私が加入しているSNSに、映画『靖国 YASUKUNI』を見た人の感想を書くページがあり、それを眺めていたらこの映画を全面否定する人がいて、それはそれでこの種の映画に関する評価の一つなのだと思ったのですが、そこに少し気になる表現がありました。
それは、その人が、靖国の大祭に抗議する若者に対し、「支那人」という表現をしていることです。
その若者が事実、日本人でないかどうか(私には日本の若者に見えましたが)という点もですが、「支那人」という表現の仕方が気になるのです。
そこで、ひょっとして、映画以前的な先入観があるのではと書いたところ、この表現は台湾に属する人たちと大陸に属する人を区別するためのもので、「支那」は大陸を表しているにすぎないととして、そんなところに引っかかる私の方がある種のイデオロギーや先入観の固まりであると断定されてしまいました。
ところで、この「支那人」という表現、最近では石原東京都知事などの口からもよく聴かれ、ネット上でもちらほら見かけるのですが、どう判断したらいいのでしょう。
確かに語源的には一定の正当性をもっていたり、一定地区を指す地理的な用語として使われてきたかも知れません。しかし、言葉は決してそれ自身透明なものではなく、どの言葉を選び、どういう文脈の中で使用するかによって、一定の歴史的立場や価値観を表明するものたらざるを得ないと思うのです。
その意味では、上に述べた人が、自ら「支那人」という表現を意識的に用い、かつそれに否定的に反応した私との間に、ある種の鋭い亀裂を観てとったのは当たっているといわねばなりません。
実は何を隠そう、私自身の少年期に至る過程では「支那」は日常的な表現で、私自身も日常的にそれを用いていました。
愛読していた田河水泡の漫画『のらくろ』の中には良い「支那人」と悪い「支那人」が出てきたり、「チャンコロ」という言葉も飛び交っていました。
ラーメンの前身、中華そばは、そのまた以前には「支那そば」でした。
支那という言い方が歴史の背景に下がったのは、正確な記憶はありませんが、たぶんサンフランシスコ条約で、日本が戦後世界へ復帰した頃ではないでしょうか。
この頃の日本で、どのくらいちゃんと先の戦争についての総括や反省がなされたのかを多くの疑問を残すところですが、やはり日本が悪かったのだ、それを悔い改めることによって戦後社会へ復帰するのだという一般的な認識は広く共有されていたと思います。
ただし、このサンフランシスコ条約は、いわゆる西側との間のみのもので、先の戦争でもっとも関わりが深かった中国は対象になっていませんでしたから、中国問題は依然として日本の喉元あたりにあるトゲのようなものでした。
しかし、いつかは修復されねばならないという合意は広く国民の間にあり、戦時中、いささかの差別意識を伴って使用された「支那」は封印されたのだろうと思います。
その後、いわゆる「逆コース」という戦前復帰の動きや、80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という驕りの時期を経て、日本の側の謙虚さが失われたり、さらにその後、中国の急速な資本主義化とそれに伴う競合関係の中で、かつての日中関係とは違った状況が生み出されてきたのが実情だろうと思います。
そうしたなかで、中国を一段と低いものと見なし、それによってその圧倒的な脅威をひたすら観念の上で抹殺したり、薄めたりしようとする動きの一つが「支那」という表現として復活したのではないかと思うのです。
先に見た、靖国を否定する若者を「支那人」と規定するのもそれに似ています。
その意味では、この表現を使う人たちは、中国への脅威をその潜在意識で捉えているという点ではそれなりに「リアル」であろうと思われます。
しかしながら、観念の上で抹殺したところで、現実にその脅威や今後の歴史上の成り行きへの不安感は厳然として残るわけで、それらを観念のうちにおいてではなく、真に「リアル」に凝視し続けるべきだと思うのです。
といったことで、私は「支那」という表現は用いませんが、中国についての不安感は大いにもっています。
現今のチベット問題に観られるように、民族問題と漢民族の資本支配による格差の拡大は今後とも拡大再生産されそうですし、何よりも、看板の「社会主義国」と実際の「巨大な資本主義」との間の諸矛盾の噴出など、将来への不安定な要因はいっぱいあるからです。
