retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

半蔵門線清澄白河駅(三好一丁目 正覚院)

2012-07-31 05:09:06 | Weblog
深川資料館通りの南側には、正覚院。
近くの、霊巌寺の、子院だったらしい。
今も、そうなのか、すでに、独立しているのか、よくわからないが。
創建は、霊巌寺と同じ、江戸時代の、初め頃。
場所も、同じく、今の、茅場町の東側、霊巌島。
しばらくして、霊巌寺とともに、この地に、移転してきている。
正覚院、霊巌寺だけではなく、江戸の街にある、多くの寺院も、この頃、中心部から、ちょっと、離れたところへ、移転したようだ。
おそらく、江戸の街が、拡大する時期だったのだろう。
拡大した、新興の地には、まず、寺院が、移転、するものらしい。
具体的に、街の整備に、どのような、役割を果たすのか、よくわからないが。
来訪者が、恒常的に、増えて、賑やかになる、ということかな。
とすると、一帯の、埋立地、深川や、清澄あたり、この時期に、街並みが、ようやく、築かれ始めた、ということになる。
その後、しばらくして、町屋や、大名屋敷が、建てられていったのかもしれない。
(2011年10月記)

半蔵門線清澄白河駅(白河一丁目 深川資料館通り)

2012-07-30 04:37:44 | Weblog
再び、南北に伸びる、清澄通り。
清澄通りを、南へ。すぐに、東へと、伸びる、通りがある。
深川資料館通り、という通り。
深川資料館通りへ、入ってみる。
並木がきれいな、ちょっと、細い道。
わずかだが、土産物屋風の店も、あるようだ。
ただ、のらくろードほど、積極的でもない。
近くに、清澄庭園、深川資料館が、あるのに、もったいないような感じだ。
もっとも、閑散としているから、仕方がないのかな。
いや、閑散としているからこそ、テーマパークが、必要な気もするけど。
おそらく、清澄庭園、深川資料館、自体が、テーマパークなので、及び腰なのだろう。
それと、あたりが、整備されたのが、バブルの頃で、当時は、それなりに、観光客は、来ていたと思う。
これほど、閑散としてはいなかったし、ちょっとした、話題にも、なっていたし。
ということで、江戸の町テーマパークみたいにしたら、いいのかもしれないな。
(2011年10月記)

半蔵門線清澄白河駅(清澄公園の草原)

2012-07-29 08:25:24 | Weblog
清澄庭園を出て、その西隣の、清澄公園へ。
もともと、清澄公園も、清澄庭園に、含まれていたらしい。
東半分は、公園、ということにして、一般に公開したのだろう。
ところで、ふたたび、清澄庭園の、成り立ちの話。
関宿藩の下屋敷になる前、この場所が、紀伊国屋文左衛門の、屋敷ではなかったとすると、いったい、なんだったのだろうか。
当時、すでに、西側には、仙台藩の蔵屋敷、北側には、本誓寺、北東側には、霊巌寺が、あったようだ。
さらに言えば、南側には、東西に、仙台堀川。
では、それらに、囲まれた、この、場所には、何が、あったのか、と言っても、もう、わからない。
昔のことなので、仕方のないことだ。
ちなみに、清澄、という地名、入植者の名前、清住弥兵衛、から、ということらしい。
深川が、深川八郎右衛門から、きているのと、同じだ。
こちらも、干拓されて、初めて、歴史が、始まったのだろう。
清澄公園を、後にして、東へ、向かう。
(2011年10月記)

半蔵門線清澄白河駅(清澄庭園の池)

2012-07-28 07:07:58 | Weblog
清澄庭園に入ると、目の前、いきなり、大きな池。
足を止めて、池を、見渡すことになるので、なんとなく、広大な、奥行きのある、空間にいるような、気分になる。
気のせいかもしれないけど。
池の、向こう側にも、行ってみたかったが、時間がないので、池のまわりを、歩くに、とどめる。
こういう庭園、たいていは、江戸時代の、大名屋敷が、もとになっているのだが、こちらも、例に洩れず、関宿藩の下屋敷だったそうだ。
ただ、それ以前は、有名な、紀伊国屋文左衛門、の屋敷だったらしい。
墓所が、すぐ、近くで、晩年の頃、このあたりに、住んだらしいから、そのようなことも、あり得るのかな。
ただ、明治時代になって、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎が、この土地の、所有者になり、整備しているし、戦災に遭った後も、さらに、整備されて、今日に、至っている。
もし、紀伊国屋文左衛門の、屋敷跡だったなら、整備しているとき、なにか、証拠が、見つかっても、よさそうなものだが。
あるいは、同時代、その屋敷のことを、描写した記事なり、あっても、よさそうなものだが。
どうも、何か、伝説のような、感じもする。
(2011年10月記)

