瀬見井久君が12年間つとめた犬山市の教育長を辞任するそうです。
瀬見井君などと君付けで呼ぶのは、彼が私の学生時代の同級生だからです。
特別に親しかったわけではありませんが、会えばもちろん挨拶のみならずいろいろ言葉を交わす仲でした。まだ犬山市の教育長になる前、愛知県職員のころには私のやっていた居酒屋にもしばしば来てくれて、私もその席に招かれ歓談したものでした。
瀬見井君が辞任などというと、しばらく前でしたら、回りの頭の固いどうしようもない連中に責め立てられて、刀折れ、矢尽きたかといったところだったでしょうが、この時点での辞任は、彼の教育への情熱と理念が堂々と認められた結果の凱旋ともいえるものです。
彼を一躍有名にしたのは、文科省が現場の意見(組合だけではないですよ、校長など管理者にも反対が多かったのです)などを無視して一方的に進めた全国学力調査への参加を、唯一見合わせてきた自治体の教育長だったことです。
今では明らかですが、この「調査」と名付けられたテストは、自治体別、学校別の学力を競わせる一種のレースで、学校や地方によっては、点数を底上げしたり、成績の悪い子を当日無理矢理休ませるなど、ただただ、教育現場を荒廃させるものにすぎませんでした。
はたせるかな、調査の結果は、成績とその都道府県や自治体の一戸当たりの所得とがほぼ比例することを示し、ようするに、教育投資というゼニ・カネの問題に還元されるというものでした。そして敢えていうならば、そんなことは毎年百億近い金をかけて全国一斉にテストをしなくとも、ちょっと想像力を働かすならば誰にでも分かることなのです。
そこで現れた結果が現場を締め付け、「学力調査に向けた教育」という本末転倒の結果すら生み出し、教育現場をいっそう混乱させるものでした。
瀬見井君もちろんそれらを予見して参加しなかったのですが、彼の功績はそうしたマスコミが取り上げやすいセンセーショナルな事柄にあったばかりではなく、もっと地味な、本当に子供に向き合った教育の場を築き上げたことにあったのです。
そのひとつは、少人数学級の実現でした。一クラス30人ほどをめどにそれらは進められ、学童と教師の触れ合いの機会を多くしました。
また、国の学習指導要綱では不十分な点を副教本の作成で補うなどの試みが実施されました。
さらには、一方的な暗記授業から脱却するために、「自ら学ぶ力」を付ける学習や、子供たちが教え合う「学び合い」の授業を押し進めてきました。
そうした、マスコミではほとんど取り上げられなかった地味な努力があったればこそ、教育現場に不正や荒廃をもたらす「学力調査」という名のドッグ・レースへの参加を拒否したのでした。
しかしそれは、子供たちの方ではなく県教委や文科省の顔色ばかり窺う連中には忌避され、彼も苦戦を強いられてきました。
ネットなどでも内実を知らない連中の、無責任な悪口雑言が飛び交ったりもしました。
しかし、それも過去のことです。
冒頭に、その辞任を「彼の教育への情熱と理念が堂々と認められた結果の凱旋」と書きました。
そうなのです。
彼の真摯な主張がついに認められて、文科省も全国一斉のそれを「無駄な事業投資」と認定し、来年度からの学力調査を、その本来の目的に即して「抽出調査」にすることを内定しました。
これにより、上に述べた過当競争や、それが引き起こす不正やインチキが防げ、その上毎年、数十億円の無駄な出費が削減されるのです。
瀬見井君の努力の結果は、今、上のような形で全国規模で結実しようとしています。
しかし、本当の彼の成果は、目隠しをされた上でむち打たれて駆け出すような無機的な教育ではなく、自分たちで学ぶ力を付けるという犬山方式の教育で育った子供たちの中にこそ実を結ぶのではないかと思います。
瀬見井君、本当に御苦労さんでした。
しばらくはゆっくりお休み下さい。
瀬見井君などと君付けで呼ぶのは、彼が私の学生時代の同級生だからです。
