retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

南武線鹿島田駅東口(サウザンドタワー)

2007-09-30 04:51:43 | Weblog
鹿島田駅の東側に出る。
南武線に沿って南側一帯は、最新の高層住宅街になっている。
その中に高層住宅のサウザンドタワーがある。
バブルが崩壊して再開発が停止した新川崎が、ようやく再始動した感じだ。
この場所がなんの跡地か忘れてしまったが。
さらに、数年後に鹿島田駅と新川崎駅の間で、高層住宅の建設が始まるらしい。たぶん、最後になると思うけど。
その北側には、鹿島田の地名の由来となっている、鹿島田大神社がある。
鹿島神社がなぜここにあるのか、わからないが、新鶴見操車場ができる前は、今の新川崎駅ホームあたりにあったらしい。新川崎駅は、かつては小高い丘だったようだ。
さらに西側、新川崎駅の西口には、夢見ヶ崎公園、加瀬山がある。
多摩丘陵が一本の枝のようにここまで伸びてきている、ということだが。
この丘には、古墳などもあり、古代から生活の場であったらしい。
かなり前に一度行ったことがあるのだが。
たしかその日は台風が接近していた日だった。
動物園のある丘、といっても意外と森が深く、本当に太古の息吹を感じさせるほどだ。
さらにそのときは台風が来ていて、風も雨もそれほどではなかったけど、黒い雲が垂れ込めていて本当に誰もいなかったなあ。
森の中、まるで夜みたいで、時折、バラバラと大粒の雨、そして、ゴーッという風の音。そこに、妙な動物の甲高い鳴き声が幾度も響き渡って、森厳とか幽玄とか、それどころじゃなかった。
ほうほうのていで丘を下り住宅地に出て新川崎駅まで辿り着く。
今、そのことを思い出してみると、なるほど新川崎駅のホームのあった場所に鹿島神社があってもいいかもしれない、と納得してしまうのだ。
おそらく、夢見ヶ崎公園、加瀬山と呼ばれる丘と鹿島神社は一体なのかもしれない。
それならいっそう新川崎駅よりも新鹿島田駅の方が駅名としては合っているのに。
(2007年4月記)

南武線鹿島田駅西口(パークシティ新川崎西三番街D棟)

2007-09-29 10:26:13 | Weblog
鹿島田駅西口の新川崎三井ビルの南側には高層住宅群が広がる。
その中に、パークシティ新川崎西三番街D棟、そして、パークシティ新川崎東二番街G棟がある。
こちらもバブルの頃に竣工している。新川崎三井ビルと同じく日立製作所の工場跡地を再開発して建ったのでセットということだろう。
そして、本当は、川崎の新都心として、さらに再開発は進み、川崎球場も移転してくるはずだったらしいが、すべては実現しなかった。
もっとも、そうだとすると、なるほど、新川崎というのは、川崎の副都心、という意味もあったのだろうか。
位置的に見ると、横須賀線は南武線と川崎までほぼ平行して伸びているので、川崎の南部と新川崎まではくっつきそうに見える。
ずっと先のことを考えると、そうなるのかもしれないけど。ただ、現状は無理があるだろうな。
だいたい横須賀線は、新川崎を出れば次は横浜か西大井になっていて、ぜんぜん川崎とは関係ないのだ。
横須賀線は、横浜を出てしばらくすると、鶴見川を渡り、北に針路を変える。
するとすぐに西側に線路に沿うようにして広大な原っぱが広がっている。
まさにバブルの夢の跡だ。
この広い原っぱを越えるための跨線橋がとてつもなく長いし。
なにかこの南北に伸びる帯状の広大な原っぱが、西側の山の手、日吉と東側の下町とを分けているようにも見える。
そして、この原っぱがやっぱりそれなりに再開発され市街地化されると、その西側の下町も、変化の波にさらされるのかもしれない。
まだまだ先のことなのだが。
(2007年4月記)