半蔵門線清澄白河駅(清澄三丁目 本誓寺)

2012-07-27 04:29:58 | Weblog
清澄通りに戻り、再び、南へ。
のらくろードを過ぎ、小名木川を、渡ると、東西に伸びる、清洲橋通りとの、交差点。
都営大江戸線、半蔵門線の、清澄白河駅がある。
もとの場所に、戻ってきたわけだ。
だが、まだ、帰るわけではない。
この、交差点の、南西側一帯は、清澄庭園があり、南東側には、深川資料館がある。
実は、バブルの頃、近くに来たのだが、どちらにも、行きそびれてしまったのだ。
その後、今にいたるも、結局、訪れていない。
今回は、やっと、訪れてみよう、というわけ。
清澄通りを、少し、南へ。
西へ伸びる、道路に入る。
道路の、南側は、もう、清澄庭園。
しばらく歩いていくと、北側に、本誓寺。
創建は、江戸時代の前、戦国時代らしい。
場所は、小田原。
江戸時代になって、今の、日比谷あたり、そして、しばらくして、この地に、移ってきている。小田原には、もとの、本誓寺は、今も、あるのだが。
さらに、少し、西へ行く。
すると、いよいよ、清澄庭園の入口。
(2011年10月記)

半蔵門線清澄白河駅(森下一丁目 深川神明宮)

2012-07-26 06:07:09 | Weblog
そういえば、子供の頃、田舎に帰ったとき、のらくろの漫画が、いっぱいあって、読んだものだな。
たしかに、今、思えば、下町を、思わせる、庶民的な、感じではある。
刊行されたのが、戦争の前、ということで、荒んだ世相の中、庶民的なものが、求められていたのかもしれない。
そのようにして、誕生した、キャラクター、のらくろ、今は、閑散とした、商店街を、活性化させようとしているわけか。
などと考えているうちに、南北に伸びる、清澄通り、との交差点。
北へ曲がり、清澄通りを、そのまま、北へ。
すぐ、西へ曲がり、西へと、歩く。
程なくして、北側には、深川神明宮。
創建は、江戸時代の初め。
とにかく、江戸時代より前は、何もなかったので、そういうことになる。
神社の、名前の由来は、入植者、深川八郎右衛門に、因んでいて、深川という、地名も、同じ。
入植者の名前が、地名になるというのは、それ以前、よほど、何もなかった、ということだろう。
(2011年10月記)

半蔵門線清澄白河駅(森下三丁目 のらくろード)

2012-07-25 04:16:53 | Weblog
三ツ目通りを北へ。
東西に横たわる、小名木川を、越え、さらに、北へと歩いていく。
まわりの街並み、下町っぽい感じがして、いいな。
しばらくすると、東西に伸びる、釜屋堀通りとの交差点。
西へ曲がり、そのまま、釜屋堀通りを、西に、進む。
下町っぽいのは、いいけど、例えば、バブルの頃、来たときよりも、明らかに、閑散としている。
ただ、閑散としているけど、歩いていくほどに、沿道の、商店は、多くなってくる。
高橋夜店通り商店街、というらしい。
だんだん、歩いていくと、今度は、なぜか、のらくろの漫画。
通りは、のらくろード、となる。
高橋夜店通り商店街が、のらくろードなのか、部分的に、のらくろード、なのか、わからないけど、そこかしこ、のらくろが、ちりばめられている。
なんでも、作者の、田河水泡が、若い頃まで、近くに、住んでいたことに、因んでいるらしい。
ちょっと、由来が、強引だけど、歩いていて、楽しくなるので、いいかな。
最近、あちこちで、行われている、街の、テーマパーク化、ということだろう。
そんな、のらくろードを、西へと、歩いていく。
(2011年10月記)

半蔵門線清澄白河駅(D’グラフォート清澄白河スパークリングタワー)

