最近、日本語という言葉の周辺をめぐって、それを内部のみならず、外部からも見るようなものを読んだりしています。ようするにごく自然に、日本語で話し日本語で書くということを70年以上にわたって続けてきたにもかかわらず、それについて一度複眼的に捉えてみようということなのです。
そんなわけで、バイリンガル、ないしはマルチリンガルな人たちの書いたもの、水村美苗さんだとかリービ英雄氏だとか、あるいは、多和田葉子さんの書いたものなどをぼちぼち読んでいるのですが、そうした私の日本語への関心を最初に揺り動かしたのがここに紹介するモーレンカンプふゆこさんなのです。
彼女は、22歳で単身、海外に出て、アメリカで国連職員と勤務した後、オランダに渡りそこでオランダの男性と結婚し二児を育て、ライデン大学などで教鞭をとったりした人です。
20年近くの母語との離別のあと、彼女が出会ったのは日本の「うた」や「句」でした。日本語のそれらは何かを意味するという言葉の機能をも超えて直裁的であると思われます。加えて、その七五調は日本語に内在するリズムであり日本人の感性ときわめて親和的といえましょう。
こうして彼女は、朝日歌壇や朝日俳壇へ投稿を繰り返す内、押しも押されぬ常連となり、それのみか「うた」と「句」の両部門にわたって年間最優秀作品に選ばれるに至ります。おそらくこの両部門を制したのは彼女のみだろうと思います。
日本語と隔離されているがゆえに、あるいはそれにもかかわらず、単純な郷愁では測れない日本語へのアプローチの熱い姿勢が選者たちの琴線に触れたのでしょう。
その「うた」の方をまとめた書は昨年早春、『定本 還れ我がうた』として出版されました。そしてそれについては、私も痛く興味を覚え、このブログにも掲載いたしました。
「モーレンカンプふゆこさんの歌集を読む」
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20110412
今回出版されたのは、それとは双頭をなす「句」集の方です。
『モーレンカンプふゆこ句集 定本 風鈴白夜』がそれです。
「風鈴白夜」は帯にも引用されている「黒鉄(くろがね)の風鈴白夜鳴り止まず」によりますが、これはまた、金子兜太氏が朝日俳壇で巻頭に選んだ句でもあるようです。
彼女の句集は掛け値なしに面白いと思います。
折々の主観的情感による句を羅列したものというより、それらを貫いて彼女特有の物語がどの句にも通奏低音のように鳴り響いているからです。
この句集は、そうした特徴をよく生かして編集されていると思います。
第一章 過ぎし日のうた 第二章 風鈴白夜 第三章 旅日記 第四章 水平線のこちらで という大きな枠のなかで、さらに分節化された小見出しがあり、それらの句を読み進めるうちにいつの間にか「ふゆこワールド」取り込まれてゆくようです。
それは22歳の折、まだ船便で渡米してさらにはオランダに住み着くまでの、そして何よりも「うた」や「句」を見出すことによって「行ったっきり」になることなく過ごしてきた彼女の往還運動の記録ともいえます。それらを通じて再び得られた母語の調べ、そして新しい知己との出会い、などなど、それらが絡まりあったところで口をついて出る詩句の集大成がこれだといってもいいでしょう。
それらはまた、句集に挟まれた短いエッセイ風の散文によって、ひとつの有機的な流れとして実感することができます。
寒灯火曲がってしまった曲がり角
という句には、女性が重要な決断をしたあとの思いが込められているのですが、それに付された短い文章には、その決断を凛として生きることへの思いが覗えて寒々とした情景にもかかわらず、むしろ清々しいものを覚えます。
自由愛す熟れし葡萄の木の下に
の句は、1992年度朝日俳壇賞を獲得した句ですが、それに付けられた文章は、その自由が政治的なそれなどによって条件付けられたものではなく、もっと深く生そのものに呼応するものであることをよく示しています。
彼女の写真と作品、そしてその英訳のコラボからなるカードの一部 本書には含まれていません
第三章の「旅日記」には日本も出てきます。彼女にとっても来日はやはり旅なのです。しかし、
不規則動詞全部忘れて天の川
日本語は亡びやしないさ鰯雲
という句には、やはり外つ国であらためて日本語に出会った人のみがもつ言葉への感受性があるように思います。
