イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

トマジューはトマトジュース

2009-06-27 00:03:59 | デジタル・インターネット

2006年からPCがネット開通、遅まきながら知ったネット用語・ネットスラングの中で、最近なかなかいいトコついてるなぁと思ったのが“リア充(じゅう)”という言葉です。2007年の流行語大賞にもランクインしたそうですから、遅まきにもほどがありますけどね。

日本経済新聞土曜版“日経プラス1”の福光恵さんのコラム“コトバの鏡”で読んだのが初だったと思います。たぶん今年に入ってからですね。あのコラムは、誕生ほやほやの新語ではなく、コトバとしての輪郭が明確になり、日経読者のおじさまたちにも説明可能なツッコみどころもできてから採り上げることが多いですから。

リアル(=現実生活)が実している」の略だとのこと。ネット住人から見て、ネットライフ以外の、現実の異性関係や家庭生活や仕事や余暇が順調で忙しい状態をさすのだそう。SNSでの交流やブログ更新がご無沙汰なネット仲間について「○○ちゃんは最近リア充だから」と、相変わらず頻々とネット漬けな面々がやっかみ気味に表現したりするようです。

一方で、自分で自分を「私いまリア充なんです」と直球で自称することはあまりないようですね。各界で活躍する友人たちとの交遊やペット自慢、行列店のグルメ探訪やキルト・スイーツなどの手作り披露、赤ちゃん自慢や恋人配偶者とのラブラブ旅行記などでびっしりのブログ、あるいは投稿書き込みなどに「はいはいリア充乙(おつ。“お疲れさま”の略)」なんて、外からコメントがつく場合に使われるのだとか。

この言葉、おもしろいなと思ったのは、「人間、現実生活が充実して多忙であれば、ネット上での交流や発信なんかに長時間や多大なエネルギーなんか振り向けないものだ」「ネットに熱心でマメなのは、現実生活がカスカスで淋しくてヒマだからだ」という、ネット側からのものすごい僻み根性に立脚した造語なんですよね。弱者から強者への、あるいは負け組から勝ち組への、ネット上での攻撃的ルサンチマンであり、腹いせであり、“せめてもの唾ペッ”みたいなもので、普通に考えれば、あまりポジティヴとは言えない、悪意寄りな言葉です。

でも、この“リア充”という概念、いろんなところに汎用できると思うのです。リア(ル)=“現実生活”って、いったい何だろう。どこまでが、どこからがリアルなのだろう。逆に、リアルでないものとはどこからどこまでの、何と何と何だろう。

たとえば、小学生や中学生によく教師たちが「本を読みなさい」という指導をします。

「感性のやわらかいうちに、古今東西の名作に触れ、美しく正しい伝統ある日本語に親しみなさい」。教師たちとしては、文章読解力や言語表現力、想像力などもっぱら“知的能力”の向上に期待してそういう指導をするのでしょうが、月河、自分の小・中学生時代の、自分自身や周りの同年代を思い返してみても、“身体健康で勉強も順調で、家族の愛をたっぷり受け友達もいっぱいいて皆に好かれていて、なんなら思う異性ともいい感じで、部活でも大活躍している”リア充の生徒さんなら、まず小説や文学の本なんか熱心に嵌まって読んだりしないと思います。自分に何の関係もない、見も知らぬ時代や国の、しかも架空の人物のすったもんだなんて興味が湧かないもの。自分が充実していて、充実している自分が大好きで、周囲の誰もがそんな自分を好いてくれている現実が眼前にせっかくあるのに、その現実と違うフィクションに心惹かれる余地があるわけがない。

断言しますが、小・中・高校時代に、浴びるように本を読みまくっていた人、休み時間だろうと何の時間だろうと本を手放さなかった人、クラス会で「○○さんはいつも本を読んでいたよね」と言われるような人に、性格がよく人あたりがよく、学校生活を明朗に謳歌していた人はまずいません性格が良くて好かれていて人気者で、「学生時代って楽しかったなぁ」と笑顔で振り返るのは「先生や親からはよく本を読めと言われたけど、ほとんど読まなかった」「だって本なんか退屈なんだもん、外で友達と遊ぶほうが楽しかったし」という人です。

断言ついでに、小中高生なんて甘っちょろい限定加えずに、どこらへん年代だろうと、「三度のメシより本読むことが好きで好きでたまらない」という人間に、性格円満で、つき合って気持ちのいい人間はいません。金輪際いません。何度でも断言します。

まぁ、それはともかく、人間生まれてから死ぬまで、一本調子で高原状態に谷間なく“リア充”であり続けることはない。出世街道を驀進していても、大勢の友達と毎晩飲み会に盛り上がり、合コンでお持ち帰り放題な毎日でも、徒労感、虚無感や、他人との距離やすれ違いを感じる場面、時期は必ずあります。

