retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央線中野駅(新井一丁目 中野通り)

2010-08-31 06:10:13 | Weblog
中野通りに出て、そのまま、南へ南へと、歩いていくと、中野へ辿り着く。
ただ、いつもは、薬師柳通りとの交差点から、さらに、先に進むのだが。
そこからは、ほぼ、完全な、商店街。たぶん、もともとは、新井薬師の、門前町だったのだろう。
薬師アイロード商店街、あるいは、薬師銀座、と呼ばれているらしい。
この商店街の南側には、かつては、花街、料亭街が、あったということだ。
さぞかし、柳の並木が、合いそうな風情だったのだろう。
とすると、薬師柳通りというのは、その頃の、名残なのかな。
そんな、商店街を、南西に、抜けると、ようやく、中野通りへと、出る。
新井薬師前駅から続く、商店の軒は、ここで、いったん、途切れるわけだが。
でも、中野通り沿いにも、ちらほら、お店があるので、続いていると、いえなくもないけど。
ところで、この、中野通り、いったい、いつ、できたのだろうか。
明治時代の地図を見てみると、中野通りらしき、通りは、まったく、影も形もない。
当時、一帯で、一番、賑わっているところといえば、やはり、新井薬師周辺。
今の、中野駅あたりは、何もなかったのだ。だから、中野通りも、ないわけだな。
その、何もない場所に、中央線が、開通する。
そして、中野駅も設置され、南北を結ぶ道路が、開通したのだろう。
高度成長期に入り、そのような道路が、環状道路として、整備され、今の、中野通りになったのだ。
ただ、そのおかげで、新井薬師と北野神社の間が、広い道路で、分断されてしまった。
おそらく、こういう、都心環状道路になるとは、思わないで、道路を作ってしまったのかな。
でも、美しい桜の名所、桜並木になったから、いいのかもしれない。
(2009年11月記)

西武新宿線新井薬師前駅(新井四丁目 北野神社)

2010-08-30 06:09:24 | Weblog
新井薬師梅照院の西側には、新井薬師公園がある。
子供らが、大勢、遊んでいた。地域の、憩いの場であるらしい。
すぐ北西側には、中野通り。
中野通りは、桜並木で有名なのだが、この公園も、桜が、たくさん、植えられている。
おそらく、桜の季節には、中野通りの桜と、公園の桜が、合体して、さぞや、壮観な、眺めなのだろうな。
中野通りを歩道橋で越えて、西側へ出る。
通りの西側には、北野神社。
創建は、新井薬師梅照院と同じ、江戸時代の少し前、ということだ。
ということは、新井薬師梅照院とセットだったのかもしれない。
さっきの、新井薬師公園は、もともと、新井薬師梅照院の境内だったらしいので、たぶん、けっこう、広い敷地だったわけだ。
江戸時代の、盛んな様子が、偲ばれる。
その割りに、江戸名所図会に、載っていないのは、なぜかわからない。
ところで、新井薬師梅照院が創建される前、すでに、集落は、室町時代に、開拓されて、できたらしいのだが、さらに、それ以前は、どうだったのだろうか。
実は、新井薬師梅照院の少し東側には、南北に、鎌倉街道が、伸びていたのだ。
中野駅北口の西側、北野神社と、新井薬師前駅北側、哲学堂公園の東側の御霊神社を結ぶ、ライン。
こちらの、北野神社、昔、訪れたことがあるけど、とても、ささやかな感じだったな。実は、かなり、歴史のある神社なのかもしれない。
そういうわけで、一帯には、鎌倉時代から、往来があったのだろう。
つまり、鎌倉街道沿い、ということで、この場所が、開拓されたに違いない。
もう、ずっと、昔々のことだ。
(2009年11月記)

西武新宿線新井薬師前駅(新井薬師 梅照院)

