retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

日比谷線南千住駅(南千住六丁目 素盞雄神社)

2010-12-31 07:42:59 | Weblog
日光街道に、戻り、南へ。
ちょっと、歩くと、通りの、西側に、素盞雄神社。
創建は、おそらく、平安時代。
訪れたときは、見るのを、失念してしまったが、境内には、有名な、瑞光石、というのがあるそうだ。
江戸名所図絵にも、載っていて、瑞光石のあるあたり、ちょっとした、塚、になっている。
小塚原、という地名は、この、小さな塚、小塚、から、ということらしい。
そして、塚、といえば、古墳。
おそらく、太古の昔からの、原住民の、古墳が、あった可能性が、高いと思う。
平安時代、その、古来からの、聖域を、神社に、置き換えたのだろう。
とすると、一帯に、暮らしが始まり、この場所が、聖域になって、気の遠くなるような、時間が経つわけだ。
そして、この先も、ずっと、あり続けるんだろうなあ。
そんな、素盞雄神社境内から、外へ出て、日光街道へ。
もう、夕暮れ。日が落ちそうなので、帰ることにする。
ちょうど、そのあたりから、吉野通りが、分岐していて、その通りを、南に進めば、南千住駅。
歩いていると、吉野通りには、昔からありそうな、店が、点々と、並んでいる。
ちょっと前に、訪れたときは、まだ、多くの店が、残っていて、少しは、賑やかだったけど。
今は、寂れていて、とても、静か。
そんな通りを歩いているうちに、夜が、だんだん、迫ってくる。
そのとき、ふと、「クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲」の、終幕を、思い出してしまった。
昭和ノスタルジーのテーマパーク、「夕日町銀座商店街」から、脱出した、家族たちは、夜の帳の落ちる前、夕暮れの中、春日部の、我が家を、目指して、帰っていく。
すっかり、日が落ちて、夜、家に、帰り着き、そして、家の明かりが、灯るのだ。
今から、10年前、そんな風に、帰る家があった、というわけか。
10年経った、今、いつの間にか、帰る家は、なくなっている。
でも、そんな時代でも、生き延びなければ、ならない。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(南千住六丁目 熊野神社)

2010-12-30 06:10:59 | Weblog
交通量の多い、幅広の、日光街道を渡り、西側へ。
住宅地に入り、さらに、西へと進む。
すぐに、小さな、熊野神社。
こちらは、さっき、訪れた、日枝神社より、もう少し、創建は、古いらしい。
平安時代末から、鎌倉時代、といったところか。
ただ、熊野神社は、鎌倉時代に活躍した、豊島氏と関係があるので、鎌倉時代かもしれないが、よく、わからない。
ここで、ちょっと、江戸名所図絵を見ると、千住大橋の袂、西側に、熊野神社、東側に、日枝神社が、並んでいて、昔も、同じだったんだな、と気付かされる。
ただ、その頃は、熊野神社、日光街道まで、境内が、広がっていたのだ。
現在とは、だいぶ、違う。
ひょっとしたら、江戸時代より前、鎌倉時代、室町時代は、さらに、もっと、大きかったかもしれない。
例えば、当時、近くの、隅田川沿岸、船荷の集積場が、あったらしいのだが、そういった施設と、セットだったとも、考えられる。
その頃が、最盛期だったのかな。
その後、後ろ盾だった、豊島氏が、いなくなって、徐々に、縮小し、今は、かくのごとく、小さな社になったわけだ。
一帯の地域が、寂れているのとは、あまり、関係ないことみたい。
時代という、大きな流れもあるが、個々に抱える、運命、というのも、あるのだろう。
いろいろな時代の中、なんとか、懸命に生き延びて、今に至っているに違いない。
そう、結局、できることは、どんな時代だろうと、その時の、「今」を、懸命に、生きることしかないんだな。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(南千住側から臨む千住大橋)

