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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

光と影<2> 枠組み、または内と外

2006-10-24 17:50:54 | よしなしごと
 悪い癖で、いくつものシリーズを同時に進行させているので、結果として、そのどれもが曖昧になってしまう。
 一応、これは下記に記したものの続きのつもりである。

http://pub.ne.jp/rokumon/?entry_id=352791

  前回は、光が平面に当たって出来る影の紋様を見てきたが、今回は枠組みとしての影である。
 要するに、手前にあるものが影となり枠となってその枠内のものを引き立たせる(?)ような表現についてである。


    
       名古屋駅の内部から、正面のオブジェを見たもの。

 
   
        今度は岐阜駅コンコースから金華橋通りを見たもの


    
        中電岐阜支店のロビーから外部を臨む


    
       岐阜ハートフルセンター踊り場の窓から外部を
 

     
    手前の建物の枠に囲まれた名古屋テレビ塔


 これらは全て、光と影によって二分化されているが、それは、平面上での分割というより、手前と向こう、こちらとあちら、あるいは内部と外部といった分割である。

 要するに、影としての手前の部分の接線が額縁状になり、その中にある向こうを切り取っているのだ。これは、絵画や作品としての写真、書などを囲む額縁と同じ作用ともいえる。

 しかし同時に、この額縁により分断された空間の、手前と向こう、内部と外部は、容易に逆転可能でもある。

 見る視線からいえば、見ている側、すなわち額縁の外がリアルな内部であり、額縁の中は外部である。
 しかし、囲まれたそのものからいえば、額縁の中こそが内部であり、それを観ている側は外部というほかはない。

 だとすると、額縁そのものはいったい何なんだろう。
 結論的にいうならば、内部でも、また外部でもなく、そられを隔てることによってそれらを接合している領域といってよい。

 額縁の多様性、威厳のあるものや素朴なもの、それらは、その作品を囲む内部と外部をどう隔て、かつ、結びつけるのかという意志の多様性でもある。
 また、額縁のない絵画などが、何となく不安定な感じをもたらすのは、そうした内部、外部の規定が欠如している、あるいは規定以前のものとして見られるからではないだろうか。

 かくして額縁は、私たちを作品世界へと導き入れるものではあるが、それは一義的で通り一遍ではない。
 すんなり導入しそうでいて、それを拒絶するものであるものかも知れない。
 まるで、カフカ『門』のように・・。
コメント
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