2010-08-29 06:33:52 | Weblog
哲学堂通りを南へと歩いていく。
並んでいるお店など、覗きながら、しばらく、進むと、南東に伸びる、薬師柳通りとの交差点。
薬師柳通りは、名前の示すごとく、なぜか、柳の並木道になっている。
なんで、柳を植える気になったのか、ちょっと、わからないが。でも、趣があって、いい感じだ。
その交差点から、北西へ向かうと、すぐに、新井薬師梅照院の山門がある。
新井薬師前駅の新井薬師とは、もちろん、この新井薬師梅照院のこと。
創建は、江戸時代の前ぐらい。
ただ、それ以前、室町時代、開拓のために、あたりに、井戸が掘られたらしい。
農業用水、生活用水の確保が、目的だろうか。
その井戸にちなんで、地名が新井、なのかな。
というわけで、たぶん、この井戸が、一帯の村落にとって、開拓の、シンボル的な存在だったのだろうと思う。
その後、開拓が軌道に乗り、そのことを記念するため、井戸の近くに、新井薬師梅照院が、建てられたのに違いない。想像だけど。
今でいうと、百周年、というような、大きな区切りの年に、イベントを、開催するような感じかな。
そのようにして、創建された、新井薬師梅照院が、今、ここに、こうして、目の前に、あるわけか。
そして、これからも、歴史を、ずっと、刻んでいくことだろうな。
何年も、何十年も、何百年も。
(2009年11月記)

西武新宿線新井薬師前駅(新井薬師商店会)

2010-08-28 06:15:32 | Weblog
駅西側を南北に伸びる、哲学堂通りを、南へ。
もう、この通りからして、商店街になっている。
勝手が、わからなかった頃は、とにかく、さらに、西へ、歩き、幅広な、中野通りまで出て、南へ、向かっていた。
こちらは、桜並木で、有名らしいのだが、でも、商店などはなく、普通の道路。
花の季節以外は、特に、風情や、情緒など、感じることはない。
そういうわけで、今は、もっぱら、この、哲学堂通りを、通ることにしている。
商店街としては、新井薬師商店会、という名前らしいが。
普通の道路の、両脇に、商店が、立ち並んでいるので、商店街ではなく、商店会、なのかな。商店街の定義が、厳密にあるものか、わからないけど。
でも、そんなことは、どうでもいい。
とにかく、並んでいる、お店が、レトロで、いい感じなのだ。
昭和の時代、そのまま。最近、多い、レトロテーマパークでも、十分にいける。
もっとも、前回、書いた、都心にありながら、急行が停まらない一帯は、たいてい、どこも、こんな雰囲気なのかもしれない。新井薬師前駅周辺に、限ったことではない。
そのような場所は、新興の郊外と、都心中心部の、オフィス街に、挟まれた一帯、ということなのだろう。
つまり、往来が、郊外と都心中心部なので、この場所を、通過してしまうのだ。
次々と、通り過ぎていくうち、いつしか、時代に取り残され、昭和のレトロになってしまったのかな。
ただ、レトロなら、いいけど、あまりに取り残され過ぎると、寂れていき、結局は、再開発、ということになる。
今、見た感じでは、大丈夫だろうとは、思うけど。将来のことは、わからない。
(2009年11月記)

整備新宿線新井薬師前駅(新井薬師前駅南口)

2010-08-27 05:05:05 | Weblog
西武新宿線。新井薬師前駅で下車。
乗り換えがないので、一番楽だ。
と思ったけど、急行から、途中駅で、各駅停車に乗り換えなければならにので、結局、乗り換えはある。
乗り換えがある、ということは、やはり、間遠には違いない。
特に、西武新宿線に限らないけど、急行の停まる、最も、都心寄りの駅から、先、つまり、都心にありながら、急行が停まらない一帯は、郊外という感じがしないものだ。
庶民的な商店街のある下町、という感じだろうか。
そういうわけで、どんな場所なんだろうと、好奇心が湧き、昔、景気がよかった頃、そんな、西武新宿線の駅、全部に、帰り道、降り立ってみたことがある。
もっとも、毎週、一駅づつだが。
たいていは、駅を挟んで、南北に、商店街が、伸びていたりする。
中には、商店街が、隣の駅の、商店街と、合体している、賑やかな、駅前もあったな。
ラーメンで有名な、野方駅だったろうか。
そんな中、最も、自分が好きなのは、新井薬師前駅。
北に、行けば、哲学堂公園があり、南に向かえば、中央線中野駅まで、商店街が、途切れない。
そればかりか、歴史のある、古社古刹も多く、古に思いを馳せることもできる。
そういうわけで、中野に行くときは、中央線ではなく、いつも、新井薬師前駅から、歩くようになったわけなのだが。
今回も、目的地は、中野。
そして、あえて新井薬師前駅で降りる。
さあ、中野へ向けて、晩秋の道行きに、出発しよう。

東武伊勢崎線北千住駅(千住四丁目 氷川神社)

