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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

松阪 本居宣長 松浦武四郎

2009-10-13 01:09:00 | 歴史を考える
 過日秋晴れの一日、松阪在住の友人夫妻のご案内でこれまた古くからの友人、Sさん共々、松阪の街を逍遙しました。
 三人とも、パソコン通信時代からの友人です。

 

 正直言って松阪は、伊勢や鳥羽へ行く折りの通過地でしかありませんでした。今回はそこを目的に行ってやはり良かったと思います。
 城址は建造物こそないものの、立派な石垣が当時の風情を偲ばせ、コンクリート製の天守閣のレプリカなどない方がよほどいいことを実感しました。

 
        本居宣長の住居跡 城下にあったものが城内に移築されている

 場内の本居宣長の記念館は是非行きたいところでした。「唐ごころ」を頑なに拒否する宣長は、国粋主義者にまちがわれることもあるのですが、その真意は、ものごとの「現れ」を予めある「本質」の現出であるとしてそのものの具体性をないがしろにする賢しらな態度への拒否であって、その意味では現代風に言えば、「形而上学」やその現前性への拒否といえます。

 
  城址より御城番屋敷(重文)を臨む 道路を挟み二十軒の武家屋敷が長屋風に連なる
 
 この宣長氏の書いたものの展示から、浅学ながらなにがしか読み取ろうとしたのですが、なんといっても字が細かい、老眼鏡を三つかけても読み切れないほどです。果たせるかな、彼の息子は、父の書いたものを整理などする内に目を患い盲目になったというから凄まじいものがあります。

    
     市内で見つけた道しるべ 「左参宮道」 「右和歌山道」 とある
 
 もうひとつのポイントは、同行のSさんが駅の観光案内で見つけた松浦武四郎記念館の存在でした。
 彼が、間宮林蔵とは違い、輪郭としての北海道ではなく、その奥地まで踏み込み、アイヌなどの風俗習慣にまで馴染み、その悲惨さを訴えたりした有意の人であることは知っていましたが、その彼がこの松阪の出身であることは知りませんでした。儲けもののような話です。

 
             松浦武四郎が作った北海道地図のレプリカ

 記念館にある彼の作った北海道地図を見て驚きました。さすがその奥地まで踏み込んだだけあって、今でも人跡未踏のようなところまでその地名などがびっしり書き込まれているのですが、その字がまた小さいのです。
 海岸線などの地名は、ほとんど距離がなく書き込まれているため、まるで繊毛が生えたように見えます。
 ちなみに、北海道という地名は彼が付けたものです。

 
   現在の松前半島の地図 海岸線に繊毛が生えたように見えるのはすべて地名

 結論:松阪の人はとても細かい字を書く。

 その後はおきまりの歓談コースです。
 郷に入らば郷に従えで、松阪の南、多気町の酒「鉾杉」に舌鼓を打ちながら話は尽きるところがありませんでした。このお酒なかなかおいしくて十分満足しました。
 案内してくれたご夫妻と、同行し話を盛り上げてくれたSさんに感謝しつつ松阪の地を辞したのでした。
 また少し寿命が延びました。
 憎まれもの世にはばかるでしょうか。

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秋たけなわの川柳もどき

2009-10-10 15:30:50 | 川柳日記
 
       もうすっかり終わりましたね。これは先月末のものです。


  
    米洗う手になっている月曜日
    憎しみを少し混じえて米を研ぐ


  写す
    斜めから写せば遠くなるあなた
    モノクロの写真に棲まう夜叉が笑む


  
  雑詠  
    甘言に騙されたふり梨を剥く 
    昭和には昭和の掟いわし雲
    夜逃げした友と語らう「山月記」
    踵まで滲みる言葉で諭される
    終章に執行猶予付けてみる
    ここへきて薄暮の鳥のから騒ぎ

  
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白か黒か・・・(その3 みんな喪中?モノクロという色)

2009-10-08 03:54:43 | よしなしごと
 随分前に気がついていたのですが、なぜだか分かりませんでした。
 今ここに書くからといってそれが分かったわけではありません。
 しかし、やはりなんだか不気味な感じがするので、黙っているのもと思い、曖昧なままに書きます。

 黒いのです。街が黒いのです。とくに朝夕のラッシュ時には街が黒くなります。
 何がどうなっているかというとサラリーマンやOLの服装がほとんど黒いのです。まるで葬儀場から雪崩出た会葬者のようなのです。
 いつからこんなになったのでしょうか。そしてなぜ?