第四章には、六〇歳になってソウルメイトと再婚する句、その結婚式の模様を詠んだ句がかなり出てきます。
冬曙婚礼の日の白き塔
と、凛としたものがあるかと思うと、
ドレスのシミ幸せになるのがなぜ怖い
という句も混じります。
思わず吹き出しそうになったのが、これらの句に添えられた次の一節です。
「式後、奇妙な経験をする。芸術家と称する写真家が撮った写真をみて怒りがこみ上げてきた。あの美しい瞬間をわざわざ歪めたような写真ばかりだった。この女の人には写真を頼まないように、とくれぐれも頼んでおいたのだが。」
死を身近で見たり、自分自身がそれを意識する句もあリます。
大根をつるりと飲みて癌の友
生き死にのことなど同胞(とも)よ暖炉燃ゆ
しかし、彼女の死生観はある種、颯爽としています。
「自分の死を考えるとき、私は心が優しくなる。どうか皆、あとは仲良く幸せにやってくれ、と。裸木も春になれが緑に満ち、鳥も巣に帰ってくることだろう。」
この句集の最後を飾るのは、
糸の切れた風船白夜の今いずこ
という句です。この「糸の切れた風船」は、母国から離れた彼女の客観的な生きようと、同時に自分自身の主観をも表しているようです。
前の『定本 還れ我がうた』の時も書きましたが、糸の切れた風船のように自由に飛び回るふゆこさんであればこそ、「定本」などと収まりきらずに、さらに今後共、風船爆弾ならぬことばの爆弾を私達のところへ届けてくれたらと思うのです。
それこそまさに「白夜に鳴り止ま」ない風鈴が含意するものではないでしょうか。
前著『定本 還れ我がうた』といっしょに
なお、巻末に、朝日俳壇を中心として彼女のの入選作、どの選者がどの句を選びどう選評をつけたのかを含めた資料が100句近く載せられています。句を作る人にとって面白い資料であると同時に、私のような素人でも「そうか、なるほど」と思って読むことができます。
*『モーレンカンプふゆこ句集 定本 風鈴白夜』
冬花社 〒248-0013 鎌倉市材木座 4-5-6
? 0467-23-9973 FAX 0467-23-9974
URL http://www.toukasha.com
2,300円+税
なお、昨年出版の『モーレンカンプふゆこ歌集 定本 還れ我がうた』
に関しても、上記と全く同じです。
そんなわけで、バイリンガル、ないしはマルチリンガルな人たちの書いたもの、水村美苗さんだとかリービ英雄氏だとか、あるいは、多和田葉子さんの書いたものなどをぼちぼち読んでいるのですが、そうした私の日本語への関心を最初に揺り動かしたのがここに紹介するモーレンカンプふゆこさんなのです。
彼女は、22歳で単身、海外に出て、アメリカで国連職員と勤務した後、オランダに渡りそこでオランダの男性と結婚し二児を育て、ライデン大学などで教鞭をとったりした人です。
20年近くの母語との離別のあと、彼女が出会ったのは日本の「うた」や「句」でした。日本語のそれらは何かを意味するという言葉の機能をも超えて直裁的であると思われます。加えて、その七五調は日本語に内在するリズムであり日本人の感性ときわめて親和的といえましょう。
こうして彼女は、朝日歌壇や朝日俳壇へ投稿を繰り返す内、押しも押されぬ常連となり、それのみか「うた」と「句」の両部門にわたって年間最優秀作品に選ばれるに至ります。おそらくこの両部門を制したのは彼女のみだろうと思います。
日本語と隔離されているがゆえに、あるいはそれにもかかわらず、単純な郷愁では測れない日本語へのアプローチの熱い姿勢が選者たちの琴線に触れたのでしょう。
その「うた」の方をまとめた書は昨年早春、『定本 還れ我がうた』として出版されました。そしてそれについては、私も痛く興味を覚え、このブログにも掲載いたしました。
「モーレンカンプふゆこさんの歌集を読む」
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20110412
今回出版されたのは、それとは双頭をなす「句」集の方です。
『モーレンカンプふゆこ句集 定本 風鈴白夜』がそれです。
「風鈴白夜」は帯にも引用されている「黒鉄(くろがね)の風鈴白夜鳴り止まず」によりますが、これはまた、金子兜太氏が朝日俳壇で巻頭に選んだ句でもあるようです。
彼女の句集は掛け値なしに面白いと思います。
