retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

銀座線虎ノ門駅(環状2号線再開発予定地)

2009-10-31 07:28:02 | Weblog
桜川とは、風流な名前の川だが、実際、桜木と関係があったのか、わからない。
たしかに、江戸名所図会には、その昔、桜川の畔に、桜が植わっていた、というようなことが、載っている。
ただ、江戸名所図会には、近くの、藪小路の竹薮の絵図はあっても、桜川の、桜の絵図はない。
だから、江戸時代、桜川の畔に、桜が植わっていたわけではないのだろう。当時も、なぜ、桜川、というのか、ちょっと、考えあぐねたのかな。
それはそうとして、一帯に、田畑が広がり、こんもりとした森をいただく、愛宕山がある、という景観は、目を奪うほど、美しいものではあったはずだ。
そんな、かつて、桜川が流れていた、愛宕通りを離れ、さらに西へ。
すぐに、大袈裟な言い方をすれば、ゴーストタウンのような一画が、現れた。
ここら辺で、まっすぐ、西へ伸びきた、環状2号線は、向きを、北西に変えるのだが、その角の部分で、大規模な、再開発が予定されている。そういうことで、更地と、ゴーストタウンがあるのだが。
ちょっと前までは、低層のオフィスビルが、幾棟か建っていたのだろうが、この、ゴーストタウンの様を見ると、少しは、街並みは、あったのかも、と思ってしまう。
今となっては、もう、わからない。
わかっているのは、はるか昔、あたりには、風光明媚な、景色が、広がっていたこと。そして、数年後には、見上げるような、巨大な、高層ビルが、聳え建っている、ということだな。
時代は、動いていく。
この場所にとって、今は、その、ちょっとした、狭間のかもしれない。
誰もいなくなって、しんと静まり返った建物を前にしていると、そう思えてくる。
(2009年6月記)

銀座線虎ノ門駅(愛宕通り付近環状2号線工事現場)

2009-10-30 06:08:55 | Weblog
日比谷通りを、越えて、西へ。
第一京浜ほどではないが、幅広な通りだ。
日比谷公園東側から、まっすぐ、南へ伸びてきている。
さっき、日比谷神社を過ぎたのに、また、日比谷か、と思ってしまうが、日比谷神社は、最初、日比谷公園にあったので、そういうことにはなる。
江戸時代前は、日比谷公園の中、心字池の近くにあった、ということだ。もちろん、当時、公園や池があったわけではないけど。
江戸城の改築、ということで、今の、新橋駅近く、JR高架の西側、日陰町通りに、移転している。
江戸時代は、屋敷があって、日影だったらしい。もっとも、今も、JR高架の近くで、日影だが。
そのJRの路線が開通したおかげで、さらに、今ある、地に、移転。そして、今度は、第一京浜沿い、ということだ。
本当に、あちこち、流転しているように思える。
ただ、救いは、地元のお祭り、例大祭は、烏森神社と、交代で、催されている、ということかもしれない。
地元に、しっかり、根付いている、証のように思えるな。
そんなことを考えながら、日比谷通りを離れ、西へ西へと進む。やがて、愛宕通りに達する。
こちらも、いちおう、大通りなのだが、交通量は、あまり、多くなく、静かだ。
愛宕山の、すぐ麓を通っているからだろうか。あるいは、芝公園に沿って、大きく、迂回するような、経路だからだろうか。
どうだかわからないが、いずれにしろ、主要な、幹線道路、という感じではない。
ところで、昔は、この通りを、桜川、という、小川が、流れていたらしい。
愛宕山に桜川。きっと、風光明媚な場所だったのだろう。
今はすっかり、都市化されて、愛宕山以外、自然な風物は、もはや、なくなっているけど。
でも、この通りが、静かなのは、昔の名残りなのかな。
そんなわけはないのだが、そう思うだけでも、なんとなく、気持ちが和む。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(日比谷通り付近環状2号線工事現場)

2009-10-29 06:08:32 | Weblog
赤レンガ通りを過ぎて、さらに、西へ。
通りの名前にある、赤レンガ、というのは、明治時代になって、火事を防ぐために、導入された、建材、ということらしい。
だから、かつては、この通りの両脇に、レンガ作りの建築物が、軒を連ねていたのだろう。
そのような通りとしては、銀座煉瓦街が、最初であり、有名でもある。そういえば、新橋の駅近くの、高架もレンガ作りだな。(外装だけなんだろうけど)
しかし、残念ながら、明治時代のレンガ作りの建築物は、あまり残っていないようだ。
特に、レンガ街発祥の地、銀座煉瓦街、あるいは、目の前の赤レンガ通りには、まったく、残っていない。
同じ防火目的の、川越土蔵造りは、今でも、残っていて、観光地化しているのに、対照的だな。
ただ、土蔵、というと、豪商や豪農が、私腹を溜め込んでいそうな、隠微な感じがする。対して、レンガ作りだと、モダン、ハイカラ、といったような、万人が共有しうる、明るい未来、という雰囲気なんだが。
つまり、文明開化、モダン、ハイカラ、なんて、儚いもの、ということかもしれない。
そして、時代に置いていかれれば、レトロになってしまうのだ。
将来、環状2号線が、開通すれば、さらに、あたりは、一変するだろう。
だとすると、文明開化の、レトロ歴史テーマパークが、いいのかも。
もっとも、今さら、レンガ作りの、建物を復元するのは、無理だろうけど。
ところで、更地は、まだまだ、西へと続くのだ。
もう、日比谷通りまで、来てしまった。
ここまで来ると、さすがに、新橋の界隈、という感じではなくなる。
いよいよ、虎ノ門の領域だろうな。
さらに、環状2号線工事予定地の、更地は、西へと伸びている。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(赤レンガ通り付近環状2号線工事現場)

