六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

新撰「花言葉風四文字熟語」 その2

2010-01-13 03:12:40 | よしなしごと
 水稲持参
 遠足などで言われた。戦後、貧しくて水筒のない子も。竹筒の子もいた。   
 
愛結<style="color:#990000"> 
 「愛を連ね、根を結ぶ」で意外とお目出度い言葉になった。

 国際睡蓮
 先年亡くなられたフジヤマノトビウオ・広橋広之進さんもその理事だった。

西瓜 
 脂肪、タンパク質と並んで三大栄養素。西瓜の中にはあまりない。

 青春桜花
 まさに爛漫の桜のごとし。私のように散ってしまってから悔やんでももう遅い。

          次頁山椒 
 次の頁を参照したら、ピリリと辛い言葉が・・・。

 一心不
 懸命に頑張れば美しい花が咲くこともある。とかく蘭は難しい。

球根告白 
 「婚活」の結果、とうとうここまで漕ぎ着けたが、さて返事は?

言飛語  
 最近はもっぱらネットの中で横行している。え?これもその仲間?

<番外篇>薔薇益軒
 83歳の折りに書かれた心身健康の秘訣が『養生訓』。それに曰く。
 「養生の術を学んで、よくわが身をたもつべし。是人生第一の大事なり
  慾を欲しいままにして、身を亡ぼし命をうしなふ事、愚かなる至り也
  命短かければ、天下四海の富を得ても益なし(巻第一 総論 上) 

                    また続けるかもね。 六



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新撰「花言葉風四文字熟語」

2010-01-11 15:35:43 | 写真とおしゃべり
 葉蘭万丈
 葉蘭が乱れ繁殖するさま。中には万丈に達するものも。   
 
          千両役者 
 その上に万両というのもあるが、万両役者とは言わない。

 大根役者
 読んで字のごとしだが、大根は漬け物やおでんネタを演じるので少々失礼。

紅梅意欲 
 収入が抑えられているのに湧くわけがない。せめて梅でも眺めて・・・。

 水仙入学
 もうこれで決まった人は遊んでる。寒風に凜と咲く水仙を見習うべし。

 気分紅葉 
 せめて気分だけでも極彩色でいたいもの。

 造反百合
 若い人にはわからんだろうな。中国は文革時代の言葉。え?年寄りにも分からない?「有理」と「百合」では無理がある?こりゃまた失礼!(造反無理?)

  価上昇 
 大衆投資家はさんざん痛めつけられているから今さら少々上がってもねぇ。

 田中 
 最近あんまり出てこないなぁ。誰かがまたスカート踏んづけているのかなぁ。
 あ、この写真?これ槇(マキ)の木とその実です。

<番外編>
牡丹博徒 
 今をときめく寺島しのぶのお母さん、冨司純子さんのかつての当たり役。
 え?「葉」じゃなくって「緋」だろうって。
 「こんまい枝葉末節にこだわり、四の五のおっしゃるのは、みっとものうござんす」

                    また続けるね。 六


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「仕分け作業」を生き延びて・・・回りの小物たち

2010-01-09 14:54:53 | 想い出を掘り起こす
 ものがなかなか捨てられない私も、例えば年末の大掃除の折など幾分かは整理する。
 しかし、その整理の基準が曖昧なため逡巡することしきりである。
 捨てようか捨てまいか、それを前にして考え込んでしまう。

    
        勉強会の仲間・木村さんがくれた三分の水時計
       これと一緒に入院中の母のための小物をもらった


 有用かどうかで判断するなら楽である。もっとも有用の範囲や、何をもって有用かを考えてしまう余地が残るのだが。
 しかし、その基準を用いたらかなりのものは不要と言うことでゴミ箱行きになるのであろう。