ただし、「大和魂」と「支那」といった観念的な図式での対決は非生産的であるばかりか、問題を別の次元へと誘導する危険性を持つものだと思います。
それは、その人が、靖国の大祭に抗議する若者に対し、「支那人」という表現をしていることです。
その若者が事実、日本人でないかどうか(私には日本の若者に見えましたが)という点もですが、「支那人」という表現の仕方が気になるのです。
そこで、ひょっとして、映画以前的な先入観があるのではと書いたところ、この表現は台湾に属する人たちと大陸に属する人を区別するためのもので、「支那」は大陸を表しているにすぎないととして、そんなところに引っかかる私の方がある種のイデオロギーや先入観の固まりであると断定されてしまいました。
ところで、この「支那人」という表現、最近では石原東京都知事などの口からもよく聴かれ、ネット上でもちらほら見かけるのですが、どう判断したらいいのでしょう。
確かに語源的には一定の正当性をもっていたり、一定地区を指す地理的な用語として使われてきたかも知れません。しかし、言葉は決してそれ自身透明なものではなく、どの言葉を選び、どういう文脈の中で使用するかによって、一定の歴史的立場や価値観を表明するものたらざるを得ないと思うのです。
その意味では、上に述べた人が、自ら「支那人」という表現を意識的に用い、かつそれに否定的に反応した私との間に、ある種の鋭い亀裂を観てとったのは当たっているといわねばなりません。
実は何を隠そう、私自身の少年期に至る過程では「支那」は日常的な表現で、私自身も日常的にそれを用いていました。
愛読していた田河水泡の漫画『のらくろ』の中には良い「支那人」と悪い「支那人」が出てきたり、「チャンコロ」という言葉も飛び交っていました。
ラーメンの前身、中華そばは、そのまた以前には「支那そば」でした。
支那という言い方が歴史の背景に下がったのは、正確な記憶はありませんが、たぶんサンフランシスコ条約で、日本が戦後世界へ復帰した頃ではないでしょうか。
この頃の日本で、どのくらいちゃんと先の戦争についての総括や反省がなされたのかを多くの疑問を残すところですが、やはり日本が悪かったのだ、それを悔い改めることによって戦後社会へ復帰するのだという一般的な認識は広く共有されていたと思います。
ただし、このサンフランシスコ条約は、いわゆる西側との間のみのもので、先の戦争でもっとも関わりが深かった中国は対象になっていませんでしたから、中国問題は依然として日本の喉元あたりにあるトゲのようなものでした。
しかし、いつかは修復されねばならないという合意は広く国民の間にあり、戦時中、いささかの差別意識を伴って使用された「支那」は封印されたのだろうと思います。
その後、いわゆる「逆コース」という戦前復帰の動きや、80年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という驕りの時期を経て、日本の側の謙虚さが失われたり、さらにその後、中国の急速な資本主義化とそれに伴う競合関係の中で、かつての日中関係とは違った状況が生み出されてきたのが実情だろうと思います。
そうしたなかで、中国を一段と低いものと見なし、それによってその圧倒的な脅威をひたすら観念の上で抹殺したり、薄めたりしようとする動きの一つが「支那」という表現として復活したのではないかと思うのです。
先に見た、靖国を否定する若者を「支那人」と規定するのもそれに似ています。
その意味では、この表現を使う人たちは、中国への脅威をその潜在意識で捉えているという点ではそれなりに「リアル」であろうと思われます。
しかしながら、観念の上で抹殺したところで、現実にその脅威や今後の歴史上の成り行きへの不安感は厳然として残るわけで、それらを観念のうちにおいてではなく、真に「リアル」に凝視し続けるべきだと思うのです。
といったことで、私は「支那」という表現は用いませんが、中国についての不安感は大いにもっています。
現今のチベット問題に観られるように、民族問題と漢民族の資本支配による格差の拡大は今後とも拡大再生産されそうですし、何よりも、看板の「社会主義国」と実際の「巨大な資本主義」との間の諸矛盾の噴出など、将来への不安定な要因はいっぱいあるからです。
ただし、「大和魂」と「支那」といった観念的な図式での対決は非生産的であるばかりか、問題を別の次元へと誘導する危険性を持つものだと思います。