 
            JR岐阜駅 エスカレーターにて

 もう40年ほど前ですが、私もサラリーマンでした。営業職でしたから背広がユニフォームのようなものでした。
 でもその頃のサラリーマンの背広姿は決して黒が主流ではありませんでした。むしろ黒は異様で変に目立ったともいえます。
 紺、茶、グレイ、モスグリーン、パープルなどなどを基調としたものの様々なバリエーション、それにストライプやチェックなどが入り、かなりカラフルでした。
 それに加えて、高度成長に合わせるかのようにカラーシャツの流行などもあり、薄いブルーやグリーン、あるいは暖色系のシャツを着用したものでした。
 さらに言うならば、ネクタイも今よりはカラフルでバラエティに富んでいたように思います。

 
            JR岐阜駅 プラットフォームにて
   
 私自身の背広の過去の保有の歴史を辿ってみても、黒の系統は細かなストライプが入った一着だけでした。しかもそれは、通常はほとんど使用せず、業務の途中や終わりに冠婚葬祭や儀式などがあり、どうしても色物を避けるべき時にのみ着用したものでした。ようするにそれは礼服の替わりなのでした。

 
               名古屋 地下鉄にて

 ところが現在、なぜこうしたモノクロが主調になったのでしょうか。一般に不景気な折りには黒が流行るといわれます。確かに不景気はここしばらく続いています。
 しかし、どうもそうした流行にとどまらない、もう少しスパーンの長い現象のような気がするのです。

 
             名古屋街頭にて 女性もです

 モノクロは白と黒、ならびにその間の色調といっていいでしょう。白は何にでも染まる色ですし、黒はあらゆる色彩を拒否しているようです。その間のグレイゾーンはそうした両者のせめぎ合いによるものでしょう。
 いずれにしてもモノクロは排他的なように思います。黒から白への縦の系列にのみ依存し、その他のというか、横の系列を排除しているように思えるのです。
 もちろん、この事実から安易に何かの結論を誘導することは早計でしょう。

 
              同 名古屋市街頭にて

 ただ、何か不気味な感じは拭いきれません。
 みんな孔雀になれとはいいませんが、かといって烏ばかりではどうかと思うのです。
 孔雀と烏の間に、鳩や雀や椋鳥や百舌など様々なバリエーションがあってもいいように思うのです。

 何でこうなったのでしょうね。
 現役のサラリーマン諸氏やOLのみなさん、とくに黒い衣装に身を包んでいる人からコメントがあればなどと思います。




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源泉掛け流し? それとも震源地?

2009-10-06 02:07:22 | よしなしごと
 久しぶりに土いじりをしました。
 夏の間にほじくり出しておいた水仙の球根を埋め戻したのです。
 全部で50球ぐらいを、半分ぐらいはいつも水仙が咲く辺りにまとめて植え、残りはあちこちの隙間を探して植えました。ちゃんと咲いてくれるでしょうか。
 
 我が家の水仙は2種類あって、ひとつは普通の日本水仙、そしてあとは、いわゆるラッパ水仙です。
 厳密に言うと、このラッパ水仙はさらに3種類あり、花びらが白で中央部分が黄色いものと、同じ花びらが白でも中央部分が橙色のもの、そして、花びらも中央部分も黄色いものです。

 
              これは日本水仙のつぼみ

 ただし、球根の段階では、日本水仙とラッパ水仙の見分けはつきますが、ラッパ水仙の内でのバリエーションについては見分けはつきません。掘り出す段階でどれがどこにあったかが分からないままに一緒にしてしまったからです。というか、掘り出すときには花はとっくに終わって葉さえもほとんど枯れているわけですから、それらを区分しようとしたら、花の段階でそれと分かるように印をしておかねばなりません。

 そんな根気は私にはありません。まあ、次に咲いたときに、あ、こんなところにこの花が、という楽しみにしておきたいと思います(といってずぼらなのを誤魔化す)。
 それよりもちゃんと咲いてくれるかどうかが不安です。

 
               我が家のラッパ水仙

 土いじりをしていて気がついたのですが、かなりほじくり返したにもかかわらず、ミミズや虫けらのたぐいが意外と少ないのです。以前、確かこの同じ場所で見かけたダンゴムシやオケラ、それにヤスデなどもまったく見かけませんでした。
 それ以上に不思議なのは、あんなによく見かけたアリすらもまったく見かけなかったことです。以前なら、これだけの範囲をほじくったらアリの巣の一つや二つに遭遇し、アリたちをパニックに陥れたものでした。