南武線鹿島田駅西口(新川崎三井ビルW棟、E棟)

2007-09-28 06:21:08 | Weblog
向河原駅で南武線に乗る。
鹿島田駅で降りる。
一応、新川崎、ということになっているのだが、駅名は鹿島田となっている。
西側に200メートルぐらい歩くと横須賀線の新川崎駅がある。
離れているということもあるが、もともと接続駅にはなれないような雰囲気だ。
この新川崎駅と鹿島田駅の間、すなわち鹿島田駅の西口に新川崎三井ビルW棟、E棟のツイン高層ビルがある。
遠くからでもよく目立つ巨大なビルである。
竣工はまさにバブルの頃だ。
もともと一帯は、昭和に入ってから広大な新鶴見操車場が設置され、都心部における鉄道の物流を担っていた。
また工場なども多い。ちなみに新川崎三井ビルは日立製作所の工場跡地に建っている。
高度成長期が終わり、安定期に入って、その役割を終える。そして、バブルの頃に再開発が始まるのだ。
川崎とはかなり離れているのに、新川崎地区、という名前にその再開発の意味があったのかもしれない。
新川崎駅は、東海道線から横須賀線が分離したので、川崎駅とは別の川崎駅として新川崎になったらしい。なんか意味がわからないのだが。
この新川崎駅の開設も、高度成長期が終わり、安定期に入ったということで、貨物線を旅客化したことによる。
それはそれとしても、やはり本来は、地名から新鹿島田駅の方がよかったように思うのだが。
ということで、鳴り物入りでバブルの再開発が始動したのだが、同じようなケースの大宮操車場がさいたま新都心になったのに、この新しい川崎はバブルの崩壊とともに頓挫してしまう。
武蔵小杉にはなれなかったのだ。
(2007年4月記)

南武線向河原駅西口(NEC玉川ルネッサンスシティ サウスタワー)

2007-09-27 06:20:13 | Weblog
NEC玉川ルネッサンスシティ ノースタワーの南側にNEC玉川ルネッサンスシティ サウスタワーがある。
今は、ツインの高層ビルだが、最初はこのビルだけだった。
バブルが崩壊した後の失われた10年の頃、竣工している。
田んぼと工場しかないところに忽然と高層ビルが建ったので驚いたが。
そして、こんなところに高層オフィスビルなんて建てて大丈夫なんだろうかと思ったりもした。
だが、そのようなことはいらぬ心配だったどころか、逆に今は先見の明のあったことに驚いている。
今や、西側は、巨大な高層住宅がどんどん建設中でNEC玉川ルネッサンスシティも、もはやビル群の中に埋没して目立たなくなりつつある。
本当に変わったものだ。
ちょっと前は、田んぼには青々としたイネが揺れ、水路があちこちに伸びていて、カエルの鳴き声が聞こえる、そんなような感じだったのに。
そこに高層ビルが一棟建ったとしても、珍しい光景というだけだったのだが。
西側には横須賀線が南北に伸びている。
多摩川を鉄橋で越え、武蔵小杉に差し掛かったところで南にぐっと曲っていくのだが。
その横須賀線にも再来年ぐらいに駅が設置されるらしい。
東急東横線や南武線の武蔵小杉駅とはかなり離れているが、とりあえずNEC玉川ルネッサンスシティの最寄り駅になる。
やはり先見の明はこんなところにもある、ということか。
横須賀線の新駅は向河原駅の駅が一番近いのだろうけど、接続駅としてはあまり意味がないだろう。
武蔵小杉から東急東横線や南武線や、そして横須賀線が選べる、そこに意味があると思うのだが。
この先、どうなるのかわからないけど、はっきりわかることは川崎の北部の中心が武蔵小杉になっていくことだけかな。
(2007年4月記)

南武線向河原駅西口(NEC玉川ルネッサンスシティ ノースタワー)