2012-07-24 06:08:01 | Weblog
高田馬場駅で東西線。
九段下駅で半蔵門線に乗り換える。
清澄白川駅で下車。
いつものように、地下駅構内から、東へ伸びる、地下道へ。
地上に出ると、東西に伸びる、清洲橋通り。
そのまま、清洲橋通りを、東へと、向かう。
とくに、暑くも寒くもなく、雨も降っていないので、地下道を、歩く、必要性はないのだけど。
そういえば、この間、冷たい雨が、降り続いた後、一段と、秋が、深まった感じ。
夏の終わり、というよりも、冬が近い、というところだ。
そんなことを、考えているうちに、南北に伸びる、三ツ目通りとの、交差点。
この、交差点の、北西側には、ちょっと、北側に、離れたところ、D’グラフォート清澄白河スパークリングタワーがある。最近、竣工した、高層住宅だ。(工事中はこちら
交差点の、他の、三隅にも、それぞれ、一棟づつ、三棟の、高層住宅が、すでに、建っている。
これなら、さっきの、地下道、この、交差点まで、伸ばしてくれば、よかったかも。
さらに、動く歩道を、設置すれば、便利なのだが。
都心部にあるだけで、便利なのだから、そこまでしなくても、いいのかな。
(2011年10月記)

埼京線戸田駅(上戸田三丁目 上戸田氷川神社)

2012-07-23 04:58:16 | Weblog
住宅地の中、東西に伸びる通りを、西へと、歩いていく。
かなり、歩いたところ、通りの、北側には、上戸田氷川神社。
創建は、鎌倉時代の後の、室町時代。
荒川沿岸にいた、戸田氏が、いなくなり、拠点が、やや、内陸部、元の蕨に、移動した時期が、鎌倉時代の終わりなので、そのことと、合っているように思える。
ただ、移動は、わかるのだが、どうして、戸田が、いつの間にか、蕨、になったのか、わからない。
そして、その後、戸田が、復活するのは、江戸時代に入って、中山道が開通、戸田の渡しが、設置されてからだろうか。
もっとも、そんなことは、どうでもいいことかも。
今日は、ちょうど、秋祭りみたいだし。
おそらく、江戸時代あたりから、続いてきたのだろう。
こうして、毎年、毎年、祭りで、賑わう、ということは、いいことだ。
これからも、ずっと、続くと、いいな。
さて、そろそろ、帰ろう。
通りを、西へ向かい、埼京線の高架に、行き当たったところで、高架に沿って、北へ、行けば、戸田駅。
そういえば、こうして、ちょっと、祭りに立ち寄ることは、あっても、本当に、祭りに行く、なんて、ないな。
寂しいことだ。戸田駅から、埼京線で、帰る。
(2011年10月記)

埼京線戸田駅(上戸田二丁目 元蕨第三公園)

2012-07-22 06:33:11 | Weblog
住宅地を、南へ。
東西に伸びる、市役所通りを越え、南へと、歩いていく。
しばらくして、元蕨第二公園。
第一から第二、になっているが、実は、本来の、元蕨に、近付いているので、番号のつけ方としては、逆だ。
たんに、現在の、市役所から、近い順に、第一、第二、となっているだけだろうけど。
そして、さらに、南へ。
今度は、元蕨第三公園がある。
この、元蕨第三公園と、南側、光明寺のあるあたりが、元の、蕨城だったらしい。
また、ここから、南側、荒川北岸に、百の井屋敷、というのがある。
その、百の井屋敷、どうやら、元の、蕨城の、前身だったようなのだ。
さらに言うと、百の井屋敷のある場所、鎌倉時代の武士団、戸田氏の、拠点、となっていたらしい。
荒川の、岸辺に、拠点が、あったとすると、おそらく、戸田氏、荒川の水運を、担っていたのだろう。
ひょっとしたら、鎌倉時代、百の井屋敷は、戸田屋敷、戸田館、あるいは、戸田城、と呼ばれていたのかも。
鎌倉時代が、終わると、戸田氏は、いなくなり、その拠点は、百の井屋敷へ。
歴史は、流れ、荒川から、ちょっと、奥まった場所、元の蕨へ、移動。
最終的に、今の、蕨、というところだろうか。
(2011年10月記)