2010-08-26 05:09:27 | Weblog
水嵩が、これ以上、増してくるという感じではないけど、圧倒的な、水量の多さに、だんだん、気圧されてきたので、退散することにする。
河川敷、虹の広場を、南へ。
再び、土手を、越え、名倉接骨医院の東側を、さらに、南へと、歩いていく。
あたりは、静かな、住宅地。晩秋の、寂漠感、漂う風情だ。
しばらくすると、氷川神社の境内。
地面には、落葉が、敷かれ、秋の装い。
物寂しく、秋、ますます、深まる、という感じがするな。
そういえば、この神社の創建、江戸時代に入ってかららしい。
千住宿が、賑やかになってきた頃だろうか。
いわれについては、よく、わからない。
ということで、ちょっと、明治時代の、地図を見てみる。
まだ、鉄道や、駅が、なかった頃の地図なので、明治時代とはいえ、それ以前、江戸時代の、千住宿の街並みを窺えるはずだからだ。
当時の、千住宿の北端は、やはり、さっき、通ってきた、名倉接骨医院まで。
氷川神社、名倉接骨医院、安養院が、その北端を、包み込むように配置されている。
やはり、千住宿の、街並みと、この、氷川神社は、深く、関わっているに違いない。
ところで、この、明治時代の地図を見て、一番、驚くべきことは、大河、荒川が存在しないことだ。
荒川が、ないならないで、千住宿の街は、これからの、北関東、東北への、長の旅路の起点、という感じがするものだな。
今は、当たり前のように、荒川が、流れている。
このように、見てくると、本当に、時代の流れを、感じてしまう。
(2009年11月記)

東武伊勢崎線北千住駅(荒川河川敷 虹の広場)

2010-08-25 04:58:04 | Weblog
宿場町通りを、北へ。通りは、いつしか、サンロードと、名前が、変わっている。
もう、商店街ではなく、普通の、道路になったからかな。
しばらくすると、東西に伸びる、新しい通り。
この、新しい通り、途中で、行き止まりになっている。
この先、どんどん、延伸していくとも、思えないが。
敢えて、延伸するとすれば、北千住駅の東側に出て、荒川の土手に達し、そこからは、土手沿いに、南へと伸びていくのだろう。
いわば、北千住環状道路、といったところか。
もっとも、交通量が、今後、増大するわけではないので、必要は、ないのだろうけど。
あたりは、もう、静かな、普通の住宅地。
さらに、北へ歩く。
少し、行くと、道路の、東側に名倉接骨医院。
なんでも、江戸時代から、続く、接骨医院らしい。
こちらも、いちおう、歴史的テーマパークの一環を、担っているのかな。
その北側は、荒川の土手。
土手を、越えていくと、広々とした、河川敷。運動場や、虹の広場になっている。
荒川は、江戸時代には、存在していなかったので、渡し場などの、痕跡はない。
これだけの、大河が、人工河川、というのは、信じられないな。
北へ、歩いていき、川縁へ。
実は、昨夜来からの大雨で、川面は、膨れ上がり、虹の広場のすぐ、際まで、ひたひたと、川水が、押し寄せていたのだ。
おかげで、河川敷には、誰もいない。
目の前には、時代の流れのごとく、滔々と押し下る、大河があるばかり。
(2009年11月記)

東武伊勢崎線北千住駅(千住本町公園)

2010-08-24 06:07:56 | Weblog
北千住駅西口宿場町通りを北へ。
北千住を代表する商店街なのだが、心なしか、ちょっと、閑散としている気もする。
それ以前に、なんとなく、こぎれいに整備されていて、風情がなくなってしまった。
以前は、もっと、下町らしい賑やかさがあったように記憶しているけど。
そんな、宿場町通りを、さらに、北へ歩く。
しばらくすると、通りの東側に、千住本町公園。
江戸時代の千住宿高札場の原寸大模型が、設置されていて、公園、というよりも、歴史的テーマパークのようだ。
ただ、当時の、千住宿は、ここよりも、ずっと、南寄りにあったらしい。
今の、北千住駅の、南西側ぐらいだろうか。
もっとも、そのようなことは、どこも、同じ。
鉄道路線、鉄道駅は、江戸時代の、街の中心地から、はずれた、場所に、設置されたもののだ。
そしてその後、鉄道駅に、街の中心が移り、江戸時代の、街の中心は、静かな、旧市街、ということになる。
北千住の場合は、どうなっているのか、ちょっと、わからないけど。
雰囲気的には、ここらへんが、旧市街の雰囲気がするな。
さらに、北へ、歩くと、とても古い家屋が、建っていたりする。
さらには、有名な、槍掛け団子のお店。
こう見てくると、旧市街ではなくて、やはり、歴史的テーマパークだ。
他では、たいてい、旧市街が、歴史的テーマパークになるので、どちらでも、いいいんだろうけど。
たしかなことは、昔の街並みは、こうした、歴史的テーマパークになるしか、残らない、ということだな。
(2009年11月記)

