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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私たちがが思考するということについて

2012-12-16 22:40:00 | インポート
 女性が思考をするということについての、またしても多和田葉子さんからの引用です。
 「日本で女に生まれると、理屈でものを考えることを楽しむ場所があまりない。理屈が出ると官能から切り離されてしまうようで、哲学的なものはすべて生活とは関係のない、子供っぽい、ばかばかしいことのように見えてきてしまう。それは必ずしも、社会が女性に哲学を禁止しているようなことではなく、魅力が感じられないように仕組まれているような気がする。ものを考えることに快楽を覚えるのはある種、子どもじみたことではあるけれど、一方、考えることで、生活そのものが変えられる場合は、考えることの意味も変わってくる。」

        

 ここで述べられていることは微妙です。
 というのは、後述するように確かに女性が歴史的に背負っているハンディはあるものの、そうした性差にかかわらず、哲学や思考そのものがいまや問われているからです。
 
 近年では、哲学や思考それ自身が人間のひとつの生きようであることが一切考慮されず、まるでそのへんに転がっている道具のように、「それは何の役に立つのだ」という問いがつきつけられています。
 その場合の「役に立つ」はたいてい、「生産」とか「幸福」を指標として語られています。前者はいわゆる「生産力至上主義」ですし、後者は私の造語でいえば「幸福シンドローム」*というべきもので、いずれも近代以降の「症状」です。
 
 一見、そんなものがなくても人は生きることができるかのように思われます。しかし一方、それがどのように等閑視されようと、実際にはそれと接しながら生きている多くの生があることも事実なのです。
 これはいささか遠慮したいい方で、実のところはそうした無用の用のようなものの存在が人の生き方に大いに関連しているのですす。

 それがなければ、人は生産と消費をする動物としての生(ゾーエー)を生きるに過ぎなくなります。実はそうした無用の用のようなものとの関わりが人の生をまさに人としてあらしめている(ビオス)ともいえるのです。
 これに関しては、ディオニソス的な裸の生(ゾーエー)が理性的な生(ビオス)を食い破ってそれを更新してゆく逆の側面もあるのですが、煩雑になるのでそれは割愛します。

 さて、冒頭の女性が思考することに戻りましょう。
 またしても多和田さんからの孫引きですが、アメリカのある日本文学研究者は以下のようにいっているそうです。
 「日本の女性の文学に出てくる家は、住む場所としての家ではなく、そこから出てゆく場所としての家であることが非常に多い。」
 これはフロベールのノマや、イプセンのノラを思わせるいい方ですが、はたして今なおその段階なのかどうかは、私には判断不能です。いずれにしても「家」の拘束力は女性の思考することの桎梏である場合が多いとはいえるでしょう。

 総じて、男女ともに思考することからの隔たりは大きくなっているのだろうと思います。前項で引用した、やはり多和田さんの言葉のように、思考の代わりに感性を対置したところで、感性そのものが思考抜きにはありえないものであり、その感性を研ぎ澄ますのはまさに思考の力なのだといえます。

 人倫に対する態度でも同じことがいえます。他のところで述べたことがありますが、ユダヤ人数百万の殺戮に関わったアイヒマンは、当時のドイツの法に忠実であっただけだという弁明に終始するのですが、それに対するハンナ・アーレントの判決はこうでした。
 「なるほど彼は上司や法に忠実でなおかつ明敏ですらあった。しかし、彼に欠如していたのは思考するということだった」と。

     自民党圧勝のニュースを聞きながら・・・・。

「幸福シンドローム」
 私の造語ですがこんな意味を考えています。
 人は幸福であった方がいいに決まっていますが常にそうであることは出来ず、それは僥倖なのです。だからかつて人びとは幸福な瞬間を「有り難いこと」と表現しました。
 しかし今や人びとは、あらゆる瞬間において幸福であるべきだと考え、そうでない場合はルサンチマン(怨恨)に溺れたり、果ては幸福への短絡をもとめて卑しい行為や犯罪にすら至ります。
 まさに幸福症候群のなせる技です。

 

 

コメント (3)
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