retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

都営大江戸線赤羽橋駅(三田四丁目 大聖院)

2015-02-28 07:03:36 | Weblog
宝生院についてだが、創建は、江戸時代の初め頃。
創建の地は、八丁堀、となっている。
そして、しばらくして、やはり、他の寺院と、同じように、この地に、移転してきている。
とすると、おそらく、江戸時代の初め頃、八丁堀に、一時的に、寺町が、作られたのだろう。
江戸の町の、発展に伴い、その、寺町が、そっくり、そのまま、この地に、移転した、ということかもしれない。
南へ、歩くと、通りの東側には、大聖院がある。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(三田四丁目 宝生院)

2015-02-27 04:40:19 | Weblog
長延寺についてだが、こちらは、創建、わかっていない。
創建の地は、今の、有楽町駅付近、数寄屋橋あたり、だったらしい。
とすると、西蔵院に、近い、寺院だったのかも。
同じように、江戸時代の前、室町時代、創建されたように、思える。
その後、江戸時代になって、やはり、八丁堀に、移転。
しばらくして、同じ頃、この地に、移ってきている。
寺町ごと、移転しているのかもしれない。
さらに、南へ。
通りの、東側には、宝生院。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(三田四丁目 長延寺)

2015-02-26 04:04:41 | Weblog
西蔵院、創建は、江戸時代の前、室町時代。
意外に、古い。
創建の地は、今の、有楽町駅付近、数寄屋橋あたり。
当時、そのあたりは、日比谷入江の東側、南へ伸びる、江戸前島、という、半島だったようだ。
その後、江戸時代になり、しばらくして、八丁堀に、移転。
さらに、また、しばらくして、この地に、移転している。
八丁堀にあった時期からは、大松寺と同じ。
とすると、一時的に、八丁堀に、寺町が、あったのかもしれない。
再び、南へ、向かうと、通りの、東側には、長延寺。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(三田四丁目 西蔵院)

2015-02-25 05:39:55 | Weblog
大松寺についてだが、創建は、江戸時代の初め頃。
創建の地は、東京駅の南東側、八丁堀。
江戸の町の、発展に伴い、ほどなくして、この地に、移転している。
寺町は、通り沿いに、南へ、伸びているので、通りそのものも、寺町とともに、開通したのかもしれない。
東側、南北に伸びる、鎌倉街道の、脇道だったのだろう。
今は、桜田通りになり、道幅も、広くなった。
さらに、南へと、歩くと、通りの、東側には、西蔵院がある。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(三田四丁目 大松寺)

2015-02-24 04:18:23 | Weblog
バブルの頃は、郊外、地方の時代だったので、大学も、都心から、郊外へと、移転したものだ。
だが、バブルは、崩壊し、郊外、地方は、寂れていく。
大学も、それに、呼応するように、今度は、都心キャンパス内に、高層ビルを、建て始める。
もっとも、慶應義塾大学の場合、どうなっているのか、わからないが。
ということで、慶應義塾大学を、後にし、西へ。
しばらくすると、桜田通りは、南へと、向きを変える。
南へ向かうと、すぐに、通りの東側、大松寺。
ここらへんから、寺町になっているようだ。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(三田二丁目 慶應義塾大学三田キャンパス)

2015-02-23 04:33:24 | Weblog
桜田通りの、北側一帯、慶應義塾大学三田キャンパス、となっている。
この地に、開校したのは、明治時代初め頃。
他の、多くの、有名な、学校も、同じ頃なのだが。
こうした、学校自体、江戸時代から、明治時代への、画期の一つ、という風に、見れば、当然のことかもしれない。
大名屋敷の代わり、というわけではないけど。
さらに、西へ、向かう。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(三田二丁目 桜田通り)

2015-02-22 08:04:41 | Weblog
しばらく、南へ歩き、途中、西へ。
鎌倉街道の方は、さらに、南へ、伸び、南西方向、聖坂を、上っていたようだが。
西へ伸びる通り、北側には、慶應義塾大学の、敷地。
江戸時代、その敷地は、島原藩の敷地だったらしい。
とすると、この通り、桜田通りなのだが、は、江戸時代、島原藩下屋敷南側に沿う、通りだったのだろう、
さらに、それ以前、下屋敷が、できる前は、何も、なかったはずだ。
桜田通り、再び、西へと、進む。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(三田二丁目 春日神社)

2015-02-21 07:03:14 | Weblog
しばらくすると、通りの、西側には、春日神社。
創建は、わからないが、かなり、古いことは、確からしい。
この地に、移ってきたのは、江戸時代。
それ以前は、もっと、西側に、あったようだが、どこにあったのか、わからない。
ところで、三田、というと、昔は、かなり、広い地域を、指していたようだ。
目黒区恵比寿ガーデンプレイスも、住所は、三田、となっている。
渋谷川、古川の、南側一帯を、三田、といったのかもしれない。
ひょっとすると、そちらに、旧地が、あるのかも。
今度、ゆっくり、考えてみよう。
さらに、桜田通り、南へ、向かう。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(レジデンス三田工事現場)

2015-02-20 05:42:35 | Weblog
桜田通り、南へ南へと、歩いていく。
途中、西に伸びる通りに入り、西へ。
しばらくすると、南側に、レジデンス三田の工事現場。
あたりの整備が進み、こうして、高層住宅も、建つわけだ。
バブル期以前、新橋、虎ノ門あたりが、都心中心部だったと思う。
それが、いまや、南へと、拡大し、ここらへんも、都心中心部。
まだまだ、都心再開発の集中は、続いている。
これから、どうなるのだろうか。
東へ、向かい、桜田通り。
再び、南へと、歩く。
(2013年2月記)

都営大江戸線赤羽橋駅(芝三丁目 桜田通り)

2015-02-19 05:39:36 | Weblog
赤羽橋、江戸時代から、架かっているのだろうが、実は、桜田通り、鎌倉街道でも、あったわけで、とすると、それ以前から、橋が、架かっていたのかもしれない。
ちなみに、赤羽、という橋の名前、地名からなのだろうけど、よくわからない。
そういえば、北側には、赤坂、という地名もある。
ひょっとすると、同じような、由縁なのかも。
もっとも、赤坂も、さっぱり、わからないのだが。
などと、考えながら、桜田通りを、南へ。
都心中心部、とはいえ、すっかり、整備されて、きれいになっている。
整備されたのは、バブル崩壊後、失われた10年で、再開発が、都心部に、集中するように、なってからだ。
(2013年2月記)