我が家で、桑の実が採れました。
それにまつわる半世紀以上前のファンタジーのような思い出です。
第一章 お蚕さん
焼夷弾が降る中、母の実家へと疎開していました。
(ああ、その母は今、不帰の病床にある)
藁葺きの二階屋でした。
しかし、その二階は人間様のすみかではありませんでした。
そうなのです。それこそお蚕さんの住まいだったのです。
その、やや天井が低い箇所には、いちめんにお蚕さんの棚がしつらえられ、何千何万という彼らが住まっていました。
お蚕さんの食欲は旺盛です。桑の葉をすさまじい勢いで食べます。
ですからお蚕さんの盛期には子供も駆り出され、桑の葉を摘みます。
それらを小指ほどのお蚕さんがうごめく棚に撒くのですが、彼らがそれをむさぼる勢いはすさまじく、少し離れたところでも、ギャサグサギャサ、ブギャバギャブギャと彼らが桑を食する音が聞こえるのです。
だから絶えず桑を補給しなければなりません。
しかし、よくしたもので、桑の成長はお蚕さん食欲に負けず劣らず旺盛なのです。
このいたちごっこは、お蚕さんが成長し、サナギになるまで続きます。
お蚕さんがサナギになるということは、繭を作り始めると言うことです。
透き通るように輝く桑の新芽
第二章 サナギの匂い
やがて、お蚕さんの棚に無数の白いラグビーボール状の繭(まゆ)が出来ます。
ある程度になったものを湯がきます。
そして、サナギと繭を分離します。
その折、強烈な匂いがします。
繭は丁寧に延ばし、乾燥させます。
それを町から分銅の付いた竿秤をもった仲買人が集荷にやって来るのです。
お蚕さんが変身したサナギは、もうご用済みとばかりに放り出されます。
飢饉の折にはこのサナギも食用にしたといいますが、そうでないときには別の用途があります。
その匂いを利用して魚を獲るのです。
第三章 僕らの漁法
二つの方法がありました。
ひとつはいわゆる「籠漁」です。
竹籤で作った円錐状の漁具ですが、入ることは出来ても出られない口を用意し、その中にサナギを少し潰し、匂いやすくして川などに仕掛けるのです。
夕方仕掛けて、翌朝ワクワクしながら引き上げに行きます。
入っているのは主に淡水産のモクズガニ(上海ガニと同種)やウナギなどです。
ここでクイズです。
カニとウナギが一緒に入ったらどうなるでしょう?
答えは「強い方が弱い方を食ってしまう」です。
そして、強い方はウナギなのです。
カニの甲羅や固い部分を残してきれいに食べしまうのです。
サナギの匂いでカニが入り、カニを食うためにウナギが入ったかのようなのです。
もう一つの漁は上記の籠をビンにしたものです。
やはりサナギを潰して入れ、池などに沈めます。
こちらの方は、モロコやセンパラ、ムツゴ、ドンコ、ドジョウ、それに手長エビなどの小魚狙いで、見ている内にどんどん入ります。
農薬などない頃で、そうした小魚は群れをなしていましたから、いっぱい獲れるのです。
第四章 天然ウナギとモクズガニ
ある程度入ったところで、引き上げ、魚だけとりだし、また沈めます。そしてまた獲れるのです。
海なし県のその辺りでは、魚は貴重な動物性タンパク質でした。
天然のウナギやカニは今なら目の玉が飛び出るくらいの値段ですが、それをごく普通に食べていたのです。
叔父に当たる人が、このウナギ捌きの名人で、私たち子供は、農家の庭に車座になってこのウナギの処刑を見物したものでした。
「おい、まだ動いとるがや」「しつっこいやっちゃなぁ」などといいながら、裂かれてもまだ動くウナギに、目を釘付けにされるのでした。
小魚は佃煮です。
しばらくはそればかりがおかずでした。
第五章 桑の実<1>
あらら、桑の話でしたね。
ちょうどこの季節、桑の実が熟すのです。
赤いのはまだ酸っぱいので敬遠します。
触れるとぽろりと落ちそうな黒いものが甘くておいしいのです。
口の周りが赤紫に染まるほど食べました。
その思い出の桑の実が我が家で採れるのです。
もう二十年ほど前、変な木がひょろひょろと庭に生えているのを見つけました。
それが桑でした。
きっと鳥の糞か何かから芽生えたのでしょう。
そのまま放っておいたらどんどん大きくなります。
大きくなりすぎるので、かわいそうだけどばっさりと伐りました。
第六章 桑の実<2>
でもこの木の生命力は強靱です。
あの食欲旺盛なお蚕さんと張り合うのですから、むべなるかなです。
切り口からどんどん枝を伸ばし、今では前より大きいくらいです。
また伐らねばなりません。
今年、一通り実を収穫したらまた伐ります。
で、実の方ですが、例によって娘の勤める学童保育のおやつに持たせました。
「どうだった?」
と、娘に訊くと、珍しがってどんどん食べたとのこと。
よし、それでは採れる間は採ってやろうということになりました。
子供たちの口の周りが赤紫になる様子が見えるようです。
今日、降り出しそうな空を警戒しながら二回目の収穫をしました。
終章 小籠に摘んだはまぼろしか?
ほぼ60年前、唇を赤紫に染めて桑の実をむさぼっていたあの少年、
その汁がシャツなどに付くと容易に落ちないと母に叱かられていた少年、
サナギを潰して魚を獲る快感にしびれていたあの少年、
ウナギが裂かれるのを目を輝かせて見ていた少年、
あれは、本当に全部私だったのでしょうか?