 
  小銭入れをなくしポケットから出し入れしていたら見かねて女性がくれた
          今は使っていないが捨てがたい


 不要にもかかわらず、また、例えば芸術品や装飾品としての価値がないにもかかわらず捨てられないものたちにはやはりそれと絡んだ想い出のようなものがある場合が多い。
 ここに挙げるものはすべて私のデスクから手の届く範囲にあるものだが、いずれも10センチ未満のものばかりだから、何かの拍子に他のものの下や蔭になって見あたらなくなったりする。しばらく見かけなくとも忘れている場合が多いのだが、ふと思い出したりするとそれを懸命に探している自分がいる。

    
     モーツアルトイヤーの1991年、バレンタインディにもらった
           その年、ザルツブルグへ行った

 
 見つからないと、とにかく落ち着かない。
 見つかればホッとするのだが、あんなに懸命に探していたくせに、なぜこんなものを必死に探していたのだろうかとその間に費やした時間を悔やんだりするのだから勝手なものである。

    
           第一回今池祭(1989年)で買った
            今も鉛筆を運ばせている(嘘)


 まあ、そのものより、それに付着した想い出が重要なのだとしたら、それはある意味でのフェティシズムかも知れない。かといって、想い出だけを保ち続ければいいだろうと言うことにはならない。そのものが想い出を誘導し、それにより誘発された想い出がそのものを捨てがたいものにするからである。

    
        もう、世界にひとつしかないかも・・・捨てがたい
 
 ここに載せたものは、流行の言葉で言えば、何度かの「仕分け作業」に耐えて生き延びてきたものたちである。
 これらが私の生きてきた各瞬間に連なるとしたら、それはまた、私自身の歴史の節目を語るものともいえる。
 これらの小物を見つめながら、「遠い目」をしている自分がいる。
 





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『マイケル・ジャクソンTHIS IS IT』を観る

2010-01-08 03:16:45 | 映画評論
          

 標題の映画を観た。
 別にMJのファンでもないし、さほど彼に関心があったわけではない。また、亡くなったからといって「彼は偉大なアーティストであった」などとしたり顔でいうつもりもない。
 ただ、映画として面白そうだから見に行ったというのが正直なところである。

 しかし、彼との縁がまるっきりなかったわけではない。彼がその兄たちと「ジャクソン5」として活躍していた1960年代をリアルタイムで知っているからだ。
 まだ、5、6歳だったろうか、いずれにしても一番ちびでこましゃくれた彼のキーンと張りつめた高音はすばらしかった。
 その歌声は、後年の彼を思わせるものがあったというと嘘になる。

 なぜなら、そのジャクソン5のコピーのような日本のグループ、「フィンガー5」の一番ちび、晃が、変声期を迎えるにあたってハイトーンが出なくなり、急速に失速した事実もリアルタイムに知っているからだ。
 (ついでながら、この晃もすばらしい歌唱力であった)

 MJの映画に戻ろう。
 この映画は、彼のロンドン公演のためのリハーサルを撮ったドキュメンタリーであるが、なかなか素晴らしかった。
 MJの歌は、あれだけのエンターティナーだから私のような無関心派の耳にも届いていて、概略どのような歌を歌う人かは知っていたが、こうして改めて見聞きしてみるとやはりなかなかのものである。
 
 歌もダンスも良い。彼のムーン・ウオークというのがしばしば出てくるが、それがなくとも素晴らしい。
 私が感心したのは、彼の立ち姿と歩く姿勢が素晴らしいということである。彼の舞台には、鍛錬されたダンサーたちがともに立つ。しかし、それらの優れたダンサーたちの中でも彼の立ち姿と歩く姿はとりわけ目立つのである。

 映像も美しく、ドキュメンタリーとしても一級品である。
 リハーサルだからしばしば演技は中断され、MJとバンドやスタッフとの対話が挿入される。そうした夾雑物がまるでそれ自身音楽であるかのように呼応している。
 こうしたやりとりを観ていると、完成した舞台を客席から正視するよりも、実ははるかに面白いのではないかと思う。

 そんなことを思いながら観ていたら、どこかでこんな感じの映画を観たことを思い出した。数年前に観た、「ベルリン・フィルと子どもたち」だ。シチュエーションも違うし音楽のジャンルも違うから、頑固なクラシックファンには叱られそうだが、リハを重ねて表現力を高めて行く努力には変わりあるまい。

