六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

『空気人形』はオリジナルなきコピーを生きるのか?そして私たちは?

2009-10-04 00:53:40 | 映画評論
 是枝裕和監督の「空気人形」を観ました。
 文字通り、空気人形を題材としています。
 原作は「ゴーダ哲学堂 空気人形」という業田良家の短編コミックだったようですが、それに想を得た是枝監督が、まったく新しい展開に膨らませた脚本によるようです。

 私が観に行ったのは、「誰も知らない」や「歩いても 歩いても」の監督が、こうした素材をどうこなすかという興味と、加えて、主演のベ・ドゥナへの興味でした。このベ・ドゥナが、山下敦弘監督の「リンダ リンダ リンダ」(2005年)で韓国からの留学生役を演じ、不思議な魅力をまき散らしていたのを鮮明におぼえていたからです。

 

 題名から推察されるように、この種の題材はひとつ間違えばグロティスクなものに転じる危険性をもっています。事実、部分的にはそうしたシーンもあります。しかし、全体としては決してそうした印象を残していないのはやはり監督の手腕でしょう。
 それに、主役のベ・ドゥナのイメージがぴったりフィットしているのです。人形が人間に変じるところなど、まさにこの人でなければならないと思えるほどなのです。彼女の起用がこの映画の成功の大半を占めているといってもいいかもしれません。それほど役柄に馴染んでいるのです。

 人間以外のものが人間の心を持ってしまうお話は、古くは人魚姫から最近のポニョに至るまでたくさんあるのですが、この映画ではその人形の状況そのものと、それによって逆照射される人間のありようが描かれています。ですから、一見、人形を巡るストーリーとは関係のないような人物が要所要所で出てきます。

  
 
 空気人形という連想から、内面の空虚さが問題のように思われますが、そして事実そうした展開もあるのですが、それに関連しながらも代替可能な代用品、つまりコピーという問題が大きいように思います。人形の最初の所有者が冒頭で独りごちる職場でいってやったとされる台詞、「お前の替わりなんかいくらもいるんだ」が、実は自分が常に言われている台詞であったり、派遣という「代替」が解かれるのではないかとおののく女性や犯罪事件の犯人と名乗って出る老女の存在、こうした人たちはオリジナルなきコピーであるかのように自分の位置づけを模索し続けています。そうした模索が一身に人形に凝縮されて・・・。

       

 ネタバレになるので詳しいことは書きませんが、それらの錯綜した人たちのすべてがそのラスト近くで空気人形を囲んで勢揃いするシーン(人形の夢想のようなのですが)は、エミール・クストリッツァ監督の「アンダー・グラウンド」でのラストシーンをを思わせるものがありました。
 そして、引きこもりの少女が窓をあけ「まあ、美しい」と叫ぶシーンは、希望への開けといえると思いました。

 これら各シーンを、とても美しく撮っているカメラのリー・ピンビンの存在も重要です。先に述べた、とかくグロテスクになりがちな場面を引き締め美しく昇華させているのに加え、各々のシーンの画が丁寧に、しかもきれいに撮られているからです。
 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする