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【今年もおしまい】門松と国語教科書の中の「日本」

2012-12-31 01:47:44 | 書評
 写真は私が作った門松です。片田舎に住んでいるおかげで何とか素材は揃います。わかりにくいでしょうが、一応、松竹梅が揃っています。それだけでは締りがないので我が家の紅葉したナンテンを添えたらなんとか格好がつきました。
 高さは70センチほどで片側だけです。


          

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 石原千秋の『国語教科書の思想』の続編ともいうべき、『国語教科書の中の「日本」』を読了しました。
 正直いって、前著のリフレインも多く、この人の語り口もだいたいわかってきたので、それほど驚くような刺激はなかったのですが、それでもいろいろ考えさせられたり勉強になるところもありました。

 この書は題名に見るように、小中の国語の教科書がどのように日本を描写し、もってどんな日本像を子どもたちに内面化させようとしているかにあります。

 2008年、教育基本法が改正となり、そのひとつのキーワードは「伝統の重視」でした。
 これらがどのように教科書に反映しているかについて著者は、その教材においての「昔話」と「思い出」の多さ、しかも相変わらず「田園風景の挿絵」が多いことを見出し、そうしたノスタルジーは、もはやその7割が都会生活を送っている子どもたちとの間に著しい齟齬をきたしていると指摘します。
 総じていって、それらは「古き良き日本が肥大化され独り歩きする仕掛け」だというのです。

 またそうした伝統重視はともすればテクノロジーそのものへの情緒的な否定に陥りがちで、高度成長期のテクノロジー礼賛と表裏をなすことが指摘されています。
 さらに日本語(国語)については、他言語との比較立証を欠いたままでその「豊かさ」を強調し、根拠なき「豊かな日本語」の称揚に満ちているとします。

 子どもたちは、氾濫するITテクノロジーのまっただ中にあり、効率本位の都会ぐらしやそれに準ずる生活を送りながら、一方では道徳的説教を伴った「古き良き日本」という価値基準を与えられ、その間で引き裂かれているというわけです。

 これらの裏付けとしての実際の教科書からの引用は、なるほどという説得力のあるものが多いのですが、反面、著者のないものねだりではという箇所が数多く見受けられます。
 例えば、小1の『じゃんけん』という教材からの連想で、「グー・チョキ・パー」が否定的差異の記号でしかないところからソシュール以降の言語論的転回との関連を指摘したりするところです。
 言語論的転回とは世界がまずあって、それを言語が描写するのではなく、言語が(物自体的な)世界を分節化することによって初めて世界が立ち現れるということなのですが、それをこの段階で云々することはさして意味があるようには思えません。

 さらに小2の教材『お手紙』からは、ジャック・ラカンの「手紙は届く」から、ジャック・デリダの「手紙は必ず正しい宛先に届く」という精神分析と哲学の融合のような話が展開されるのですがこれも同様です。
 また、「他人の痛みをどうして知ることが出来るか」というヴィトゲンシュタイン的な設問についても触れられたり、同じくヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」という概念への言及に及び、別の箇所では、フロイトのいう「不気味なもの」についても触れられます。

 いってみれば一昔前の現代思想ブームのような観を呈するのですが、これらはそれ自身、著者である石原氏の「読み」であって、現実にそれを教えることは(氏もほのめかすように)無理というものです。小中の教室で、そうした哲学的テーマを咀嚼して子どもたちに教えることは不可能なのです。
 おそらくそれらを教材として採用した側も、そこまでの深読みはしていないはずです。

 話が逸れました。
 著者の主張は、前著同様に「国語教育はどんな教材を選び、どんな教え方をしても思想教育たることを免れ難い」というところにあります。しかし著者は、だからといって国語教育そのものを否定するのではなく、むしろ、だからこそその内容を考えなければならないのだといいます。

 そのとおりだと思うのですが、そしてまた、現在の国語教科書が(古き良き日本という)内面の共同体を作る装置に化しているという主張には十分同意できるのですが、ではどうすべきなのかはとても難しい問題だと思います。
 確かに平和教育も環境教育も、ひとりひとりの内面の問題に還元されて歴史的社会的広がりから閉ざされたお説教に終わっているのは著者の引く例証から明らかなのですが、そこからの脱却は容易ではありません。

 著者も指摘するように、ものごとを自由に見ることができる子がいて、そうした教科書の欺瞞とは違う見解を持ったとしても、その子にはさらなる難関が待っています。
 それは上級学校への入試という関門です。
 それら入試は、教科書の示す「思想」をどれだけ内面化しているかをテストします。したがってそのパラダイムから外れた子は、その関門の前で拒否されてしまうのです。

 こんな風にしてまとめてしまうとミもフタもないのですが、国語は決して日本語を習得させるにとどまらず、それ自身がある種の思想やイデオロギーからなっていて、それらの内面化と日本語(国語)への招請が同時的な事象であることを気づかせてくれる点でこの書は一読の価値があると思います。