 正直言って彼の表現力とリハの面白さに心酔しながら観ていた。
 そしてそこでフト思い当たったのだ。1960年代に歌っていたあの少年が、今画面の中にいるMJだとしたら、彼はいくつなのだろうかと・・・。
 
 帰ってから調べてみたら、1958年の8月生まれだから、享年50歳ということになる。しかし、画面で見る彼はとてもそうは見えない。あの激しいダンスとともに声が割れたり涸れたりすることなく歌いきることは並大抵ではないだろう。
 いろいろ取りざたされているようだが、瞬間瞬間の燃え尽きるような彼のパワーが、彼の命を縮めたのかも知れないと思った。

 振り返って私の50歳はどうだったろうか(こらこら、そんなもん比較するな)。当時私は、あるイベントを成功させるために懸命に飛び回っていて、それなりには格好を付けていたが、MJのあのアウラのようなものは残念ながら持ち合わせてはいなかった(当たり前だろう)。

 しかし、あの映画で歌い踊っていたMJが、亡くなる二日前だということを知ると、やはりファンならずとも惜しい気がする。

 

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「プラトニック納豆腐」普及協会から(レシピ付き)

2010-01-07 01:29:01 | 現代思想
   写真は本文と関係ありません。

 「納豆」と「豆腐」は意味するところが逆だとず~っと思っています。
 どうしてかというと、豆を納めるのは「とうふ」の方であり、豆を腐らすのは「なっとう」の方だと思うからです。
 
 一度、国語審議会に掛け合ってみようかと思うのですが、おそらく相手にされないでしょう。
 そこで、わが家だけでもその名称を逆転させてみようかとも思うのですが、「私的言語はあり得ない」のだそうですから、無駄な抵抗に終わりそうです。

    

            わが家の年越しの紅葉・1 南天

 でもこのままでは腹の虫が治まらないので、それを解消する方法を考えてみました。
 ようするに、この両者を混ぜ合わせてしまって、どちらが納豆でどちらが豆腐かを分からなくしてしまおうというわけです。
 それが意外とうまく行って美味いのです。

 ここまで読んで、納豆と豆腐を混ぜて食べるだけだろう?そんなことならとっくにしているわいと思ったあなた、あなたはいささか早計です。
 その理由は最後まで読んでいただければ分かります。
 以下がそのレシピです。とくにその後半にご注意下さい。

 
            わが家の年越しの紅葉・2 雪柳
              白い小さな花が咲く木


1)少し深みのある鉢に、納豆の小パックを一個分入れる。
  この納豆は小粒のものが好ましい。
2)そこへ、ネギの小口切りやカイワレ、時期によってはミョウガ、木の芽、などなど、香りのするものをお好みによって適度に加える。
3)カラシ、ワサビなどの香辛料もお好みで加える。
4)納豆だけではやや多めかなと思われる醤油を加え、上記をよく混ぜ合わせる。
5)さらに豆腐半丁分ぐらいを1センチ角のさいの目に切りそれを加える。
  この場合、豆腐は少し水切りをした方がいいが、必須条件ではない。
6)それらをひたすら混ぜ合わせる。豆腐が崩れるのはいっこうに構わない。
7)ここまでなら、な~んだで終わるのだが、ここからが肝要。
  がっついてそれをすぐに食べてはいけない。
  最低、一五分から三〇分ほど、そのまま寝かす
8)するとアーラ不思議、納豆プラス豆腐といった単純な加算では得られないクリーミーで不思議なな食感に変るのだ。
9)鉢からじかに食してもいいが、撹拌した跡などが残り視覚的にあまりよくないので、盛り付けにこだわるむきは、大きめの鉢かボウルで作り、改めて別の器に盛り付けるとよい。
10)これを総括するに、実態とは異なる命名をされた両者が、その恩讐を乗り越えてひとつになろうとする意志の力が働くのかと思われる。いってみれば、ふたつに分割された男女が、相手を求めて合体するというプラトン流の愛の力に似たものの作用といっていい。
 敢えて、「プラトニック納豆腐」と名付ける所以。

