六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

真夏日の風邪と花と虫

2008-05-05 17:52:47 | よしなしごと
 もう真夏日だ、温暖化が進行かなどといっている折から、風邪を引く馬鹿がいる。
 わたしのことだ。
 例によってのどから始まって、ヤバイと思ったときにはもうぐずぐず。
 なんだか寒くて、いったんしまい込んだ毛編みのベストまで引っ張り出して着込む始末。
 今年はこれが二回目、はやり歳は争えない。

     
       紅梅にきた小さな蜂

 この前、花と虫について書いた。
 花は虫を誘おうとするために華麗に咲き誇り、虫は花々の生殖を助けるために飛び交う・・というのは人が事後的に作り上げた物語で、そこには、「ために」という目的のようなものはない。
 花はなぜなしに咲き、虫はなぜなしに飛ぶ。
 この二つの系は、それぞれが独立していて、その出会いは偶然ともいえる。

 
         ハルジオンとシジミチョウ

 そして、こうした偶然の出会いが、まるで誰かの計らいのようにして成り立つ場が自然なのではないだろうか。
 今、私たちが目の当たりにする動植物からなる自然は、こうした出会いの中で適者生存として結果したものであろう。

 
             藤とクマンバチ

 こうして考えると、目的意識の連鎖(これは先に見たように人間の後知恵にしかすぎない)として自然を見るより、自然の働きは遙かに雄大で、不思議で、それだけ奥深いというべきだろう。

 これと同趣旨のものを書いたとき、花と虫の写真を載せようとしていたのだが、それが見あたらなかった。
 今回、それに沿ったものをマイアルバムの中から引っ張り出してきたので、ごらんに供する次第。

 
         マーガレットと小さな虫たち

 明日は大事な集会なので出かけねばならない。
 それまでに風邪を治さねば・・。
 ヤイ、風邪!今夜中に退治してやるから覚悟しろよ!


 
          花はないけどオハグロトンボ
 




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桜ん坊と母の日と温暖化

2008-05-04 01:15:56 | よしなしごと
 

 もう、桜ん坊が色づき始めました。
 例年、母の日の頃、つまり第二日曜の頃に収穫となるので、これ幸いと老母への手みやげにしているのですが、今年はひょっとするとその頃には終わってしまっているかもしれません。

 
    写真の真ん中あたりの実は鳥さんに食べられています。

 まあ、単純にはいえないにしろ、四月の終わりから真夏日があるなど、地球温暖化の現れかもしれません。
 しかし、これは全く困りものなのです。
 というのは、すでにいいましたように母の日の手みやげが手近なところで調達できなくなり、しかるべき代替え品をわざわざ仕入れなければならないからです。

 

 もしこれが、たまたま今年だけではなく温暖化のせいで今後とも続くようだったら、私は声を大きくして広く世間に訴えたいと思います。
 母の日を第二日曜から第一日曜に移動しようではありませんか。
 それとも思い切って、母の日を私の家の桜ん坊の熟す日とするのはどうでしょうか?
 


  *写真は5月3日現在のものです。

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行きました!映画『靖国 YASUKUNI』試写会。

2008-05-02 04:22:57 | 映画評論
 昨日、5月1日、映画『靖国 YASUKUNI』の試写会に行って参りました。
 名古屋テレビが名古屋シネマテークの協力のもとに行ったもので、名古屋を中心としたジャーナリスト、報道関係、ライターなどを対象としたものです。
 名古屋シネマテークが6月に上映することを受けての、プレ上映会ともいえるものです。

 名古屋テレビ(通称メーテレ)へ行くのは久しぶりです。
 通常より多い目と思われるガードマンと職員が玄関付近を固める中、受付であらかじめ送られてきた招待状に氏名、所属など書いたものに名刺を添付して渡し、胸にぺったんこと同局のマスコット、メーテレ君のイラストの入ったワッペンを貼ってもらいました。
 これで試写室への出入りはOKです。

     

 会場は思ったより広く、そこにややゆったりめに椅子が並べられています。
 一応、300人を予定とのことです。

 局アナの司会で、試写会が始まりました。

 映画の内容は語らないでおこうと思います。
 それはこれから観る人へのエチケットですから・・。
 ただ、一つだけいうならば、この映画は、日本の言説や表現空間が現在どのような状況にあるかを如実に示すものです。
 映画そのものではありません、事前に騒がれたことを含めての話です。

 

 試写を観た人は、ある意味でいささか拍子はずれだったのではないでしょうか。
 というのは、この映画は事前に騒がれたような「反日」をエキセントリックに叫ぶようなものでは全くないからです。
 
 記録映画は、ある主張を持った作り手が、ある意味では自らその対象にのめり込むもの(マイケル・ムーアや原一男など)と、対象と距離を持った映像を提供しながらメッセージ性を抑制し、その論議を最終的には観客にゆだねるものとがあります。

 この映画は明らかに後者に属し、従って、画面の解説や誘導のためのナレーションも一切ありません。
 むしろ、画面の大半を占めるのは、いわゆる靖国派の人たちの言動やパフォーマンスです。
 南京とおぼしき画面もありますが、それも一切の解説などをせず、ただ、当時の(日本の軍部の検閲済みの)新聞報道などを写すのみです。
 もちろん、南京虐殺などなかったという人々の活動や映像も、何ら反論もつけず描かれています。

     
           胸に貼られたワッペン

 さきに、「日本の言説や表現空間が現在どのような状況にあるか」を示す映画だといいました。しかしそれは、この映画そのものの話というより、こんな程度の映画が、国会議員まで巻き込んで、きわめてヒステリックに、かつエキセントリックに否定されねばならない状況を指しています。
 あの事前の騒動からして、どんなにすごい映画かと思って観た人が、拍子抜けするのではとも書いた次第です。

 最後に一つ、有村とかいう議員が、この映画は刈谷さんという高齢(90歳)の方を欺いて作ったものであることを強調していましたが、それは全くの虚言です。
 この映画は、豊かな技量と経験を持った刀匠としての刈谷さんを、その考え方や生き様を何ら否定することなく描いています。私にいわせれば、この映画の中でもっとも魅力的な人物です。

     
        椅子の上に置かれた映画のチラシなど

 刈谷さんをいささかも誘導したり、曲解したのではない証拠は、監督が、「休みにはどんな音楽を聴かれますか」と問うたのに、刈谷さんが聞き違えて、私はこれを聴きますと昭和天皇の業績をたたえたテープをかけるのですが、それをカットすることもなくそのまま残しています。

 刈谷さんが作った刀がどのように使われたかは、刈谷さんの責任ではありません。
 その折の、状況と、まさしく「政治」の問題なのです。

 監督は刈谷さんをあるがままに美しく描いています。
 それが故に刈谷さんは、有村議員の誘導による出演取り消しの要請にも応じることなく、そのまま上映を認めたのだろうと思います。

 
      上映15分前。終わって振り向いたら満席だった。

 見終わった感想は、外野席が見もしないで騒ぐような映画では決してないいうことです。
 国会議員が権力を笠に着て事前検閲をするようなことがなく、表現されたものが広く人々に公開され、その上で議論がなされるべきだと思います。

 その意味では、様々な問題提起がなされた結果、広く話題になり、より多くの人たちがこれを観る機会が与えられたことを素直に肯定したいともいます。



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