retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京葉線新浦安駅(新浦安駅南口付近の地割れ)

2011-11-30 04:54:09 | Weblog
津田沼駅から、総武線。西船橋駅で、武蔵野線に乗り換える。
しばらくすると、列車が、静かに、ホームへ。
来ないときは、来ないのだが、今回は、早く、来た方かな。
列車に乗り込むと、京葉線、千葉方面よりの方向へ。
運がよければ、東京方面よりに行けるんだけど。
まあ、仕方がない。南船橋駅で、京葉線に乗り換える。
京葉線の車窓から、高架の下を、見ていると、ところどころ、白い砂が、蒔かれたような、場所。
これが、液状化、ということらしい。
実際、目の当たりにすると、異様な光景だ。
新浦安駅で下車。
駅南側の、駅前広場に降り立つ。
階段、降りるときに、下の方の段が、いきなり、なくなっていて、驚いた。
なくなった、というより、階段そのものが、地面から、浮き上がってしまっているのだけど。
さらに、駅前広場を、歩いてみたが、路面が、あちらこちら、歪んだり、壊れていたり、ひどい惨状。
大震災の影響は、今も、終わっていない。
そういえば、地震の起こった、次の週も、いろいろなことが、起こり続けたな。
交通網が、大混乱状態。通勤に、別ルートを使わざるを得なかったし。
原発事故の放射能洩れ。今でも、心配だ。
そう、輪番停電もあった。これは、本当に、まいったな。
大震災は、まだまだ、終わっていないのだ。
(2011年4月記)

総武線津田沼駅(ザ・パークハウス津田沼奏の杜ブライトレジデンス工事現場)

2011-11-29 05:07:34 | Weblog
ペデストリアンデッキに戻り、こんどは、駅前広場の南側に建つ、大型のビルへ。
モリシア津田沼、という名前。最初は、サンペデック、だった。
津田沼を、代表する建物。
さらに、言えば、郊外、地方、華やかなりし頃の、遺物だ。
モリシア津田沼に入り、ビル内を通り、南側に、出る。
すると、まだ、その先に、伸びている、ペデストリアンデッキ。
こういうの、好きだな。
日本の盛んな時代を思い出させてくれるし。
ペデストリアンデッキを降り、西へ。
すぐに、南西に伸びる、道路。
道路の、西側一帯、広範囲に、再開発工事中、となっている。
その中、高層住宅、ザ・パークハウス津田沼奏の杜ブライトレジデンス。
あまりに、広範囲なので、この中の、どこに、高層住宅が建つのか、わからない。
おそらく、道路際、だとは思う。
道路に対する、遮蔽物になるからだ。
ということで、道路沿いあたり、たぶん、ここらへん、と思う場所をカメラに収める。
さっきの、ペデストリアンデッキに、上り、北側、津田沼駅へ。
どうせなら、ペデストリアンデッキ、再開発地、津田沼奏の杜まで、伸ばせば、いいのだが。
自分とは、関係ないけど。
(2011年4月記)

総武線津田沼駅(千葉工業大学津田沼キャンパス新2号棟)

2011-11-28 05:07:44 | Weblog
高田馬場駅から東西線。
飯田橋駅で、総武線に乗り換える。
列車は、江戸川を渡り、千葉県へ。
さらに、東へ東へと、進み、津田沼駅。
千葉に来るのも、久しぶりだな。
最近は、千葉県に限らないけど、郊外には、高層ビルが、かつてほど、建たないので、来る機会も、なくなったのだが。
改札を抜け、駅南口。
この前、来たときは、まだ、ペデストリアンデッキが、完成していなかったように、記憶しているけど、今、見ると、いちおう、出来上がったみたい。
南へ伸びる、まろにえ通りを、南へ。
すぐに、通りの、東側に、千葉工業大学津田沼キャンパス新2号棟。
最近、完成した、高層ビルの校舎。(工事中はこちら
すぐ、南側には、ちょっと前にできた、新1号棟もある。
大学の敷地には、違いないが、駅の間近なので、最近、多い、駅近くの、再開発なのかもしれない。
どうでも、いいことだけど。
再び、駅南口の、ペデストリアンデッキに戻る。
(2011年4月記)

日比谷線小伝馬町駅(日本橋本町三丁目 宝田恵比寿神社)

2011-11-27 07:22:33 | Weblog
昭和通りを、南へ南へと、歩き、さっき、訪れた、東への、細い道。
その、細い道に入り、東へと進む。
なんとも、効率のよくない、歩き方だが、実は、金山神社に行くのを、すっかり、忘れていたのだ。
それで、引き返して、金山神社を、訪れ、あらためて、また、この細い道を、東へと、歩いているわけ。
しばらく、東へ、進むと、道路の、北側に、宝田恵比寿神社。
江戸時代の初め、創建されている。
ただ、同じ頃、宝田村の住民が、この地に、移住してきたのだが、そのとき、一緒に、移転してきているらしい。だから、もっと、歴史は、古いようだ。
では、その、宝田村、どこにあったかというと、おそらく、現在の、九段南あたり、だろうか。
今も、宝田橋、という名前の橋が、架かっているあたりだ。
江戸城が拡張、整備される、ということで、この場所に、移転してきたらしい。
街の姿も、いつかは、変わるのだ。
そう考えると、いまある街並みの姿、なんとも、いとおしく思える。
さあ、もう、帰ろう。
帰りは、近くにある、日比谷線小伝馬町駅。
ひさしぶりに、秋葉原に寄ってこようかな。
(2011年3月記)