    
          わが家の年越しの紅葉・3 木通(あけび)

 たかが納豆と豆腐を食すのに、つまらん屁理屈をと思われそうですが、まあ、つまるところ、理屈はともかく美味いのです。
 
 「寝かす」のがポイントです。「寝る子は育つ」のですから。


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監禁でもされないと治らないのかも・・・

2010-01-05 01:23:51 | よしなしごと
   写真は雪に明けた元旦のわが家

 雪で明けた正月もつつがなく三が日を終え、世間ではそろそろお仕事ムード、私も締め切り(4日)分の仕事と、とあるネット上に提出するレポートに取りかかり、余勢を駆って予定された会合用のレポート作成に取りかかるなど、自分を追い立てています。
 そうしないとついだらだら過ごしてしまうからです。

 
       私の部屋から 降りしきる雪 でも、なんて電線が多いんだ

 白状しますが、私は怠け者で誘惑に弱いのです。
 書き物をしている途中に、頭の切り替えに「ちょっとだけよ」のつもりで始めた五目並べにすっかりのめり込み、気がつけば、「エッ、もうこんな時間」といった具合に、ただでさえ残り少ない老後の時間をあちこちに振り撒いてしまうのです。

 
       ガレージから 上の雪庇に要注意 頭の上に落ちたら・・・

 遊んでばかりではないのですが、ネットで何かを検索し始めると、ドンドン枝葉の方に入り込んでしまって、ついには何を調べているのかも忘れ果て、全く関係のない箇所を延々と読み漁っていたりします。
 小学校の頃、通知表に「落ち着きがない」と書かれて、「何言ってやんでぃ」と反発したものですが、あの教師ちゃんと正鵠を射ていたようです。

 
                息子の嫁さんの車

 何かまとまったものを書くことになりました。
 頭の引き出しをひょいと空けて、これこれといって取り出し、文章にすればという器用なことは出来ません。かつてはそうしたストックも多少はあったのですが、もうほとんどが忘却の彼方です。残っているものがあっても、もはやアップ・トゥ・デイトではありません。

 はじめっから勉強し直さなくてはなりません。
 読みます。読みますとも。でも、懸命に読むのですがなかなか頭に入りません。
 せっかく目から仕入れた活字たちが、高野豆腐のようにスカスカの脳細胞の間を易々とくぐり抜け、みんな蒸発し発散して行くのです。

 
       ブロック塀の雪 上方は桜ん坊がなる木 枝折れするなよ

 ですから私の部屋は、そうした未消化の活字たちがあちこちにとぐろを巻いていて、私を嘲笑しています。
 私はそいつらをねめつけて、今にお前らをぎゅっとまとめ上げて私の作品に仕上げてやるからなと内心、密かに決心するのですが、どうやら彼らの逃げ足の方が早そうです。

 え~と、この本は16日には図書館へ返すのだから一日○○ページのペースは確保しなければ・・・アッ、いけない、この本だけではなかった、あと二冊、合計三冊をクリヤーしなければ・・・。
 うわ~、パニックじゃぁ、なんて思っていたら突然なんです。
 ああ、驚いた。
 背後でドシンという音が響いて、近くにいたカラスが「カァ~」とけたたましく鳴いて飛び立ったのです。
 正月に降った雪が、午後からの陽射しで緩み、屋根から滑り落ちたというわけです。で、その様子を見にカメラをもって・・・。

 
                私の家族たち

 どうしてこう注意力が散漫なんでしょう。
 ダメだなぁ、こりゃ。
 誰か私を監禁して下さい。
 いいえ、何も要りません。
 ほんの少しのお酒と、あなたの優しい眼差しさえあれば・・・。