特別に親しかったわけではありませんが、会えばもちろん挨拶のみならずいろいろ言葉を交わす仲でした。まだ犬山市の教育長になる前、愛知県職員のころには私のやっていた居酒屋にもしばしば来てくれて、私もその席に招かれ歓談したものでした。
瀬見井君が辞任などというと、しばらく前でしたら、回りの頭の固いどうしようもない連中に責め立てられて、刀折れ、矢尽きたかといったところだったでしょうが、この時点での辞任は、彼の教育への情熱と理念が堂々と認められた結果の凱旋ともいえるものです。
彼を一躍有名にしたのは、文科省が現場の意見(組合だけではないですよ、校長など管理者にも反対が多かったのです)などを無視して一方的に進めた全国学力調査への参加を、唯一見合わせてきた自治体の教育長だったことです。
今では明らかですが、この「調査」と名付けられたテストは、自治体別、学校別の学力を競わせる一種のレースで、学校や地方によっては、点数を底上げしたり、成績の悪い子を当日無理矢理休ませるなど、ただただ、教育現場を荒廃させるものにすぎませんでした。
はたせるかな、調査の結果は、成績とその都道府県や自治体の一戸当たりの所得とがほぼ比例することを示し、ようするに、教育投資というゼニ・カネの問題に還元されるというものでした。そして敢えていうならば、そんなことは毎年百億近い金をかけて全国一斉にテストをしなくとも、ちょっと想像力を働かすならば誰にでも分かることなのです。
そこで現れた結果が現場を締め付け、「学力調査に向けた教育」という本末転倒の結果すら生み出し、教育現場をいっそう混乱させるものでした。
瀬見井君もちろんそれらを予見して参加しなかったのですが、彼の功績はそうしたマスコミが取り上げやすいセンセーショナルな事柄にあったばかりではなく、もっと地味な、本当に子供に向き合った教育の場を築き上げたことにあったのです。
そのひとつは、少人数学級の実現でした。一クラス30人ほどをめどにそれらは進められ、学童と教師の触れ合いの機会を多くしました。
また、国の学習指導要綱では不十分な点を副教本の作成で補うなどの試みが実施されました。
さらには、一方的な暗記授業から脱却するために、「自ら学ぶ力」を付ける学習や、子供たちが教え合う「学び合い」の授業を押し進めてきました。
そうした、マスコミではほとんど取り上げられなかった地味な努力があったればこそ、教育現場に不正や荒廃をもたらす「学力調査」という名のドッグ・レースへの参加を拒否したのでした。
しかしそれは、子供たちの方ではなく県教委や文科省の顔色ばかり窺う連中には忌避され、彼も苦戦を強いられてきました。
ネットなどでも内実を知らない連中の、無責任な悪口雑言が飛び交ったりもしました。
しかし、それも過去のことです。
冒頭に、その辞任を「彼の教育への情熱と理念が堂々と認められた結果の凱旋」と書きました。
そうなのです。
彼の真摯な主張がついに認められて、文科省も全国一斉のそれを「無駄な事業投資」と認定し、来年度からの学力調査を、その本来の目的に即して「抽出調査」にすることを内定しました。
これにより、上に述べた過当競争や、それが引き起こす不正やインチキが防げ、その上毎年、数十億円の無駄な出費が削減されるのです。
瀬見井君の努力の結果は、今、上のような形で全国規模で結実しようとしています。
しかし、本当の彼の成果は、目隠しをされた上でむち打たれて駆け出すような無機的な教育ではなく、自分たちで学ぶ力を付けるという犬山方式の教育で育った子供たちの中にこそ実を結ぶのではないかと思います。
瀬見井君、本当に御苦労さんでした。
しばらくはゆっくりお休み下さい。
私は「ゆとりの教育」には反対です。
考えるためには、基礎学力が不可欠です。
基礎学力がなければ、考えることは
できません。
漢字も、故事成語も、分数の計算も、日本史の基礎知識も満足に身に付けずに、どうして、きちんと考えることができるのでしょう?