2010-12-29 04:16:32 | Weblog
住宅地の中、西に向かうと、しばらくして、巨大な、千住大橋の袂に出る。
この、千住大橋についてだが、江戸時代早々には、すでに、架かっていて、隅田川では、最初の橋、ということだ。
しばらくは、橋が、一つしかなかったので、橋の名前は、シンプルに、大橋、となっている。
両国橋など、他に、橋が、完成すると、区別するために、千住大橋、になったらしい。
でも、よく見ると、橋の上部に、大橋、と記されているわけで、正式名称は、今も、ひょっとすると、「大橋」、なのかもしれない。
どっちが、本当の名前なんだろうか、わからないが。
ただ、はっきりしていることは、江戸の街にとって、この、交通路が、もっとも、重要だったということ。
だから、最初に、橋が、架けられたのだ。
しばらくして、橋の北側には、千住宿が、設けられる。
その千住宿は、拡大を続け、ついには、橋の南側にも、広がっていった。
もっとも、さっき、訪れた、日枝神社の創建が、鎌倉時代なので、すでに、集落はあったと思う。
とすると、隅田川北岸の、千住宿に、吸収合併された、ということかな。
時代は、下り、江戸時代の次の明治時代。
千住は、隅田川を挟んで、北千住、南千住に、分けられる。
このとき、千住になる前の、地名にしてもよかったかもしれない。
もっとも、小塚原町は、ちょっと、まずいかな。
それはそれとして、高度成長期まで、一帯は、それなりに、賑やかだったらしい。
そして、今は、寂れた、昭和レトロの街。
時代は、流れていく。
これから、どうなっていくのだろう。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(南千住七丁目 日枝神社)

2010-12-28 05:10:38 | Weblog
再び、南千住駅の西側に出る。
ちょっと前まで、小さな、駅前広場の周囲には、古びた、店が、並んでいたのだが。
今では、すっかり、姿を、消してしまった。
なくなって、わかるけど、そのような、商業地域、存外、狭い範囲に収まっている。
店が並んでいた頃は、迷路のようになって、周囲に、果てもなく、広がっていると、思っていたな。
すっきりして、それが、錯覚だとわかるのはいいが、興醒めな感じがするばかり。
そんな駅前から、細い道を、北へ北へと、歩いていく。
都心下町の住宅街、隅田川近く、その果てに、日枝神社。
小さな、社だが、創建は、鎌倉時代の終わり頃と、けっこう、古い。
古いだけではなく、もう一つ、有名なのは、虫歯除けの神社としてだ。
なんでも、江戸時代、あまりの虫歯の痛さに、切腹して果てた、武士に因んでいる由。
当時は、歯医者なんて、いなかっただろうから、虫歯といえど、かなり、深刻だったに違いない。
だから、虫歯除けも、必要だったのだ。
ちなみに、現在の歯ブラシに当たるのが、昔は、先を、房状にした、房楊枝だったらしい。今もある、爪楊枝も、歯磨きが目的なのだろう。
そういえば、以前、テレビ番組で見たのだが、アフリカの原住民が、先を毛羽立たせた、小枝で、歯を磨いていたが、房楊枝と、似ているかも。
もっとも、歯磨きをするシーン、あまり、絵にならないからか、時代劇では、見た記憶はない。唯一、あるとすれば、木枯し紋次郎。うろ覚えだけど、特集番組で、たしか、焼塩かなんかを、指に盛り、それで、歯を、ごしごし、磨いていた。
たぶん、昔は、いったん、虫歯になってしまうと、深刻な状況に、陥ってしまうので、歯には、格別の、注意を、払っていたことだろう。
今は、とりあえず、歯医者がいるので、虫歯になっても、なんとかなる。
歯について、それほど、心配しなくても、よくなったわけだが。
でも、心配事が尽きないのは、どうしたことだろう。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(南千住四丁目 ドナウ通り)

2010-12-27 05:07:22 | Weblog
北に向かうと、整備された、新しい通り、ドナウ通り。
貨物線の敷地の北側に広がる、再開発地、集合住宅群へと、伸びている。
途中、沿道には、ショッピングセンターがあり、けっこう、賑やか。
寂れ果てた、南千住駅西側とは、対照的だ。
もっとも、かつて、高度成長期以前は、逆だった。すなわち、駅東側には、なにもなく、駅西側の方が、大いに、賑わっていたのだ。
さらに、その昔、江戸時代、北西側、千住大橋の袂には、千住宿があり、そちらの方が、賑わっていたらしい。
栄枯盛衰、賑やかな場所は、時代とともに、移り変わる、ということなのだろう。
それはそれとして、とにかく、今は、ここ、南千住駅近くが、街の中心らしい。
集合住宅の中には、高層住宅もあるので、それを見に、このあたり、何度か、訪れたものだ。
その時、よく、ショッピングセンター、ファストフードの店で、一休みしたな。
ぼんやりと、外を見ていると、楽しそうな家族連れが、幾組みも、通ったりする。
心、和む、光景だった。
ひょっとしたら、その、家族連れ、昭和レトロに、興味を抱き、駅西口に、行ってみたりすることもあるだろうか。
だとすると、まさに、レトロテーマパーク。夕日町銀座商店街、といったところ。
そして、昭和ノスタルジーに、飽いた頃、駅東口の、現実に戻るのだ。
失われた10年から、脱却しようとしていた時期なら、そんなファンタジー、心地よいものかもしれない。
でも、現実の中に、戻る場所が、なかったら、どうなるのだろう。
「クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲」では、とりあえず、春日部の、我が家へ、戻っていたっけ。
途方に暮れるしかないにしても、やはり、どうにかしなければならないが、わからないな。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(貨物鉄道隅田川駅)