2007-09-26 06:17:24 | Weblog
巨大なビルの建築現場を見ながら東へ歩いていく。
横須賀線を越えてさらに東へ。
いつの間にか南武線の次の駅、向河原駅に着いてしまう。
向河原駅西口には、NEC玉川ルネッサンスシティ ノースタワーがある。
たしかえらく辺鄙な場所にポツンと一棟建っていたと思ったのだが、いつの間にかもう一棟増えてツインビルになっている。
そして、そのツインビルの西側には、高層住宅の建設現場が広がっている。
このように武蔵小杉は、変貌するとともに街の範囲を広げているのだ。
北西側は、おそらく等々力緑地や等々力競技場が入るかもしれない。
スタジアムや公園は街には必要だろう。
北東側は丸子になる。中原街道の丸子橋のたもとになる。
新丸子駅周辺も再開発されるのだろうか。今のところは音沙汰がないけど。
南西側は、武蔵小杉の旧市街地が広がる。府中街道までだが。
南側は、高層住宅群が広範囲で工事中だ。ここも府中街道までとなっている。
そして南東側には向河原駅、NEC玉川ルネッサンスシティがあるというわけだ。
さらに、交通機関としては川崎縦貫鉄道が伸びてくる。まったく実現の目処はたっていないし、どのようなルートかもわからない状態だが。
とりあえずは等々力競技場と武蔵小杉駅は結ばれるらしい。サッカーの観客は楽になる。いつ開通することやら、なんだけど。
またさらに、高速道路の川崎縦貫道路、というのもある。
東京湾横断道路、アクアラインから川崎市内を通り、東名高速まで伸びるらしい。
しかし、川崎縦貫道路も2010年ごろ、やっと首都高速横羽線まで伸びてきて、そしてその先は目処がたっていない。
こうしているうちに東急線の武蔵小杉駅周辺、東側だけボコボコとでかい高層住宅が建つだけになってしまう。
(2007年4月記)

南武線武蔵小杉駅北口(武蔵小杉タワープレイス)

2007-09-25 06:22:28 | Weblog
武蔵溝ノ口でJR南武線に乗る。武蔵小杉駅で降りる。
一帯は広範囲で工事中となっている。
実は、豊州の再開発地ぐらいの規模かもしれない。
そんな中、南武線武蔵小杉駅の北口に武蔵小杉タワープレイスがある。
バブルが崩壊した頃に竣工している。
しかしその時代、まさかこんなに高層住宅が建つとは思わなかっただろう(まだ竣工はしていないけど)。
バブルの中、郊外のひなびた街にちょっと整備された空間が登場し、ポツンと高層オフィスビルが建っただけだ、と思っていたのだが。
だけど、それで完成ではなかったのだ。
つまり、現在、急速に新しい街に生まれ変わっている最中である。
今、消え行く街としての武蔵小杉だが、その武蔵小杉は、溝の口と似ているかもしれない。
この街も南武線沿線の下町に東急東横線が交差しているのだ。
せめぎあっている程でもないだろうけど。
南武線より北側が新しい感じだが南側が川崎っぽい感じがした。ちょっと京浜工業地帯の下町の雰囲気がしたものだったが。
これからどうなっていくのだろうか。
もともと武蔵小杉は、江戸時代の中原街道の小杉宿が最初らしい。
場所は、ずっと北より、陣屋町や御殿町あたりだろうか。
やはり明治時代、他の例にもれず、近代日本になり鉄道が伸び、工場が建つ場合、江戸時代以前の中心部から離れた場所に新しい街ができた。
武蔵小杉の場合、昭和になってからだけど。
そして、また今度は高層住宅の街になろうとしているのだ。
人工の山の手の街になろうとしてる。
江戸時代の小杉宿の北側には等々力緑地があってJリーグのサッカーもやっている。
これが時代の流れ、というものなのだろうか。
(2007年4月記)

南武線武蔵溝ノ口駅北口(ザ・タワー&パークス田園都市溝の口)