日比谷線小伝馬町駅(岩本町二丁目 金山神社)

2011-11-26 08:19:29 | Weblog
これは、なにかの、幻だろうか。
そんな風に、感じている間にも、事態は、どんどん、進んでいく。
紅蓮の炎は、ますます、広がり、そして、増えていく、連絡の取れない、集落。
いったいぜんたい、何が、どうなっているのやら。
わかっているのは、なにか、とてつもなく、悲しいことだけ。
そんなことを思い出しながら、昭和通りに戻り、北へと、歩き始める。
こうして、歩いていても、悲しさで、胸が、締め付けられそうだ。
かなり、歩いたところ、東に伸びる、細い道路の、南側に、金山神社。
昭和の時代に入って、創建された、新しい神社だ。
見た感じ、江戸時代から、ありそうだけど。
あるいは、江戸時代、別の神社が、あったのかもしれない。わからないが。
それほどに、街並みに、馴染んでいるのだ。
そうした街並み、当たり前のように、存在している。
でも、あの、大津波で、押し流されてしまう光景を、見ると、なんと、儚く、脆いものだと、感じずには、いられない。
また、昭和通り、南へ、向かう。
(2011年3月記)

日比谷線小伝馬町駅(日本橋本町三丁目 於竹大日如来井戸跡)

2011-11-25 04:28:10 | Weblog
大通りを、いったん、南へ。
再び、東へ曲がり、そのまま、東へと、進む。
JRの高架を、潜ったところで、北へ。
日本橋川を渡り、また、東へ。そこからは、東へと、伸びる、江戸通り、となる。
江戸通りを、東へ、向かう。
途中、南北に伸びる昭和通りとの交差点。
昭和通りに入り、南へ。
しばらくして、東へ曲がり、そのまま、細い道を、東へと向かう。
すぐに、道路の南側、於竹大日如来井戸跡がある。
なんでも、江戸時代の前半、徳の高い、下働きの女性がいて、その徳の高さゆえに、当時、一世を風靡したらしい。
それで、彼女のいた、屋敷の、井戸が、記念に、残っている。
日本橋、といえば、江戸の街の中心、ようやく、市街化も、軌道に乗り、そのような、逸話が、生まれるようになったのかな。
まさに、暮らしが息づく、街並みの誕生だ。
ささやかな、営み、生活、近所付き合い、祭事に行事。
震災があった夜、ようやく、家に帰り着き、テレビを、つけると、そうした、街が、黒々とした、津波に、呑まれていく映像。
そして、漆黒の闇の中、街を、舐め尽す、巨大な炎。
これが、現実のものとは、どうしても、信じられなかった。
(2011年3月記)

東西線大手町駅(大手町一丁目第2地区第一種市街地再開発事業工事現場)

2011-11-24 03:33:26 | Weblog
高田馬場駅から東西線。竹橋駅で下車。
地上に出ると、気象庁前。
大手町駅でもいいのだが、ここからだと、大手町に、外から、訪れる、という感じがするのだ。
いきなり、大手町より、少しは、旅情がある。
南北に伸びる、内堀通りを、南へ。消防署があるところで、東へ曲がり、そのまま、東へと進む。
大手町の高層オフィスビル街の真っ只中へ。
しばらくすると、南北に伸びる、日比谷通り。
日比谷通りを、少し、南へ歩き、再び、東へ。
また、南北に伸びる通り。その通りとの交差点、北西側一帯は、大手町一丁目第2地区第一種市街地再開発事業の工事現場が広がる。
かくのごとく、東京駅周辺の、大手町、丸の内、最近では、東側では、いまだに、再開発が、衰えを見せない。
もっとも、大震災の後だと、未来への力強い前身、というよりも、何か、危ういものを、感じてしまうけど。
それは、気のせいだろうか。
(2011年3月記)

山手線高田馬場駅(高田三丁目 神高橋から見る神田川)

