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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

彼女の「信仰」について

2008-05-24 03:32:25 | よしなしごと
 一応は熱心な浄土真宗の信者である。
 朝夕の読経や供物、供花は欠かしたことはない。
 「一応は」などと書くと、表面だってはと誤解されそうであるが、そういう意味ではない。本当に熱心きわまりない信者なのである。
 しかし、その信仰は一筋縄では行かない。いってみれば、それも含めてきわめて間口が広いのだ。

 
 
 誰のことかというと、わが老母のことである。 
 前の日記にも書いたが、深刻な発作で倒れ、意識そのものがどのレベルであるかも定かではない。
 余談だが、植物人間といういい方は何か抵抗がある。運動や意識の有無だけが人間なのか、今それが危うくなり横たわっている肉体に備わったその人の生きた痕跡、その周辺にある記憶等々も含めて人間ではないのだろうか。
 
 彼女の信仰の話に戻るが、そうした仏への信仰を中核にしながら、先祖や、とりわけ先に他界した夫(私にとっては亡父)への信仰もある。彼女の理解では、亡父はその生前の善行が認められ、位は低いが仏の末席に位置し、彼女を守ってくれているのだという。

 
 
 ここまではいい。み仏信仰に一応は一元化されている。
 しかし、それと同時に彼女は汎神論者でもあるのだ。一木一草に仏性が宿るということならば仏教に一元化されるがそうばかりではない。
 たとえば、お狸様を信じている。
 信楽焼の狸の像に、やはり、供花、供物を欠かさない。
 かくして、お狸様のキ○タ○のあたりに、饅頭が供えられていたりすることとなる。

 その他、仏教と関わりのないものに関しても偶像崇拝的である。
 当然、神道とはいわないが、神様も信仰している。
 お天道様やお月様、その他崇高なる自然に対してもむろん信仰心を隠さない。
 ただし、新興宗教のたぐいに関してはほぼ拒否反応を示す。

 

 こうしてみてくると、宗教を一義的に解し、○○教の信者と分類する向きには至って不可解で無政府的かも知れない。
 しかし、今年九五歳になる老母の同年配、あるいはその少し下の人たちにとって、こうした信仰の有り様はきわめて一般的ともいえる。

 そればかりか、日本人の信心のあり方は、お狸様はともかくとして、ほとんど同様に曖昧なのではなかろうか。
 それがいけないといっているのではない。
 宗教や信仰が、おのれがどこから来てどこへ至るのかの物語であるとしたら、一神教の創造説と審判の日を信じない以上、そうした汎神論というか、名指す神が曖昧なまま、生かされてあるという思いのみが信仰を支えるのではないだろうか。

 ちなみに、一神教は唯一神を名指すが故に、その外部の他者に対し偏狭な面を持つともいえる。
 世界でもっとも争いに先鋭的なのは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のそれぞれの原理主義だという見方もある。

 

 わが老母の信仰に戻ろう。
 問題は母が、そうした御仏を中心にした諸霊に守られていたればこそ、これまで健康で(実際には幾多の病を克服してだが)いられるのだという思いを強くもっていたのと同様、それら諸霊のお力によって、死を迎える折には絶対にぽっくり行くのだと信じて疑わなかったことである。
 「わしはお前たちに迷惑をかけることなく、絶対にすーっと死ぬからな。仏さんもお父さん(夫のこと)も、そうし向けてくれているのだ」というのがその口癖だった。

 

 そこで私は、思い煩うのである。
 母の意識がやがて次第に回復し、自分が置かれた状況が理解できるようになったら、どう思うだろうか。
 ベッドから起き上がることも寝返りを打つことも出来ず、何本かのチューブで体中を固定され、麻痺したままの自分の姿を認識した折、どのように嘆くであろうか。
 彼女の積年の信仰をどのように解釈し直すだろうか。
 仏にも、亡父にも、お狸様にも、そして森羅万象に宿る諸霊にも、裏切られたと思ったりはしないだろうか。