折々の主観的情感による句を羅列したものというより、それらを貫いて彼女特有の物語がどの句にも通奏低音のように鳴り響いているからです。
この句集は、そうした特徴をよく生かして編集されていると思います。
第一章 過ぎし日のうた 第二章 風鈴白夜 第三章 旅日記 第四章 水平線のこちらで という大きな枠のなかで、さらに分節化された小見出しがあり、それらの句を読み進めるうちにいつの間にか「ふゆこワールド」取り込まれてゆくようです。
それは22歳の折、まだ船便で渡米してさらにはオランダに住み着くまでの、そして何よりも「うた」や「句」を見出すことによって「行ったっきり」になることなく過ごしてきた彼女の往還運動の記録ともいえます。それらを通じて再び得られた母語の調べ、そして新しい知己との出会い、などなど、それらが絡まりあったところで口をついて出る詩句の集大成がこれだといってもいいでしょう。
それらはまた、句集に挟まれた短いエッセイ風の散文によって、ひとつの有機的な流れとして実感することができます。
寒灯火曲がってしまった曲がり角
という句には、女性が重要な決断をしたあとの思いが込められているのですが、それに付された短い文章には、その決断を凛として生きることへの思いが覗えて寒々とした情景にもかかわらず、むしろ清々しいものを覚えます。
自由愛す熟れし葡萄の木の下に
の句は、1992年度朝日俳壇賞を獲得した句ですが、それに付けられた文章は、その自由が政治的なそれなどによって条件付けられたものではなく、もっと深く生そのものに呼応するものであることをよく示しています。
彼女の写真と作品、そしてその英訳のコラボからなるカードの一部 本書には含まれていません
第三章の「旅日記」には日本も出てきます。彼女にとっても来日はやはり旅なのです。しかし、
不規則動詞全部忘れて天の川
日本語は亡びやしないさ鰯雲
という句には、やはり外つ国であらためて日本語に出会った人のみがもつ言葉への感受性があるように思います。
第四章には、六〇歳になってソウルメイトと再婚する句、その結婚式の模様を詠んだ句がかなり出てきます。
冬曙婚礼の日の白き塔
と、凛としたものがあるかと思うと、
ドレスのシミ幸せになるのがなぜ怖い
という句も混じります。
思わず吹き出しそうになったのが、これらの句に添えられた次の一節です。
「式後、奇妙な経験をする。芸術家と称する写真家が撮った写真をみて怒りがこみ上げてきた。あの美しい瞬間をわざわざ歪めたような写真ばかりだった。この女の人には写真を頼まないように、とくれぐれも頼んでおいたのだが。」
死を身近で見たり、自分自身がそれを意識する句もあリます。
大根をつるりと飲みて癌の友
生き死にのことなど同胞(とも)よ暖炉燃ゆ
しかし、彼女の死生観はある種、颯爽としています。
「自分の死を考えるとき、私は心が優しくなる。どうか皆、あとは仲良く幸せにやってくれ、と。裸木も春になれが緑に満ち、鳥も巣に帰ってくることだろう。」
この句集の最後を飾るのは、
糸の切れた風船白夜の今いずこ
という句です。この「糸の切れた風船」は、母国から離れた彼女の客観的な生きようと、同時に自分自身の主観をも表しているようです。
前の『定本 還れ我がうた』の時も書きましたが、糸の切れた風船のように自由に飛び回るふゆこさんであればこそ、「定本」などと収まりきらずに、さらに今後共、風船爆弾ならぬことばの爆弾を私達のところへ届けてくれたらと思うのです。
それこそまさに「白夜に鳴り止ま」ない風鈴が含意するものではないでしょうか。
前著『定本 還れ我がうた』といっしょに
なお、巻末に、朝日俳壇を中心として彼女のの入選作、どの選者がどの句を選びどう選評をつけたのかを含めた資料が100句近く載せられています。句を作る人にとって面白い資料であると同時に、私のような素人でも「そうか、なるほど」と思って読むことができます。
*『モーレンカンプふゆこ句集 定本 風鈴白夜』
冬花社 〒248-0013 鎌倉市材木座 4-5-6
? 0467-23-9973 FAX 0467-23-9974
URL http://www.toukasha.com
2,300円+税
なお、昨年出版の『モーレンカンプふゆこ歌集 定本 還れ我がうた』
に関しても、上記と全く同じです。