それにまつわる半世紀以上前のファンタジーのような思い出です。
第一章 お蚕さん
焼夷弾が降る中、母の実家へと疎開していました。
(ああ、その母は今、不帰の病床にある)
藁葺きの二階屋でした。
しかし、その二階は人間様のすみかではありませんでした。
そうなのです。それこそお蚕さんの住まいだったのです。
その、やや天井が低い箇所には、いちめんにお蚕さんの棚がしつらえられ、何千何万という彼らが住まっていました。
お蚕さんの食欲は旺盛です。桑の葉をすさまじい勢いで食べます。
ですからお蚕さんの盛期には子供も駆り出され、桑の葉を摘みます。
それらを小指ほどのお蚕さんがうごめく棚に撒くのですが、彼らがそれをむさぼる勢いはすさまじく、少し離れたところでも、ギャサグサギャサ、ブギャバギャブギャと彼らが桑を食する音が聞こえるのです。
だから絶えず桑を補給しなければなりません。
しかし、よくしたもので、桑の成長はお蚕さん食欲に負けず劣らず旺盛なのです。
このいたちごっこは、お蚕さんが成長し、サナギになるまで続きます。
お蚕さんがサナギになるということは、繭を作り始めると言うことです。
透き通るように輝く桑の新芽
第二章 サナギの匂い
やがて、お蚕さんの棚に無数の白いラグビーボール状の繭(まゆ)が出来ます。
ある程度になったものを湯がきます。
そして、サナギと繭を分離します。
その折、強烈な匂いがします。
繭は丁寧に延ばし、乾燥させます。
それを町から分銅の付いた竿秤をもった仲買人が集荷にやって来るのです。
お蚕さんが変身したサナギは、もうご用済みとばかりに放り出されます。
飢饉の折にはこのサナギも食用にしたといいますが、そうでないときには別の用途があります。
その匂いを利用して魚を獲るのです。
第三章 僕らの漁法
二つの方法がありました。
ひとつはいわゆる「籠漁」です。
竹籤で作った円錐状の漁具ですが、入ることは出来ても出られない口を用意し、その中にサナギを少し潰し、匂いやすくして川などに仕掛けるのです。
夕方仕掛けて、翌朝ワクワクしながら引き上げに行きます。
入っているのは主に淡水産のモクズガニ(上海ガニと同種)やウナギなどです。
ここでクイズです。
カニとウナギが一緒に入ったらどうなるでしょう?
答えは「強い方が弱い方を食ってしまう」です。
そして、強い方はウナギなのです。
カニの甲羅や固い部分を残してきれいに食べしまうのです。
サナギの匂いでカニが入り、カニを食うためにウナギが入ったかのようなのです。
もう一つの漁は上記の籠をビンにしたものです。
やはりサナギを潰して入れ、池などに沈めます。
こちらの方は、モロコやセンパラ、ムツゴ、ドンコ、ドジョウ、それに手長エビなどの小魚狙いで、見ている内にどんどん入ります。
農薬などない頃で、そうした小魚は群れをなしていましたから、いっぱい獲れるのです。
第四章 天然ウナギとモクズガニ
ある程度入ったところで、引き上げ、魚だけとりだし、また沈めます。そしてまた獲れるのです。
海なし県のその辺りでは、魚は貴重な動物性タンパク質でした。
天然のウナギやカニは今なら目の玉が飛び出るくらいの値段ですが、それをごく普通に食べていたのです。
叔父に当たる人が、このウナギ捌きの名人で、私たち子供は、農家の庭に車座になってこのウナギの処刑を見物したものでした。
「おい、まだ動いとるがや」「しつっこいやっちゃなぁ」などといいながら、裂かれてもまだ動くウナギに、目を釘付けにされるのでした。
小魚は佃煮です。
しばらくはそればかりがおかずでした。
第五章 桑の実<1>
あらら、桑の話でしたね。
ちょうどこの季節、桑の実が熟すのです。
赤いのはまだ酸っぱいので敬遠します。
触れるとぽろりと落ちそうな黒いものが甘くておいしいのです。
口の周りが赤紫に染まるほど食べました。
その思い出の桑の実が我が家で採れるのです。
もう二十年ほど前、変な木がひょろひょろと庭に生えているのを見つけました。
それが桑でした。
きっと鳥の糞か何かから芽生えたのでしょう。
そのまま放っておいたらどんどん大きくなります。
大きくなりすぎるので、かわいそうだけどばっさりと伐りました。
第六章 桑の実<2>
でもこの木の生命力は強靱です。
あの食欲旺盛なお蚕さんと張り合うのですから、むべなるかなです。
切り口からどんどん枝を伸ばし、今では前より大きいくらいです。
また伐らねばなりません。
今年、一通り実を収穫したらまた伐ります。
で、実の方ですが、例によって娘の勤める学童保育のおやつに持たせました。
「どうだった?」
と、娘に訊くと、珍しがってどんどん食べたとのこと。
よし、それでは採れる間は採ってやろうということになりました。
子供たちの口の周りが赤紫になる様子が見えるようです。
今日、降り出しそうな空を警戒しながら二回目の収穫をしました。
終章 小籠に摘んだはまぼろしか?
ほぼ60年前、唇を赤紫に染めて桑の実をむさぼっていたあの少年、
その汁がシャツなどに付くと容易に落ちないと母に叱かられていた少年、
サナギを潰して魚を獲る快感にしびれていたあの少年、
ウナギが裂かれるのを目を輝かせて見ていた少年、
あれは、本当に全部私だったのでしょうか?