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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【ある現実逃避?】静寂の至福

2012-12-08 02:08:12 | インポート
 写真は本文と関係ありません。「名残の紅葉と落ち葉@鎮守の森にて」

 現代人というのはなんと静寂に恵まれていないことでしょう。
 どこか隔離された空間でひとりで読書や瞑想(私は苦手なのですが)をしていない限り、私たちは否応なしに、ある種応答を迫るような音に取り囲まれています。ましてや他者とともに、ほとんど無音の空間の中にいる機会は少ないと思います。

 私は時折、それに似た静寂を経験することがあります。
 今春、それまでいっていた理髪店が廃業したため、新しく探し当てたところがそんな場所なのです。
 前にも一度書きましたが、その理髪店は聴覚障害者の人がやっているのです。
 彼はただ黙って働くのみで話しかけたりしません。
 もちろん、BGMもなくTVからの音もありません。
 正確にいうと受像機はあるのですが、ここ数回訪れた折、それがつけられていたことは一度もありません。
 当初私は、この話しかけられずに済むということに大いなメリットを見出しました。

 

 昔いっていた「床屋のおやじ」は、饒舌な人で(もちろん悪気はないのですが)、よく話をしました。
 たいていは近所の噂話のようなものですが、よく考えればほかの客に対しては私が俎上に上る可能性もあり、うかつなことはいえないのです。
 また、世上のニュース・ネタに関しても、彼の素朴でナイーヴな価値観や倫理観が何の疑いもなく吐露され、それへの同意を求められる場合もしばしばでした。
 今頃はさしずめ、ご政道むきや選挙がらみの話題になっていることでしょう。

 その話に同意はできず、かといって改まって反論するのも大人気ない(それに相手は刃物を持っている)ので、曖昧にごまかすのですが、どうしても後味の悪いものが澱のように残ってしまいます。
 そこへゆくと、この新しい理髪店は、そうした災難から無縁です。

   

 最初の私の評価はそうした消極的なものでした。
 しかし今は違います。
 この静寂を、日常では得難いものとして享受したいと思うようになったのです。
 
 もちろん、全くの無音ではありません。
 彼がかいがいしく仕事をする音、使っている道具の音、そして、彼の息遣いもかえってはっきり聞こえます。
 また、防音設備をした店舗ではありませんから、ときおり走る車の音や、下校時の生徒たちの声高な会話も侵入してきます。

 

 しかし、彼と私はそれを共有していないのです。
 彼は私の頭に集中し、私は心を開いてそれらの音自身を聞き流せばよいのです。
 その音を介しての応答や、ともにその音を聞く者として相手を意識した反応などはまったく必要ないのです。
 繰り返しますが、無音というわけではないのですがそれが私にとっては得難い静寂なのです。

 やがて音は、脈絡のない自由旋律の音楽のように私の肉体を通り過ぎてゆきます。
 それらの音との関係は、自宅でこうしてこの文章を書いている折の道路の方から聞こえてくる音や、遠くで響くサイレンの音などとも幾分違うのです。
 それはおそらく、自分が何かを能動的にしていてそのかたわら聞こえてくる音と、理髪店の椅子にただ受動的に身を任せて音そのものに浸っていることとの違いかも知れません。

 

 昨日行って来ました。
 おそらく今年はこれで最後でしょう。
 布団に入って寝ようとしたらやたら寒くて身震いするくらいでした。たかが何センチか髪を切っただけでこんなにも違うのだなぁと実感した次第です。


コメント (4)
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