この一年、いろいろ右往左往しながらの文章を綴ってきましたが、今年はこれで幕を閉じます。
 それでもお読みいただいた皆さん、ありがとうございました。
 暮れの選挙による政変は、既にじわじわっとした変化をもたらしつつありますが、来年はもっとドラスティックな変化があるやもしれません。
 そんな中ですが、皆さんがいいお年をお迎えになることを祈ります。
 来年もよろしくお願いいいたします。




 
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3 コメント

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Unknown (千秋楽)
2013-01-01 02:20:22
はじめまして。

拙著を2冊も丁寧に読んでいただいて、ありがとうございました。現在の「国語」は思想教育にならざるを得ないから、「リテラシ-」と「文学」に分けて、「文学」は採点しないというのが、私の主張です。

高校ですばらしい国語教育を受けたから国文科に来ましたという学生に、「では、試験はどうだった?」と聞くと、戸惑って「先生に気に入りそうなことを書いた」と答えるのが常です。これは、まさに現場の先生方の最大の悩みなのです。おっしゃるように、試験をどうにかしなければなりません。「リテラシー」だけ試験をすればいいというのが結論です。

今度の政権で、その逆の方向へ行くようですが。困ったものです。

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Unknown (六文錢)
2013-01-01 03:31:40
>千秋楽様
 ワオ~、著者のお出ましですか。
 そんなことならもっと丁寧に読んでおけばよかったといまさらながら悔やんでいます。
 労作に対して浅薄な読みで申し訳ありません。

 読みが不十分だったり、部分的な誤解はあろうかと思いますが、それでも、曲解したり、貴著の意図を捉え損なったりはしていないと思います。
 全体としては、こうしたお仕事に対して敬意を持っていますし、私自身大いに勉強させていただきました。

 「リテラシー」と「文学」との棲み分けに対しては異論ありませんし、必要なことではないかと思います。
 
 ご承知かと思いますが、水村美苗さんに、『日本語が亡びるとき』というたいへん刺激的なタイトルの本がありますが、その主張は、インターネットの時代に世界言語として英語が幅を利かせつつあるが、それへと還元できる言語表現は、「テキストブック」化されうる知識の言葉のみであって、書かれるべき言葉、読まれるべき言葉、つまりテキストブック化し得ない文学の分野は厳然として存在し、したがって、それに対応した日本語の習得は依然として必要だということです(ここでいう「テキストブック」は、いわゆるテキスト論で言うところのものとは違うことはご承知いただけるかと思います)。

 この主張と、貴著のそれとは幾分のズレはあるものの、オーバーラップする点があるように思います。

 今回の政権下で、教育全体においても「日本を取り戻す」の方針のもと、貴著でも繰り返し述べられている「古き良き日本」の押し付けが強化されるのではないかという危惧を共有いたしております。

 私は、貴著の中でもすこしお触れになっていた、軍国少年と戦後民主主義とをリアルタイムで経験し、右往左往した年代です。
 1945(昭20)年の敗戦時に国民学校一年生でした。




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Unknown (千秋楽)
2013-01-01 18:09:36
レスポンス、ありがとうございました。

そうでしたか。それでは私よりも16歳ほど多く日本の空気を吸っていらっしゃるわけですね。私は評伝を読むときなどには、その人が戦後まで生きたかどうかについ注目してしまいます。そして、戦後をどう見たかを聞きたくなります。
安倍さんは「日本をとりもろしゅ」(あの人の滑舌の悪さでは、こう聞こえるそうです)ための教育改革をするようですが、その日本はどう見ても戦前の日本です。あの「「こころ」のノート」には権利を主張するな、義務だけこなせという趣旨のことが書いてあります。「国防軍に入って人を殺して、貴様も死んでこい」と上司にいわれたら「はい」と答える「日本人」を「育成」するのが目的なのでしょう。
恐ろしいのは、この不況下では、国防軍へ入隊する選択肢を選ぶ可能性が高くなるだろうことです。アメリカの貧困層が入隊するのと同じです。そうならないように、景気をよくしてもらいたいものです。

実は私は、どうせ国語が思想教育ならと、「天下の暴論」を密かに持っています。
国立や公立はダメですが、私立ならば、自由に書いてもらって、その学校が「これは面白い」とか「これは伸びる」と思った受験生を合格させればいいというものです。要するに「好み」で合格させるのです。
受験生はたまったものではありませんが、中学入試でトップクラスの学校では、少しだけそういう傾向があるのではないかと推測しています。私立には「校風」というものがあるのですから許されるかもと思ってはいますが、実際には受験対策ができないので、ダメですね。

私も教師ですから、教育に関してはいろいろ意見がありますが、力がないので、本を書いて吠えているだけです。それがこういう出会いを生んだのですから、まったく無意味ではなかったのかと、自分を慰めています。

どうぞ、お元気でお過ごし下さい。

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