昨日とは違う若い友人へのコメントです。
>***さん
私は、***さんや他の誰かが、愛国心や愛郷心を持つことにけっして反対はしません。
例え、反対したってそれは無意味ですよね。
なぜなら、それは個人の内面の問題だからです。
諸個人が何を愛し、愛さないかを法で強制することが問題だと思うのです。そうした強制さえなければ、それぞれ多様なものを愛する人たちが共存できます。
変な例ですが、クラシックとロックを愛する人がいるとします。ここに何の強制もなければ二人は共存出来ます。「オイ、たまにはロックも聴いてみろよ」とか、「お前こそそんなにクラシックを毛嫌いするなよ」といいながらです。
しかし、法が、
「これを愛せよ」と決めてしまうと、それを愛さない人は
「非国民」となり、両者の間には乗り越えがたい溝、というより
敵対関係が生じます。国がクラシックを愛せよといえば、ロックを愛する人たちは「非国民」になってしまうのです。
だから、ロックも、クラシックも許される世の中が良いのです。
なぜ、音楽の例を挙げたかというと、戦前は、西洋音楽は原則として禁止されました。ですから、例えばチャイコフスキーの「白鳥の湖」なんかをレコードで聴いていると、町内にチクルのがいて警官がとんできます。
「貴様、この非常時に敵性音楽とは許せん!」というわけです。ところが、これら警官はその敵性音楽には無知ですから、
「いいえ、これはベートーベンです」というと、
「それならいい、だけど誤解されるようなことはするな」といって帰っていったというのです。
なぜ、ベートーベンが良いかというと
日独は同盟国だったからです。ちなみにこれは実話です。
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***さん、私は個々人がどのような思想をもち、何を考えるかを規制することに反対しているのです。
私も自分の郷土や伝統や文化を愛しています。たぶん、
無責任なことを書き散らすネットウヨといわれる人たちよりもはるかにこの郷土を愛していると思います。
だからこそ、この文化をはぐくんだ多様性のようなもの、大陸文化や西洋文化を摂取し、咀嚼し、独自なものにしてきたこの多様な文化を、何か
一元的なものに収斂し、その他を排除するようなことがあってはならないのです。
私たちが生活している多様性を限定しようとする動きに私は反対します。その多様性こそが、そして異文化との交流こそが、私たちに新しいものをもたらすと思うからです。
***さん、さいごに一言正直に言います。愛郷心は当然としても、
愛国心には幾分の抵抗を感じます。
というのは、
私たちが当面している国民国家は、単に郷土の延長ではなく、新たに作られたものだからです。
日本に関していえば、明治維新を起点とした近代国家は、明らかにそれまでの伝統とは切断されています。
それは諸外国の進出に備えるというやむをえない状況もあったのでしょうが、その時点でむしろそれまでの伝統をかなぐり捨てているのです。
早い話が、天皇制の位置づけも、それまでとは全く違うものとなり、
むしろそれまでは、文化的象徴であったものが、血なまぐさいレアルポリティクスの世界に引きずり出されたのです。
その意味では、私は、天皇家の人々も歴史の命運にもてあそばされたと思っています。
***さん 容易に結論づけることは出来ませんが、
私たちがこの郷土を本当に愛するとしたら、それはひとつの方向付けのみを選択し、それを強要することによってその他を排除すべきではないと思うのです。