。
 これはやはり、一種の強制を背後に伴った刷り込みといえるようです。

 もちろん、自然を大切にしたり、異なるものとの共生をはかることが必要ななことには違いないのですが、それをどのように進めるのかというところで、これら教科書の最大の道徳的欺瞞が露呈します。
 教科書はそれを、「私たち一人ひとり」の課題だというのです。
 「私たち一人ひとり」でなしうることはあるし、またそのための努力を否定するものではありません。しかし、環境にしろ人々の共生にしろ、「私たち一人ひとり」の努力で決して解決しない歴史的社会的な広がりをもった問題であることは改めていうまでもなく明らかなのです。
 ましてや、ここまで広がった環境破壊や、共生が困難なほどの格差の拡大は、子どもたち「一人ひとり」の責任ではまったくありません。

 にもかかわらず、教科書はそれについては全く触れません。それどころか、それらを「私たち一人ひとり」の問題に内面化させる道徳的なお説教によって、それらを真に解決するための社会的な眼差しそのものを閉ざす役割を果たしているのです。

 これがこの本の趣旨です。そして、こうした教科書の読みが、それ自身筆者によるひとつのリテラシーをなしていることはいうまでもありません。そしてこれはまた、それに対する私の読みでもあります。


なお、「国語」というのはほとんど日本のみで通じる言葉で、たとえばイギリスでは、英語のことを National language などということはないようです。これは、国家と民族と言語がそれぞれ単一で対応している、ないしはすべきだという日本特有な偏狭な意識のなせるところで、それ自身が問題含みであることはいうまでもありません。
 「日本人の大半は、《日本語》を用いている」というのが現実であって、それ自身もグローバル化のなかで変わりつつあります。たとえば、リービ英雄が日本語で小説や評論をかくのを、彼は「国語」で書いているとは決していわないのです。

もうひとつ、著者の重要な問題提起に、現行の「国語教育」を広い意味での読解と記述表現にかんする「リテラシー」教育と、文学の享受とに分離すべきだというのがあるのですが、また、稿を改めます。
 

コメント (2)
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