「読み書き、ソロバン」、という言葉がありますが、「ゆとりの教育」は、
基礎学力をおろそかにする風潮を産んだこと、
計算、漢字などのドリル学習など、反復による繰り返し学習を削減したこと、嫌いな分野の学習でも乗り越えて身につけることの必要性、またその克服した時の楽しさを経験する機会を奪ったことなど、
たいへんな損失を及ぼしたと思っています。
全国学力テストの実施、検証、結果の公表は必要であるというのが私の考えです。
今の中高生の基礎学力は惨憺たるものです。
基礎学力の必要性については誰も否定しないと思います。
犬山においてもです。
問題はそれをどう身に付けるかで、「自ら学ぶ力」を置いてきぼりにし、たただ結果のみを暗記する「学力」は応用能力がなく、具体的な問題に直面した場合の、まさに「基礎」としての学力を形成しないと思います。
学習というものがある種の反復を含むものであることは当然ですし、また、嫌いな分野でも習得しなければならないことはおっしゃる通りです。
ただし、なぜ嫌いな分野が生じてしまうのかは、たいていの場合、「なぜそうなるのか」を理解させることなく、頭から詰め込もうとするときに生じるように思います。
それから、これは強調すべきですが、「ゆとり」から「詰め込み」まで、揺らいだのは犬山ではありません。周知のようにそれはまさに文科省そのものであって、犬山はむしろそうしたその場しのぎの教育行政の恣意的な揺らぎに抗して、本当の学力を付ける道を模索したのだと思います。(長くなりますので以下次項へ)
それから、N響大好き。さん自身が誤解していらっしゃるように、学力「テスト」ではなく「調査」なのです。これは文科省自身が実施に際して「テストではなく調査」なのだから誤解しないでほしいと口を酸っぱくしていっています。
にもかかわらず、それが「テスト」として受け止められ、点数のかさ上げや、成績の悪い生徒を休ませるという暴力的手段までつかって実績を残そうとすることが問題なのです。
そうした形で挙げられた実績が、基礎学力とはなんの関係もないことは明らかです。
「中高生の基礎学力の低下が惨憺たるものだ」というのは事実でしょう。犬山が30人程度の少人数学級で、一人一人の生徒によりきめの細かいケアーをしようというのは、そのためのものといっていいでしょう。
それから、教育の問題は教育現場においてのもののみではなく、例えば、社会環境や家庭環境などの変化に伴う問題との関連もあるように思います。
だとすると、問題は教育に携わる人々の問題にとどまらず、そうした環境を生みだしてきた私たちの歴史的責任かも知れません。
難しい問題ですが、またご意見など下さい。
全国から秋田へ押し寄せた調査団が得た大方の結論は、「少人数教育」にあるとのことでした。これって、犬山と同じです。
Mの会でもこのこと話し合ったことありますが、真面目な教員ほど、子どもに自由時間を与えたら「ロクなことにはならない」などと言います。
ドンジュアンの従者の台詞を言っている光景が浮かんで来ます。
学ぶ楽しさ、教える喜びを、基本に据えた彼は、偉かったと思います。
しかし、学テについては賛成であり、詳しく論じます。今日は、体調が悪いので、明日。
なお、
学校や地方によっては、点数を底上げしたり、成績の悪い子を当日無理矢理休ませるなど、ただただ、教育現場を荒廃させるものにすぎませんでした。
というのは、このような行為自体が異常なのであって、このような現場の行為を取り上げて、学テの是非を論じることは誤りです。学テ問題とは別です
。考慮すべきでないことを考慮することになります(いわゆる「他事考慮」にあたります。)。
(ネットによる薬品販売の規制に関して、薬剤師会への天下り問題を持ち出すのも同じです。この場合は、規制の必要性と手段の合理性のみを論ずるべきです。)
なぜ嫌いな分野が生じてしまうのかは、たいていの場合、「なぜそうなるのか」を理解させることなく、頭から詰め込もうとするときに生じるように思います。
嫌いなものは、いくら「理解させられ」ても嫌いは嫌いです。しかし、嫌いでも飲みこませねばなりません。
公害問題で活躍した弁護士さんが、「化学は嫌いだったが無理やり覚えさせられたことがなかったら
私もたまたま勤務の現場で、生物遺伝の知識が必要な時があり、高校生の時、いやいや聴かされたDNAの話で、大いに助かりました。いまでも生物学なんか大嫌いです。
しかし、興味のあることだけ深く勉強すればいいというのは間違いです。浅く広くも必要です。理科、社会を選択科目化したために、世界史を全く勉強せずに政治学の授業を受けにくる学生がいると、友人の学者が嘆いていました。世界史の用語が頭に少し引っかかっているだけで、全然違います。
私も、DNAという言葉を全く知らなかったら、仕事にならなかったでしょう。
私は、詰め込み教育も、考える教育も、両方必要だと思っています。鵜のように、呑み込ませることも必要です。
私も、ピアノを、殴りけられ、泣きながら練習させられたおかげで、その後、音楽を深く楽しむことができるようになりました。
最高裁は、憲法判断をする必要がないにもかかわらず、旭川学テ事件で、憲法判断を述べました。「子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、普通教育においては、児童生徒に批判能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有るすこと、・・教育の機会均等をはかる上からも
全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があることからも、教師に完全な教授の自由を認めることは、到底許されない」と、学テ反対運動の教師(被告人4名)を批判しました。
最高裁は、教育を受ける自由の意義を強調して、このように述べました。