2010-12-26 07:35:38 | Weblog
吉野通りから、東へ。再び、南千住駅。
その前を、通り過ぎて、駅東口に出る。
そこには、西口のように、駅前広場があったりするわけではない。
目の前に広がっているのは、広大な操車場、その中に、幾重にも並ぶ、貨物線の引込線、そして、貨物鉄道隅田川駅。
南千住駅の東側一帯は、貨物線の、敷地なのだ。
ひょっとしたら、その貨物線の敷地の、南側に出るために、日比谷線の、南千住駅ホームがあり、一方、駅西側に出るために、常磐線の、南千住駅ホームがある、ということなのかもしれない。
だから、南千住駅の、それぞれのホーム、別々に、見えたのかな。
そして、そんな貨物線の敷地の、東側には、かつて、汐入の街が、あった。
そこは、バブルの頃以降、再開発されるのだが、工事現場を、見るために、よく、貨物線の敷地の南側を、延々と、東へ、歩いたな。
ずっと、東へ歩いていき、北に、曲がり、そのまま、北へ、向かうしか、方法がなかったからだけど。
今なら、京成関屋駅、東武伊勢崎線牛田駅から、南へ、隅田川を、千住汐入大橋で越えれば、すぐ。
あるいは、南千住駅からでも、貨物線の敷地の北側が、再開発されたので、そこを、通れば、遠くはない。
だが、当時は、そんなものは、ありはしなかった。
いちおう、都営バスの路線があって、都営バスも、利用したんだけど、バスが、来ないときは、やはり、歩くしかない。
それにしても、遠かったな。まさに、陸の孤島。
そんな、汐入の街も、今は、ごく普通の、集合住宅地だ。
便利になり、快適になったのは、いいことだけど、なぜか、寂しい気もする。
なぜだろうか。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(南千住仲通り商店街)

2010-12-25 07:33:45 | Weblog
吉野通りを、少し、北に行くと、西に、南千住仲通りという、商店街が、伸びている。
吉野通りは、何度か、歩いていて、その、レトロな雰囲気に、心惹かれるものがあったのだが。
ただ、特に、南千住仲通りに行く予定は、なかった。
正面から、夕陽が差し込んでいて、なぜか、その、光景が、郷愁を誘い、思わず、南千住仲通りに、入り込んでしまったのだ。
これでは、まるで、昭和レトロをテーマにした、隠れた名画、「クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲」、そのままではないか。
そういえば、南千住仲通り、その、アニメ映画に出てきた、夕日町銀座商店街に、似ていなくもない。
違うといえば、ほとんど、客は、見当たらず、ひっそりとしていて、店も、所々にしか、ないことかな。
もっとも、昔は、おそらく、南千住から、西側、三ノ輪あたりまで、続いていて、こんな、夕方は、さぞ、買い物客で、賑わっていたことだろう。
まさに、夕日町銀座商店街のように。
と、思ったけど、やはり、実は、決定的に、違う点がある。
違うのは、今度は、夕日町銀座商店街の方。
昭和レトロのために作られた、人工のセット、夕日町銀座商店街には、子供の姿が、まったくないのだ。
作り物なのだから、当然なんだろうけど。
でも、今の、南千住仲通り、子供はおろか、他には、誰もいないし、そもそも、店も、なくなってきている。
どっちが、いいものやら。
たしか、「クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲」、その点には、触れていない。
バブルが崩壊した後の失われた10年、そこから、脱却しようとしていた頃の、アニメ映画なので、そこまで、深刻ではないのだろう。
そう考えると、「クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲」そのものも、今や、レトロな感じがして、こんな映画が、流行ったこと自体が、懐かしくなってしまった。
夕陽の差し込む、誰もいない、商店街を、後にして、吉野通りに戻る。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(南千住五丁目 回向院)