東武伊勢崎線北千住駅(北千住駅西口宿場町通り)

2010-08-23 03:44:09 | Weblog
堀切駅で、東武伊勢崎線の列車に乗り込む。
そういえば、この駅の周辺、金八先生の、ロケ地だったらしい。
ぜんぜん、見ていなかったので、なんの感慨も、湧かないが。
あとで、時間ができたら、見て、懐かしく、当時を、思い出すかもしれないけど。
列車は、いったん、西に向かい、カーブを描いて、北へ。
巨大な北千住駅に吸い込まれていく。
西口へ出ると、ペデストリアンデッキ。
相変わらず、賑やかだな。
バブルが崩壊した頃は、ずいぶんと、寂れ果てていたのに。
いちおう、都心近くの、交通の、要衝ということで、盛り返したようだ。
ペデストリアンデッキを降り、街中を、北西方向へ。
細い路地に入っていく。
下町の繁華街、というよりも、近頃、よくある、郊外の、商店密集地みたい。
生活用品ではなく、小物雑貨、ファッション、嗜好品のお店が多くなっていくのだ。
駅近くが再開発されたせいなのだろう。
駅ビルは、たしか、バブルの頃に、誕生している。
名前は、ウイズだったかな。今は、ルミネだ。
足立区あたりに住んでいた、同僚が、さっそく、スーツを設えてもらっていたっけ。
ただ、あの頃は、全体的に、賑やかで、何かが、変わる、ということではなく、賑やかさが、いや増す、感じだった。
変わったのは、バブルが崩壊し、失われた10年の後、高層住宅と丸井が、駅近くに登場した頃かな。
街並みが、北千住ではなく、どこぞの郊外にあるような、感じになってきたのだ。
そんなこと、考えながら、路地を抜けると、南北に伸びる、北千住駅西口宿場町通り。
北千住の中でも、代表的な、商店街だ。
(2009年11月記)

東武伊勢崎線堀切駅(東武伊勢崎線堀切駅の駅舎)

2010-08-22 07:13:27 | Weblog
墨堤通りから北東へ。住宅地の路地に、入っていく。
以前からなのだが、このあたりだけ、例外的に、閑静な住宅街なのだ。
東武伊勢崎線、京成電鉄の駅が近くにあって、交通の便が、案外、いいからだろうか。
ちょっと、わからないけど。
そういえば、あまり関係ないけど、隅田川を挟んで、南側の、汐入に、初めて行ったときのことを、思い出すな。
都営バスの終点だった。
神社があって、そのまわりには、昭和の時代から、取り残された、みすぼらしい、民家が、建ち並んでいたのだ。
ここらへんのような、閑静な住宅街とは、対照的な場所。だから、ふいに、思い出しのかな。
その後、すぐに、汐入は、再開発が、始まって、瞬く間に、きれいに整備されて、集合住宅地になってしまった。
その、できあがったばかりの集合住宅地に、いったことがある。
まだ、入居は、始まっていず、誰もいなかったし、道路なども、工事中で、完成していなかった。
まるで、映画のセットみたいだったな。
そんな集合住宅地に、ぽつねんと、浮浪者が、立っていたのだ。
一瞬、ぎょっとしたけど。
でも、たぶん、この、浮浪者氏、汐入の街が、再開発される前から、ずっと、この場所に、いたんじゃないかな、と思える。
汐入の街があったころは、居場所が、あったのかもしれないな。
そんなこと、思い出しながら、住宅街を、北へ歩いていくと、東武伊勢崎線堀切駅の、なんとも、小さな、古ぼけた駅舎。
この、駅舎には、居場所は、あるわけか。
閑静な、住宅街だから、そうなのかもしれない。
(2009年11月記)