2007-09-24 10:11:10 | Weblog
二子玉川駅に戻り、再び田園都市線に乗る。
多摩川を越え、対岸の神奈川県へ。溝の口駅で降りる。
実は、学生の頃、一時的だが、通学路だったので、ちょっと昔の溝の口駅はよく知っている。
知っているのでなおさらなのだが、本当にちょっと昔の風景がまったく残っていない、そう実感してしまうのだ。
その頃の溝の口は、川崎を感じさせる南武線沿線の下町だったと思う。
もっとも、それだけではない。そこに山の手の田園都市に向かう、その名前の通りなのだが、東急の田園都市線が横切る。
山の手田園都市と京浜工業地帯の下町がせめぎあう実に奇妙な雰囲気だったが。
そして今はどうなったのか。
山の手田園都市の圧勝だったわけだ。(別に勝ち負けを競っていたわけではないだろうが)
きれいな商業ビルやマンションが建ち並び、どこかの郊外の新興商業地帯と区別がつかない。
しかし、今日は、もはや消えてなくなっている昔日の思い出を探しに来たわけではなく、最近竣工したザ・タワー&パークス田園都市溝の口(L棟、R棟からなるツインビルになっている)を見に来たのだ。
だがどうも見当たらない。すぐに西側は台地になっていて山の手なので高層住宅は建たないだろうし。商業地にもない。ちょっとあちこちと探してしまうが。
ふと、そういえば川崎よりに工場がいくつかあったことを思い出してすぐに向かう。
はたしてかながわサイエンスパークの隣にザ・タワー&パークス田園都市溝の口があった。
このかながわサイエンスパークというのは、バブルの頃に竣工しているのだが、一帯は、いくつかある日本のシリコンバレーと言われる場所だ。
工場といっても京浜工業地帯にあるような工場ではないわけだ。
やはり自分の中にある思い出としての溝の口はもはやなくなっている。
(2007年4月記)

東急田園都市線二子玉川駅(二子玉川東地区再開発Ⅰ-b街区)

2007-09-23 09:50:05 | Weblog
高田馬場から山手線に乗り、渋谷で田園都市線に乗り換える。
二子玉川駅で下車。急行だと本当に早い。
西口は、相変わらず買い物客で賑やかだ。
西口には、そういえば最近、高層住宅のプラウドタワー二子玉川が建ったのだ。
だが、今回は東口へ。
東口は、西口のような田園都市とは違ってまだ川べりのひなびた街の風情がわずかに残る。
東口一帯、多摩川にかけては再開発が行われるらしい。今のところどうなるかはわからないが。
おそらく、駅前に、駅ビルのような高層ビルになると思われる、Ⅰ-b街区の再開発のビルは着工されるようだ。
東口には、もとは二子玉川園という遊園地みたいなのがあったらしい。
郊外の憩いの場だったのだろうか。近くには多摩川もあり川遊びもできるし。
対岸には二子新地があり、溝の口とともに歓楽街だったようだ。
だから、実は対岸の二子とセットで二子玉川なのだろう。
いつの間にか二子の方は町名だけになり、玉川が二子玉川になっている。
二子玉川が変貌を遂げたのは、高度成長期が終わって安定期に入った頃だ。その頃、田園都市線が伸びてきている。
そして川崎の多摩丘陵に田園都市が誕生しようとしていた。
ただの郊外の遊び場だったのが、山の手の垢抜けたショッピングセンターの街になったのだ。
そして、結局、東口もそうなっていく、ということだろう。
今のところ、将来的にどのように変わるかわからないけど。
ただ、きれいに整備されるのもいいけど、なんかちょっと寂しくなる。
(2007年4月記)

京浜東北線石川町駅(パークスクエア横浜)