 

 いずれにしても、彼女の信仰を中心とした世界観に深い亀裂が入ることは否定できないであろう。
 それが何となくかわいそうな気がするのである。
 
 むろんこれは、そこまで彼女の意識レベルが回復したらという仮定の話ではある。
 それにたいし、医師はやや否定的で、家族はひいき目に見るせいか少し良くなっていると感じている。

 私自身としては、彼女が今置かれた状況を知っても、これまでの彼女の信仰体系へのルサンチマン(恨み、つらみ)ではなく、諸霊が、彼女と私たち家族との永訣の時をそうした形で幅のあるものとして準備してくれたのだとそんな風に理解してくれればと思っているのである。









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4 コメント

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Unknown (游氣)
2008-05-24 10:17:37
ご母堂のような篤信の方は現状を受容する能力が大変に高いと感じています。
仮に寝たままの状態であることを認識されたとして、これは神仏からの試練と意味付けられることでしょう。
あるいは亡くなったご主人が
「出来の悪い息子たちのためにもう少し娑婆にいてやってくれ」
とおっしゃっていると解釈されるかもしれません。

いずれにしても宗教心の篤い方は、現況は必然であり必要なものである、と位置づけるという思考に長けておられることでしょう。

わたしは宗教心のない者ですが、ご母堂のご快癒、また六さんのご健勝をお祈りいたします。
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Unknown (只今)
2008-05-24 10:19:07
どのような形で推移するにせよ、これまで垣間見た貴方の言動から、貴方の母さんは貴方に最後まで微笑まれること疑いなく、このこと、少しばかり醜い嫉妬も併せて、貴兄を羨ましく思います…。
 小生は貴兄と違って、貰い子としてのルサンチマンをことあるごとに思いだし、それを支えに生きてきた趣もあり、それ故の「偏り」は甚だしいものがありますが、それでも小生が恨み辛みをぶつけてきたその義祖父に「恨めしや」と出てこられたこと一度もないのは、誰もおこなわない墓参りを年四回はしていることにあるのではないか、と得手勝手に思うのです。ある歳末、少し墓参りが遅れて一基だけ供花がなかった時、その逆に向こう三軒両隣りに先がけて供花をした時、それだけで全ては許されるように思う、このことはまことに短絡的というか身勝手の最たるものがありますが、あの世とこの世はそんな繋がりではないか。たかが当然の墓参りでもこう思える小生は…?!
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Unknown (只今)
2008-05-24 17:29:57
今日(土曜)の夕刊に、いたずらを認めなかった小一男児の胸に「うそつき」と書いた紙を貼り付けた教諭の話が載っていました。
 その昔、シンガポール陥落を祝ってゴムボールの配給があった時、「おだいじん」の子が売って欲しいというので売りました。それを告げ口され、教室で先生に聞かれたとき私は、否認(ウソ)を言い、それに対して先生は言いました。「もし、そうだとしても、只今クンにはいろんな事情がありますから、皆さん判ってあげましょう」。すると、「もりゃあごだもんね」という野次が聞こえました。
 先生は私のことを気遣っての発言の積もりだったようですが、私はせめてこう言ってほしかった、と思いました。「神、仏。お天道さまがご存じだから、まぁこのことは、これだけにしましょう」
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Unknown (obamama)
2008-05-26 10:06:41
お母上の、信仰は私には、とてもよく解ります。私の母も、汎神論者のように、いろいろと拝んでおりました。特に観音様。浄瑠璃が好きだったから、お里さわ市の、段で目を開けてくださった観音様が、お気に入りでした。私も、海の向こうの子どもの幸せを祈る時、星にも樹にも、なんにでも、どうぞお守りくださいと、祈ります。どのような状況になろうと、お母上は、あるがままに受け入れて、あなたの幸せを思いつつおられること、間違い無しです。母とは、そうしたものではないでしょうか。
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