 地中だけではなく、地表の昆虫類も以前より減少しています。軒下に巣を作っていたアシナガバチもみかけません。蜘蛛の巣もほとんど見かけません。
 蝶だけは今年に限ってはよく観ました。それも、アゲハ類の大型の蝶です。といっても、連中はどこかからやって来るわけですから、我が家の定住者ではありません。

 虫退治を行ったわけでもありません。向こうから攻撃を仕掛けてくる害虫以外とは、例えそれがアシナガバチであろうとも共存するというのが基本方針です。
 だから、むしろ虫がいないということが不安なのです。

 
              なにやら奇っ怪なものが・・・

 周辺の環境はここ10年ぐらいはさほど変わっていません。我が家の土壌に何か異変が起こっているのでしょうか。例えば、いきなり温泉が噴き出るとか・・・。それとも、第二の濃尾大震災がそのエネルギーを貯えていて、我が家の真下がその震源地になるとか・・・。

 前者なら天然温泉の源泉の地主として左団扇で暮らせそうです。後者なら、被害者第一号としてお先にサヨウナラです。
 なんですって?噴き出した温泉の熱湯を被ってやはりあの世行きですって?
 そんならいいとこないじゃないですか。
 ゼッタイに温泉で左団扇です! 源泉掛け流しで余生をおくります!

最後の写真  これは土いじりにつかって泥まみれになった軍手を洗って干しているところです。そんなものは捨てて新しいものをとも思うのですが、「消費は美徳」以前に育った世代としてものを捨てることにはなじめないのです。


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『空気人形』はオリジナルなきコピーを生きるのか?そして私たちは?

2009-10-04 00:53:40 | 映画評論
 是枝裕和監督の「空気人形」を観ました。
 文字通り、空気人形を題材としています。
 原作は「ゴーダ哲学堂 空気人形」という業田良家の短編コミックだったようですが、それに想を得た是枝監督が、まったく新しい展開に膨らませた脚本によるようです。

 私が観に行ったのは、「誰も知らない」や「歩いても 歩いても」の監督が、こうした素材をどうこなすかという興味と、加えて、主演のベ・ドゥナへの興味でした。このベ・ドゥナが、山下敦弘監督の「リンダ リンダ リンダ」(2005年)で韓国からの留学生役を演じ、不思議な魅力をまき散らしていたのを鮮明におぼえていたからです。

 

 題名から推察されるように、この種の題材はひとつ間違えばグロティスクなものに転じる危険性をもっています。事実、部分的にはそうしたシーンもあります。しかし、全体としては決してそうした印象を残していないのはやはり監督の手腕でしょう。
 それに、主役のベ・ドゥナのイメージがぴったりフィットしているのです。人形が人間に変じるところなど、まさにこの人でなければならないと思えるほどなのです。彼女の起用がこの映画の成功の大半を占めているといってもいいかもしれません。それほど役柄に馴染んでいるのです。

 人間以外のものが人間の心を持ってしまうお話は、古くは人魚姫から最近のポニョに至るまでたくさんあるのですが、この映画ではその人形の状況そのものと、それによって逆照射される人間のありようが描かれています。ですから、一見、人形を巡るストーリーとは関係のないような人物が要所要所で出てきます。

  
 
 空気人形という連想から、内面の空虚さが問題のように思われますが、そして事実そうした展開もあるのですが、それに関連しながらも代替可能な代用品、つまりコピーという問題が大きいように思います。人形の最初の所有者が冒頭で独りごちる職場でいってやったとされる台詞、「お前の替わりなんかいくらもいるんだ」が、実は自分が常に言われている台詞であったり、派遣という「代替」が解かれるのではないかとおののく女性や犯罪事件の犯人と名乗って出る老女の存在、こうした人たちはオリジナルなきコピーであるかのように自分の位置づけを模索し続けています。そうした模索が一身に人形に凝縮されて・・・。

       

 ネタバレになるので詳しいことは書きませんが、それらの錯綜した人たちのすべてがそのラスト近くで空気人形を囲んで勢揃いするシーン(人形の夢想のようなのですが)は、エミール・クストリッツァ監督の「アンダー・グラウンド」でのラストシーンをを思わせるものがありました。
 そして、引きこもりの少女が窓をあけ「まあ、美しい」と叫ぶシーンは、希望への開けといえると思いました。

 これら各シーンを、とても美しく撮っているカメラのリー・ピンビンの存在も重要です。先に述べた、とかくグロテスクになりがちな場面を引き締め美しく昇華させているのに加え、各々のシーンの画が丁寧に、しかもきれいに撮られているからです。
 

コメント (3)
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