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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【ミステリー】この消失事件には目撃者がいた!

2009-10-22 17:16:27 | よしなしごと
 齢を重ねると、様々な問題に遭遇いたすものでございます。
 なぜ様々かと申しますと、若いころでしたらほとんど問題ではなかった事柄に躓いたり、あるいは、かつてなら「エイやっ」と決断できたことが出来なくなり、いつまでもグジグジと尾を引いたりするからでございます。

 先般のそれは、ちょうど玄関脇に置いた植木に水をやったいたときでございました。
 前にも一度、拙日記に登場いたました山椒の木の鉢にふと目をやりますと、あきらかに異変が起こっているのに気付いたのでございます。半年ほど前、農協で買ってまいりましたものが巧く根付き、30センチほどの若木に育って参ったのですが、その幹の先端に相当する辺りの葉がきれいになくなっているのでございます。

    
           ホラ、上の方が食われていますね

 う~む、もしやという私の予測は不幸にして的中いたしておりました。近づいてよく見ますと、3センチはあろうかという緑色の虫がすまし顔でそこに陣取っているのでございます。いえ、すまし顔というのは私の単なる想像で、この種の虫の表情を読み取る能力が私にあるというわけではございません。
 おもん見るに、この虫はアゲハ類の蝶の幼虫と思われます。といいますのは、これも拙日記に記したのでございますが、今年は母の死を前後していつになく多くのアゲハや、アオスジアゲハを我が家で目撃いたしたからでございます。
 拙日記にいただいたコメントでは、蝶は命や魂の象徴であるから、今年に限って目撃例が多いというのは、母の死を巡る心理的なものではないかと示唆されたりもしたのでございました。

    
            こんなにきれいに食われました

 さて、ここで私ははたと迷うのでございました。
 問題は、やっと根付いた山椒を救うべくこの愛らしいアゲハの幼虫を駆除するか、あるいはまた、アゲハを歓迎し山椒をその食糧に提供するかのどちらを選択するかでございます。
 いうならば、父・清盛と後白河法皇の対立の狭間で、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と苦悶した平重盛の心境でございます。

 しかし、私の逡巡も長く続くことはございませんでした。蝶は人の命や霊魂の象徴であるという示唆が私の心を強く揺さぶったのでございます。思えば、かの「韃靼海峡」を渡っていった蝶もまた、霊魂に違いないのではございますまいか。
 それに、この山椒の苗木はもともと150円で農協で入手致したものですから、また来年、入手すればいいことにも思いを巡らせたのでございます。このように命に関わる重要な問題に、経済原則が顔を出し、それが判断の決め手になるとは哀しいことではありますが、この際致し方はございません。

 
            根元に近い部分は大丈夫のようです

 さてこの様にして、心穏やかならぬままにひとつの結論を選択いたしたわけですが、それが必ずしも十全と思われなかったせいでしょうか、その夜の眠りは浅いものでございました。
 で、その翌日でございますが、私は所用で出かけており水やりは致しませんでした。
 したがって、その問題と再び向き合ったのは一日置いてからでございました。
 私は、決断の結果を確かめるべく、山椒の鉢植えを丹念に眺め回したのでございました。

      
       動転して写真が撮れず、ネットの図鑑から借りました
         これと同じものでした アゲハの幼虫です

 
 ところがでございます、彼女、ないしは彼の姿はどこにも見あたらないのでございます。近辺に、彼が好む柑橘類の樹木などなく、また俊敏にどこかへ移動する能力も持ち合わせてはいなかったように見受けられただけに、これはまた面妖に思えたのでございます。
 念のため周辺を探索致しましたが、その行方は杳として知れないのでございました。

 可能性としてはふたつの事態が考えられます。
 ひとつは、鳥類などの目にとまってその食用にされ、異なる生命の系列へと連れ去られてしまったということでございます。
 もうひとつの可能性は、朝夕の寒気に促され、私が一日見ない間にサナギに変態し、この周辺で春を待っているかも知れないということでございます。

 幼虫からサナギへの変身は急速に進むらしく、そうなれば褐色に変じて回りの草木に身を隠したそれを、老眼の身をもって識別することはほとんど不可能なのでございます。
 私と致しましては、もちろん、後者の結末を望むに切なるものがございます。年改まって春うららな頃、突如どこかから現れて、私の眼前でその華麗な舞を見せてくれたらどんなにか嬉しいことでございましょう。

 ところで、私が推測でしか申し上げられない事態の一部始終を目撃していた証人がいるのでございます。それは、私が玄関に配した六蛙(迎える)のうちの一匹で、その位置関係からしてすべてを目撃していたに違いないのでございます。
 惜しむらくは、私は彼と情報を交換する共通のコードを持ち合わせていないのでございます。

    
              これが唯一の目撃者です

 まあしかし、一部始終を知ることがいいことばかりではありますまい。私たちがそれに関与しようがしまいが、出来事は起きるのであり、その出来事を事後的に引き受けて生きるというのが私たちの生き様ではありますまいか。
 いえいえ、歳ゆえの諦観や変な悟りのようなものとして申し上げているのではございません。
 むしろ、現実と向き合って生きることのひとつの証だと思うのですがご理解はいただけないかも知れませんね。

 私としてはただひたすらに、アゲハの幼虫にお裾分けした山椒の回復を待つばかりなのでございます。



コメント (4)
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