2011-11-23 07:31:04 | Weblog
早稲田通りを、西へ西へと、歩いていくと、高田馬場駅。
手前で、北へ。
神田川に架かる神高橋。
ここも、身近なので、話は、次の、機会に。
再び、大震災の夜の話に戻る。
やっと、バスに乗れたところから。
歩くよりも、少しはましな、スピードで、バスは、動き出す。
ただ、足の痛みはいいとして、とにかく、あの時は、寒くて寒くて、バスの中の暖かさは、本当に、助かった。
それに、よたよた歩いているときに、いつの間にか、手袋、落として、なくしてもいたし。
バスは、のろのろと動き、やがて、某私鉄の某駅の手前に達する。
いつまでも乗っていると、家から、離れていくので、意を決して、そこで、下車。
某駅に、足を引き摺りながら、向かう。
そこから、バスの路線が、なければ、もう、帰る当ては、なくなり、本当に、立ち往生してしまうが、まあ、駅前なので、その時は、タクシーかな、と考えたのだ。
ようやく、駅前広場に、辿り着き、ふと、駅の方を見ると、明りが、灯っているではないか。
まさかとは思ったが、試みに、もっと、近付いてみると、エスカレーターも動いている。もう、間違いない。
某私鉄は、運転を、再開していたのだ。
急いで、改札を抜け、ホームへ。
そこには、いつもの、風景。
折り良く、やってきた、電車に、乗り込む。
車内は、以外にも、それほど、混んでいず、座れるぐらい。
満杯のバスや、おそらく、今も、歩いている方々のことを思うと、不思議な感じだ。
途中、別の路線に、乗り換え、いつものような、ペースで、あっけなく、最寄り駅。
そして、本当に、やっとのことで、家に、帰り着く。
夜中、22時過ぎ。
ほっとして、テレビ、付けると、そこには、まったく、信じられない光景。
まだまだ、大震災は、終わっていないのだ。
でも、取りあえず、寝よう。
痛む足をさすりながら、布団に、潜り込んだ。
続きは、後ほど。
(2011年3月記)

山手線高田馬場駅(高田馬場二丁目 早稲田通り)

2011-11-22 05:03:53 | Weblog
東へ歩いていくと、しばらくして、南北に伸びる、明治通りとの、交差点。
明治通りに入り、北へ、進む。
ここらへんも、よく、歩き回ったな。でも、最近は、足が、遠のいている。
ラーメン屋が、たくさん、あったりしたけど、結局、行かずじまい。
さらに、北へ、歩くと、東西に伸びる、早稲田通りとの、交差点。
早稲田通りに入り、西へ、向かう。通りを、歩いていけば、高田馬場駅。
この通りは、もう、何回、通ったか、わからないぐらいだ。
都心では、一番、身近な、通り、かもしれない。
ということで、早稲田通りの話は、別の機会、再び、大震災の話に戻る。
都心と郊外の、中間ぐらいの駅で、JRは、諦め、さらに、宿泊施設も、ないことがわかり、途方に、暮れたところからだったな。
それでも、いちおう、大通りを、西に向けて、歩き出す。
そういえば、ここまでに、3軒くらい、自転車屋が、店を、開けていたが、安い自転車は、すべて、売り切れだった。
自転車が、すいすいと、走る抜けていく様を見て、今、乗っている自転車も、古いから、買い換えてもいいかな、なんて、思ったのだ。
自転車は、諦めて、歩き続けていたわけだが、最初にきたのは、靴擦れ。
通勤で履いている革靴なので、長時間の、歩行は、無理だったのだ。
それでも、歩き続けていると、靴擦れを庇いながらの歩行なので、足全体に、負担が来て、筋肉痛。
これは、本当に、大袈裟だが、行き倒れかな、と思ってしまった。
けっこう、当時は、寒かったのだ。そうでなければ、どこかで、座って、休んでいても、よかったのだけど。
そんな、よれよれ状態だったけど、まだまだ、帰宅難民の列は、続いていた。
と、そのとき、先の方にある、バス停に、バスが、停まっているのが、見えた。
痛む足を引き摺りながら、懸命に走り、そのバスに、飛び乗る。
もっとも、大渋滞で、バスは、ほとんど、停車状態、走らなくても、間に合ったようにも思う。
とにかく、なんとか、行き倒れは、免れた。
(2011年3月記)

山手線高田馬場駅(高田馬場一丁目 玄国寺)

2011-11-21 05:01:56 | Weblog
幅広の通りを、東へと、進むと、北側には、諏訪神社。
高田馬場を代表する、神社、ということだ。
さっそく、訪れてみようと思ったけど、すでに、門が、閉まっている。
そういえば、かなり昔、来たときも、閉まっていたな。
夕方には、もう、店じまいなのだろう。
ひょっとしたら、防犯対策かもしれないけど。
仕方ない、次回訪れることにする。
そのまま、帰るのも、惜しいので、西隣、玄国寺。
江戸時代の初めに、創建されたらしい。
例のごとく、戦国時代以前と、それ以降の江戸時代、との画期を、示す、ということだろう。
ちなみに、ここから、東側には、南北に、鎌倉街道が、通っていた。
だから、江戸時代より前でも、それなりに、開かれていたはず。
そういうわけで、諏訪神社も、あったに違いない。
再び、東西に伸びる、通りに、戻り、東へ。
大久保三丁目西地区開発計画が、完成すれば、また、来よう。
もっとも、たぶん、間違いないと思うけど、その時も、諏訪神社が、夕方早くには、閉まってしまうこと、忘れているだろうな。
(2011年3月記)