2007-09-22 06:20:04 | Weblog
東神奈川駅に戻り京浜東北線へ。石川町駅で降りる。
駅を出るとすぐ目の前にパークスクエア横浜がある。
同じ場所には、首都高横羽線と高速神奈川狩場線とのジャンクションがあり、高速道路の高架がループ状になっている。その真ん中にパークスクエア横浜が建っているのだが。
高層住宅を建てる以外に用途のない土地なのだろう。
京浜東北線(JR根岸線)の石川町駅は、みなとみらい線が開通するまでは、横浜中華街唯一の鉄道の入口であり、自分も何度かこの駅を出て横浜中華街に向かったものだ。
改札を出てちょっと歩くと大通り。その大通りの向こうにはもう中華街の西門がある。
そこをくぐると両側が学校か何かになっている。まだ中華街ではないのだ。
その先には中国の雑貨や美術品を売っているお店。そこをちょっと冷やかしてから、さらに先へ歩く。
すぐに賑やかな横浜中華街のメインストリート、長安道にでる。両脇には肉まんなどを売る呼び声。珍しい食材が並べてあり思わず足を止めてしまう。
でも、肝心の中華料理はその頃から高くて手が出なかったなあ。
よほど路地の奥まで入らないと。それでもやはり高いのだ。
それでどうするかというと、紙パックにチャーハンなどを入れて売っているところがあったのだ。たしか数百円だったと思う。
その中華料理が入って、ほくほくと温かい紙パックを持って、横浜公園のベンチで食ったりしたのだ。そんな中華料理でも本格的なので信じられないほどうまかった。
今でもその紙パックはやっているのかな。
最後に横浜中華街に行ったときは、テレビに出まくっていた某のお店が宮殿みたいになっていてびっくりした。テレビに出るとやはり金になるらしい。
今でも横浜中華街は賑やかだろう。あるいはみなとみらい線が開通してさらに賑やかになったかもしれない。
しかし、なぜだろうか、今はなんとなく足がとうのいてしまっている。
もっと時間が経ったら行ってみようかな。
(2007年4月記)

京浜東北線東神奈川駅西口(横浜スカイハイツトーカイ)

2007-09-21 06:21:02 | Weblog
東神奈川駅の西口へ。
こちらもペデストリアンデッキが伸びている。
駅北口には横浜スカイハイツトーカイがある。
このビルの歴史は古い。高度成長期以降の安定期に竣工している。
バブルが始まるまで、横浜には横浜駅北口の横浜天理ビルとこの横浜スカイハイツトーカイぐらいしか高層ビルはなかったということになる。
そういえば、横浜に向かうときはいつもこのビルがあって目印みたいだったなあ。
東神奈川は八王子方面から生糸が運び込まれてきたときの玄関口だったので、高層ビルぐらい建ってもよかったかもしれない。
東神奈川駅の南側には、かつて江戸時代には神奈川宿があった。
さらに古代まで時代を遡ると、神奈川湊があったらしい。
この県の名前にもなっているその「神奈川」だが、どうやら近くを流れる滝野川かららしいのだが、ではどうして「神奈川」というのか、その語源についてはまったくわからない。
ただ、多摩丘陵が海岸までせりだしたところが鶴見であり、そこが一帯の中心であったなら、その海への玄関口が神奈川湊、ということは場所的にみて自然な感じがする。
江戸時代になり、鶴見の丘陵地の北側が川崎宿となり南側が神奈川宿となる。
そして、明治時代、近代日本になり横浜港の開港ということになる。
各地の鉄道の駅がそうであるように、この地においても、本来の中心地、神奈川宿とは離れた、横浜が港の場所に選ばれている。(横浜という地名の通りただの浜だったのだろう)
それでも、一応、八王子からの生糸の玄関口として賑わいは残っていた。
しかし、それもなくなるとただの寂れた忘れ去られた地域になってしまう。
今もそうなのだが。
今後、都心回帰、集積化で、横浜もその都心の中心とすると、その玄関口として賑わいを取り戻すかもしれない。
もっとも、このわびしい、夢の跡、という雰囲気というのも個人的にはいいんだけど。
(2007年4月記)