2010-12-24 05:08:56 | Weblog
南北に伸びる、吉野通りを挟んで、ブランズタワー南千住の西側には、回向院。
その南側にあった、江戸時代の刑場、小塚原のために、建立されたらしい。
ちなみに、刑場の場所、もっと、正確に言うと、常磐線と日比谷線の、間にあったそうだ。
江戸時代のことなので、今は、何もないのだろうが、例えば、日比谷線や、常磐線に、乗っていて、南千住駅に、入ろうか、とするとき、あまり、車窓から、外を、眺めたくはないな。
なんでまた、このような、場所に、と、思ってしまうけど。
ただ、そもそも、処刑場は、こうした、交通の要衝に、設けられていることが、普通なのだ。
つまり、見せしめ、という目的もあるので、往来の激しい場所が、選ばれたのだろう。
だから、小塚原が、特別なわけではない。
街道筋、大きな町の、入口には、たいてい、処刑場の跡が、あったりする。
もっとも、賑やかな、街にあっては、そんなこと、気にならないものなのかもしれないが。
いや、そういう、世の中の、裏面、影の部分が、あるからこそ、街は、より、一層、賑やかになっていくのかも。
だんだん、年を取ると、そう思えてくるのだ。
(2010年3月記)

日比谷線南千住駅(ブランズタワー南千住)

2010-12-23 07:33:19 | Weblog
高田馬場駅から、東西線。茅場町駅で、日比谷線に、乗り換える。
南千住駅で下車。
日比谷線は、地下鉄路線なのだが、南千住駅は、地上、それも、高架上の駅舎となっている。
たぶん、北側を流れる、隅田川を、トンネルではなく、鉄橋で、越えるために、この部分だけ、地上に、出たのかもしれない。
改札を出て、西へ。
すぐに、常磐線の南千住駅の駅舎。
かつては、日比谷線と、常磐線の駅、まるで、別々みたいだった。
今は、見通しがよくなって、一つの駅、という感じ。
ずいぶんと、変わったものだ。
常磐線の改札を過ぎると、小さな、駅前広場がある。
その西側には、ブランズタワー南千住。(工事中はこちら
最近、竣工した、高層住宅だ。
典型的な、駅近くの、再開発だな。
たしか、この、高層住宅が建つ前は、古そうな、パチンコ屋、その他、昭和の時代から、取り残されたような店が、固まっていたように、記憶している。
それらが、跡形もなく、一掃されてしまったわけだ。
なくなってしまうと、実に、あっけない。
当時、ここから先、そういった、店、商店街が、縦横に、広がっていくような、感覚を、覚えたものだが。
そんなことは、ただの、錯覚だったことを、付きつけられたような気分。
見通しがよくなって、便利には、なったけど。
(2010年3月記)

山手線池袋駅(池袋二丁目 道路予定地)

2010-12-22 06:09:42 | Weblog
道路予定地を辿り、さらに、東へ。
しばらくすると、唐突に、池袋の街に、出る。
徐々に、商店が増えつつ、気付いてみると、池袋、というわけではないらしい。
たぶん、以前は、池袋の街と、住宅街は、厳然と、分断されていたからだろう。
今になって、その垣根を越え、池袋が、拡大してきているのかもしれない。
そんな、池袋の街へ、入っていく。
ところで、その、拡大しつつある、池袋の街、とりわけ、北西部の、変わり様は、眼を見張るものがあるな。
昔よりは、格段に、きれいになったのだ。
自分が、学生のとき、池袋は、通学の途中だったので、何度も、訪れたものだが、とにかく、凄いところだった。
無法地帯、というか、暗黒街、というか。
でも、そういう場所、危険だが、好きだったりする。
そうか、ひょっとしたら、危険な街なので、住宅地と、峻別されていたわけか、と、今さら、気付くが。
実は、池袋には、もう一つの側面、南側の、目白、閑静な、住宅街、というのもあるのだ。立教大学あたりが、そうかもしれない。
閑静な住宅街と、暗黒街では、徐々に、混ざる、なんて、あり得ないな。
ただ、いつしか、暗黒街は、姿を消し、池袋の、街並みが、きれいになってきている。
これなら、閑静な住宅街と、融合できる。
もっとも、そうなると、池袋は、閑静な住宅街のための、街になってしまうのかも。
自分が、入り込む、余地は、なくなってしまうのかな。
ちょっと、寂しい気がするが、時代の、流れなので、仕方がない。
池袋駅を目指して、きれいになった、通りを、早足で、歩いていく。
(2010年2月記)