そこに“非・リアル”の出番があり、意味がある。

小中高生推奨の名作文学でもいいけれど、逆にPTAが悪玉扱いするコミック、アニメでも、アーティストやグラビアアイドルでもいい。成人限定で言えばパチンコ、ギャンブルでも、成人女性なら韓流ドラマでもいい。もっと成人な女性なら歌舞伎や宝塚歌劇もありでしょう。

月河個人ベースなら、昼帯ドラマや特撮変身ヒーローを録画視聴、関連書籍やCDを買い集める、出演俳優さんやときにはプロデューサー・監督さん、製作スタッフに関する情報をも読みふける、あるいはパワーストーンをためつすがめつするのが、直球で該当するでしょうね。もし「仕事が繁盛していて、毎日モテモテで飲み会のスケジュールびっしりなら、そんなことやってないだろ」と言われたら、速攻白旗全面肯定もしないけれど、明晰なる理由をあげて否定するなにものもありません。

自分が終始主体で、主語で、主役である“リアル”に対して、主体でありながら第三者=観客でもある“仮想現実”は、ネットのなかった時代にも存在し、機能してきたのです。

“リア充”の反対に、仮想現実に夢中になっている状態をかりに“カソ中”とでも呼びましょうか。“耽溺”のタンをとって“カソタン”でもいいけど、耽=“耽(ふけ)る”の読みと字義が一致しない向きもあるでしょうから、“カソチュー”でいいでしょうね。

あるいはこんなことを考えてみたらどうでしょう。本業が数学者、哲学者、物理学者、天文学者などである人たちは、高度に抽象化された、現実には存在しない理想の世界での因果律を日々研究し思索しているという点で、「リアルがカソ中」な生活を送っているわけです。

有名大学の教授などの地位にあり社会的には安定していても、そういう職業の人の奥さんなんかは、年中数式や顕微鏡や望遠鏡とにらめっこしている夫に、休日ぐらいは子供と遊んだり、外食に連れて行ってくれたり家事を手伝ったりしてほしいと、“リア充”のご近所さんや女友達たちを羨ましく思っているかもしれません。

またそういう学者先生も、ひょんなことからマスコミに注目されて一躍名物教授となり、TVのお勉強バラエティなどで人気が出たりなんかして、おバカキャラのアイドルや巨乳女子アナと六本木辺りで連夜チヤホヤ盛り上がる立場になると、「これが噂に聞くリア充ってやつか」と認識を新たにしつつ「……なんだバカバカしい、全然“充”じゃないな、やっぱり実験室の顕微鏡のほうが楽しいし落ち着く」と、結局“職業的カソ中”に戻って行くのではないでしょうか。

職業的カソ中の研究者が発見した新薬や治療法や力学原理で、リアル世界の難病の患者さんが治療可能になったり、二酸化炭素を排出しないエコな自動車や輸送機器が開発されたりもするわけですから、こういう人たちを「リアルがカスカスで淋しいからカソに嵌まってキノドク」なんて評する輩はいないはずです。

また、特に女性ならわかるのではないかと思いますが、乳児・幼児期の子育てなんかは、大人では想像もつかないような、ほとんど人間離れした鋭敏な五感と、日一日と変化する途方もない肉体的成長力のカッタマリとの、言語を超越した対話交流、意思疎通の試みですから、かなりの勢いで“カソ中”です。

一日じゅう子供“だけ”と接していると、配偶者を含む大人との、抽象的概念的な話題に関しての論理的整合性のある会話が困難になることすらある。

子育てというのは多かれ少なかれ、醒めて一歩引いていてはいけない、ある程度まで“他のことが目に入らなくなるくらいの耽溺性”を要求されるジャンルです。お母さんが、旦那さんとのワインデートや手作りキルトやホームパーティー、あるいは職場でのキャリアアップ、はたまた同性異性の友人たちとのパチンコや麻雀などで“リア充”だったら、幼い子供としては「はいはいリア充乙」と苦々しいことでしょう。子供にとっては、母親の“自分に構うことに没頭してくれてる”以外の時間とエネルギーは、ぜんぶ「リア充乙」です。

結局、人間にとっては“リア”と“カソ”は隣接しつつ、入れ子のように互いに内包し合ってもいて、誰もが両方に片足ずつ入れ、入れ替えたり重心を換えたりしながら生きている。

ある時期、ある局面の“リア”も視点を変えれば“カソ”だし、また別の局面限定では、“カソ”こそが“リア”であることもある。写真のネガとポジのように、リアとカソは本来如何様にも反転するのです。

この世に生を受け、生きるということは“リア”ですが、“カソ”が皆無でも、人間は生きられない。

“リア充”という、僻み含みの揶揄語は、ネガティヴ寄りの視点で発した言葉だけに、忌憚なく、仮借なく人間のそういう在りようを照射してくれてもいると思います。

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