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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「仕分け作業」を生き延びて・・・回りの小物たち

2010-01-09 14:54:53 | 想い出を掘り起こす
 ものがなかなか捨てられない私も、例えば年末の大掃除の折など幾分かは整理する。
 しかし、その整理の基準が曖昧なため逡巡することしきりである。
 捨てようか捨てまいか、それを前にして考え込んでしまう。

    
        勉強会の仲間・木村さんがくれた三分の水時計
       これと一緒に入院中の母のための小物をもらった


 有用かどうかで判断するなら楽である。もっとも有用の範囲や、何をもって有用かを考えてしまう余地が残るのだが。
 しかし、その基準を用いたらかなりのものは不要と言うことでゴミ箱行きになるのであろう。

 
  小銭入れをなくしポケットから出し入れしていたら見かねて女性がくれた
          今は使っていないが捨てがたい


 不要にもかかわらず、また、例えば芸術品や装飾品としての価値がないにもかかわらず捨てられないものたちにはやはりそれと絡んだ想い出のようなものがある場合が多い。
 ここに挙げるものはすべて私のデスクから手の届く範囲にあるものだが、いずれも10センチ未満のものばかりだから、何かの拍子に他のものの下や蔭になって見あたらなくなったりする。しばらく見かけなくとも忘れている場合が多いのだが、ふと思い出したりするとそれを懸命に探している自分がいる。

    
     モーツアルトイヤーの1991年、バレンタインディにもらった
           その年、ザルツブルグへ行った

 
 見つからないと、とにかく落ち着かない。
 見つかればホッとするのだが、あんなに懸命に探していたくせに、なぜこんなものを必死に探していたのだろうかとその間に費やした時間を悔やんだりするのだから勝手なものである。

    
           第一回今池祭(1989年)で買った
            今も鉛筆を運ばせている(嘘)


 まあ、そのものより、それに付着した想い出が重要なのだとしたら、それはある意味でのフェティシズムかも知れない。かといって、想い出だけを保ち続ければいいだろうと言うことにはならない。そのものが想い出を誘導し、それにより誘発された想い出がそのものを捨てがたいものにするからである。

    
        もう、世界にひとつしかないかも・・・捨てがたい
 
 ここに載せたものは、流行の言葉で言えば、何度かの「仕分け作業」に耐えて生き延びてきたものたちである。
 これらが私の生きてきた各瞬間に連なるとしたら、それはまた、私自身の歴史の節目を語るものともいえる。
 これらの小物を見つめながら、「遠い目」をしている自分がいる。
 





コメント (2)
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