『夜光の階段』最終話(18日)は、なんだか釈然としないと言うか、佐山道夫(藤木直人さん)の土壇場での内面の揺れを説明しようとし過ぎてスカっちゃったような結末になってしまいました。過去3度の『夜光~』ドラマ化と様変わって、今回は佐山が生きて逮捕される結末になるらしいと聞き、これは新機軸かも!と、かなり期待は保ちつつ観たのですがね。
やはりこのドラマ、福地フジ子(夏川結衣さん)が、昔、九州で不倫の子を身ごもり、堕胎手術で子を産めない身体になった上に男にも逃げられて絶望に臥していた病院のベッドに「元気を出して」とお地蔵人形を置いてくれた名も知らぬ優しい保険外交員が、名を変える前の佐山だった…というロマンティックな設定が決定的に余計だったと思う。程なく天拝山で女を殺して逃亡することになる、冷血アモラルな佐山にも、病院看護師たちに「あの患者さん自殺するかも」と噂される見知らぬ傷ついた女性を哀れと思う人間らしさはあった、ということにしたかったのか。
フジ子は改名前の佐山の名を調べ、上京後もずっと消息を追っていたということなのですが、以前にここで昼帯『夏の秘密』『金色の翼』関連でも書いたように、「実は、ドラマ現在時制開始前に、人物同士こんな関わりがあり、現在時制の感情の拠って来たるところはぜんぶその過去からだったのです」が後半で明かされるというのは、大小いろいろなベクトルの一本だけならいいけど、主要人物の情念の根幹をまるっとそれにすると、えらく白ける。
やはり“数字の見込める大物イケメン”藤木さんを主役に持ってきた以上、人としての長所が美貌以外にひとっつもないゴリゴリの悪党にはできないし、若さのピークは過ぎたとは言えまだまだ熟れ頃の美人女優夏川さんを、利用されてヤバくなったら湖底に沈められる色ボケアホ女にもできないという大人の配慮が足を引っ張ったか。
女たちの誇る財力や人脈や地位を利用するだけ利用してのし上がっていくつもりだったのに、メスとして自分のオスの部分を独占したがる女たちに結局振り回され、次々手にかけていくしか逃げ道のなかった愚かな色悪もどき。最後に利用した女が、不幸にして、身を捨てても自分を愛し抜いてくれる聖母だった。愛を信じないことで生き延びてきた佐山は、清らかな水では生きられぬ泥棲爬虫類のように、フジ子の愛で滅びたのです。
86年の辰巳琢郎さん版だったと思いますが、こちらでは、沈めたフジ子が最後の力をふりしぼって佐山の衣服(足首だったか?)を掴み、振り切ろうとしてもつれるうち佐山自身も水底で息絶え、2人つながったまま溺死体として警察が引き上げます。10余年佐山を追って、寸前のところで水上に逃げられ逮捕ならなかった検事と刑事(事務官だったか?)の、「自分も他の女たちのように佐山に殺されると気づいたフジ子が、佐山の身体を掴んで放さなかった。その力は何だったのでしょう?」「…」「愛、でしょうか?」「……そう思いたいね。そうでなければ浮かばれん」という会話がいまも記憶に残っています。捜査・司法の側を含め、誰も勝たなかった。このほうがずっと深い苦味のあるエンドマークです。
愛を信じなかった男が愛で滅びる、という骨子は共通していますが、恐らくは藤木佐山が、溺死体ではなくきれいな顔のまま警察の門に立つラストに持って行くために、若干小細工し過ぎた。ま、キャスティング以前に、過去3作いずれも単発2時間枠でまとめられてきた原作を、根本的な翻案でなく9話の連続ものに引き延ばしたらどういうことになるか、勝敗は最初から決していたような気もしますが。
ラスト1話前に、男と逃げてどこかに消えたか死んだかと思っていた佐山母(柏木由紀子さん)を出してきたのも何だったんでしょうね。男のワルがワルくなる出発点に、ともすれば問題のある母親との確執を置く物語作りも、もういい加減うんざりです。人間、とりわけ男子の幼少時の人格形成や、思春期以降の性嗜好に母親の影響が最も大きいことなど「はいはい、だから?」。……大詰めで佐山のかわいそうな事情や、自分を捨て去った母でも死期が近いと聞けばもてなし安心させてやりたい、人間らしい心を見せようとでもしたのでしょうか。キャラ造形の帳尻合わせとしてもタイミングが遅いし、やり方も強引で稚拙。
松本清張さんの著作歴を調べてみますと、この原作は1969年から70年にかけ、約1年半にわたって週刊新潮に連載されていますね。月河が住んでいたような地方と、東京のど真ん中とでは事情が違うかもしれませんが、昭和44~45年当時は、女性の髪を、男性がプロとして切ったり結ったりするというイメージは、芸能ファッション関係者ならいざ知らず、庶民には非常に珍しいものでした。
男に技術や才だけあってカネがなく、女のほうにカネや地位があって、男が女の歓心を買ってカネを引き出し地位を得ていくという図式も、いまならホストクラブならずとも頻々聞く話ですが、女性の地位や学歴が男性に比べ圧倒的に低く高年収の仕事も得にくかった時代に、清張さんはよくこのお話を構想できたなと思います。清張流のマムシのような取材眼で、高度成長期の東京は青山近辺を歩き、そっち方向の時代の萌芽を見出したのか、あるいは江戸爛熟期の文化のひとつ“封建支配階級婦人たちの役者買い・相撲力士買い”あたりにヒントを得た作家的想像力の産物だったのか。
“実は国家試験通ってなかった”という噴飯な事案まで輩出した、記憶に新しいカリスマ美容師ブームのずっと前から、美容室のチーフや店長クラスが男性というのは当たり前になっており、物語の“地合い”を、執筆後40年を経た現代にスライドさせるのもかなり難儀だったかもしれません。“野望のために女に奉仕する”ということに付きまとう“翳”が、現代にしてしまうとどうにも足りないんですな。当たり前になってるんだもの。
ここらは原作通りか、今作限定の付け足しかわかりませんが、佐山は天拝山事件の前は福岡で家具職人見習いをしており(←博多出張時遭遇したタクシー運転手の回顧)、そこを辞めてから佐賀で有田焼の職人になり(入院中のフジ子に名を告げず贈った地蔵人形は佐山の自作)、それも辞めて保険外交に転じたということになっている。もともと手先が器用で、“何かになるなら職人に”と志向する人間だったということなのでしょうが、幾許の美的センスは持ち前のもので、東京に逃れて美容師の道に進む前か後か、“自分に髪を触れられ、褒めそやされて女性が美しくなり喜ぶ”という快感を知り、「これで天下を取れるかも」という手ごたえをつかんだはず。
終わり間際になって生き別れの母親と再会させたりしてる尺があったら、佐山が天拝山時代の、行き当たりばったりの攻撃性から“先を読み打算するワル”に目覚めていく、そのプロセスをドラマ化してほしかった。「あの作品なら、あんなところ、こんなところがおもしろがりどころなのに」と月河が思った箇所と、今作の製作側が「こことここと、こういうところを味わい、萌えてほしい」と狙った箇所が一致しなかったんでしょうね。4月季の夜のドラマでは唯一期待して録画続けていたので、いささか残念な9週間でした。