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「津軽海峡冬景色」のメロディでどうぞ 私の元日です。

2010-01-03 02:27:00 | ポエムのようなもの
 

 私の元旦を詩にまとめてみました。「津軽海峡冬景色」のメロディでお歌い下さい。
 これは、07年に亡くなられた作詞家・阿久悠さん、ならびに、昨年なくなられた作曲家・三木たかしさんへのオマージュです。
 なお、写真は、正真正銘、この元旦の長良河畔です。

 

♪長良河畔は冬景色♪
  (「津軽海峡冬景色」のメロディでどうぞ)

 茜部(あかなべ)発の市内バスを降りたときから
 長良の川は雪の中
 一緒に行った家族たちは 誰も無口で
 ありつく飯を思ってる
 私は冷え症 携帯カイロもなく
 凍え切った財布抱え 震えていました
 ああああ~ 長良河畔は冬景色

 

 ごらんあれが信長の居城跡だと
 金華の山を指でさす
 息で曇るシニアグラス拭いてみたけど
 はるかに山が見えるだけ
 さよなら信長 あなたは遠すぎる
 雪のつぶてコート濡らすアウトレットの
 ああああ~ 長良河畔は冬景色

 

 さよなら青春 私は思い出す
 若き日々にここで泳いだ フンドシ一丁で
 ああああ~ つのる回想 冬景色







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「寅・虎・トラ」 七回を回想する

2010-01-01 02:53:08 | 想い出を掘り起こす
 写真は正月のお花です。とりわけ葉ボタンの多様な美しさをご堪能下さい。
 
 おめでとうございます。
 寅年、私の年です。
 生まれた年を含めると7回目の寅年です。
 回顧してみます。

 

1) 1938年
 生まれたとき。まだ小さかったのでよく覚えていません。
 あとで調べたら、戦時色が濃厚になり始める年でした。

  


2) 1950年 
 朝鮮戦争のまっただ中、日本は特需景気と金偏(かねへん)景気に湧いていました。まだ残っていた焼け跡の空き地のような所を漁って、屑鉄を拾い、業者の所に持ってゆくと、キャラメルが買えるぐらいになりました。
 一晩に数百メートルにわたって電線がなくなるというような事態が各地で発生。

 

3) 1962年
 青春を賭けた試みの挫折で悶々としながら過ごしていました。何も考えず、「優しく」生きようかなとも思っていました。

 

4) 1974年
 10年間のサラリーマン生活を経て、居酒屋の亭主になっていました。厭世的なな気分のうちにありながらも、少しずつものを読み始めた頃です。

 

5) 1986年 
 「ニューアカ」などの刺激もあり、自分の前半生を総括するつもりで、真剣にいわゆる思想書などと取り組むようになりました。

 

6) 1998年
 どのように居酒屋稼業に幕を引くかと将来を考え始めた頃ですが、その年末、脳梗塞(幸い軽微でしたが)で入院することとなり、閉店が現実的な課題になり始めました。1999年末に閉店。

 

7) 2010年
 その後は飲食店のコンサルタントを経由し(共同企画者の死亡で挫折)、フリーライターの真似事などしながら過ごしてきました。
 ライターの仕事はささやかながら堅調で、それに関連した講師のの要請などもあったりします。
 ゴーストライターもしています。
 あなたの自伝などお任せ下さい。この世に生を受けた実に希有な人として描いてみせます。成金などの「立志伝」大歓迎。「清和源氏」の血統書付きのサービスも致します。

 

8) 2022年
 多分、あちら側にいっていると思います。
 え? 正月そうそう縁起でもない? でも事実ですから致し方ありません。
 あなただって分かりませんよ。必ずしも年の順ではないのですから。

 今年も、長ったらしくウザイものを書き連ねる所存。
 読まれなくて当然、読んでいただければ僥倖。
 それでも読んで欲しい! 読んでね。

    

 とまあ、正月らしく花の写真で飾り立てたのですが、現実には雪の正月になってしまいました。
 以下は、新年を迎えた直後の時間、窓の外を撮したものです。


 
 
 
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