2009-10-28 03:56:29 | Weblog
なくなりつつある、日比谷神社を後にして、さらに、西へ向かう。
そういえば、日比谷、という語源は、なんだったっけ。
たしか、海苔の養殖と関係があるかどうか、ということだったな。
ただ、海苔の養殖は、早くても、江戸時代、一方、日比谷の地名は、戦国時代前には、すでに、存在していたようだ。とすると、日比谷と海苔の養殖とは、あまり、関係ないような気がする。
ひょっとしたら、古式の定置網漁法に、石干見(いしひび)漁、竹干見(たけひび)漁、笹干見(ささひび)漁、というのがあるが、その「干見(ひび)」なんじゃないかな、と、ふと、思いつく。
例えば、石干見漁というのは、遠浅の海に、石垣で、魚の誘導路を作り、潮が満ちたときに、入ってきた魚が、引潮になったとき、閉じ込められる、という、漁法だ。
なるほど、江戸時代前、日比谷には、遠浅の、日比谷入江、があった、ということだから、その入江に、魚を捕るための仕掛けが、あったのかもしれない。
さらに、日比谷神社は、別名、鯖稲荷、ともいう。
サバは、干見(ひび)漁法の、主要な獲物なわけで、この点も、よく符合する。
「日比谷」は、干見(ひび)家、干見(ひび)屋、だったのだな。
もっとも、では、干見(ひび)、というのは、どこから来た言葉なのだろうか、また、例の、「烏森」、というのも、まだ、わからない。
考えるのは、また、次、訪れたときにしよう。
西に、細長く伸びる、更地を進む。このままでも、すでに、道路みたいだ。
やがて、南北に伸びる、赤レンガ通り。
レンガ、という言葉の響き、一種、独特な、モダンな雰囲気がする。
たぶん、石垣や石畳とは違い、もともと、日本になかったからだろう。
文明開化、ということかもしれない。
ただ、こうして、再開発が始まると、文明開化、モダン、というのも、遠い昔、という感じだな。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(なくりつつある日比谷神社)

2009-10-27 06:08:31 | Weblog
第一京浜を渡り、環状2号線の建設予定地に沿って、歩いてみることにする。
第一京浜から見ると、ずいぶん、派手に、工事をやっているのだが、西側、街中に、入ってしまうと、静かなものだ。
ただ、既存の建物の、撤去作業は、急ピッチで、工事の近いことを、思わせる。
今しも、ポツンと、一軒だけ残る、古い飲食店の建物が、風前の灯。
たぶん、次、訪れたときは、もう、なくなっているだろうな。
そのお店、郷土料理屋、とあるから、地方から、上京してきた、サラリーマンが、地元懐かしさで、やってきていたのかもしれない。
たぶん、こんな感じかな。
上京してきて、早、幾十年。今や、すっかり、東京の中に、日常が、組み込まれ、慌しい日々。
故郷のことなど、すっかり、忘れ、帰るという実感も、いつしか、なくなってしまう。たまさかの帰郷も、旅行気分。
だが、ふと、ビルの谷間、アスファルトの上、群衆の中に、己の姿を見出し、アイデンティティを見失ってしまうこともある。
そんな時、故郷こそが、失われたアイデンティティを回復させてくれるのだ。
という具合だろうか。
そして、そんな郷土料理屋には、夜毎、常連さんが、集っていたのだろう。
だが、もうじき、なくなってしまうわけか。
もっとも、別な場所に、移転するだけなんだろうけど。
そんな感傷に浸りながら、さらに、西へ歩くと、更地に中に、日比谷神社。
第一京浜沿いに、新しく、建てているので、こちらの方も、もうすぐ、取壊されてしまうことだろう。
神社は、地元住民にとっては、郷土料理屋のような存在かもしれない。
こちらも、同じく、別な場所に、移転するだけなんだろうが。
でも、なぜだか、痛々しい感じがするのは、なぜなんだろう。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(新橋付近環状2号線工事現場)

2009-10-26 06:10:53 | Weblog
イタリア街も、せっかく、作ったのなら、テーマパークにするしか、ないのかもしれないな。
サラリーマンの憩いの場、新橋飲み屋街とは、かなり、雰囲気が違うけど、そのような、要素があった方がいいかも。
そんなことを考えながら、西へ。
南北に伸びる、第一京浜へ出る。
第一京浜を、斜めに、JR高架が、横切っていくのだが、その場所から、環状2号線が、西へ、まっすぐ、伸びる予定らしい。
実際、もう、工事は、始まっているのだが。(ちょっと前に、訪れたときに、工事が開始されていることは、確認した)
もっとも、環状2号線は、地下を通る、ということで、そうだとしたら、目の前の、大規模な、工事は、いったい、どういう工事なのだか、よくわからないけど。
完成すれば、とりあえずは、わかるだろう。
それはそれとしても、とにかく、環状2号線の完成で、都心の街並みは、かなり、変貌するに違いない。
あるいは、逆に、都心の街並みの変貌に、合わせた道路、なのかもしれない。
どちらでも、いいのだが。
今までは、新橋の北側までが、都心の中心、という感じだったな。
その辺縁に、新橋飲み屋街があるわけだ。
だが、環状2号線の登場で、その、都心の中心が、南側に、広がってくる。
新橋駅周辺も、飲み屋街も、烏森神社も、飲み込まれてしまうだろう。
でも、本当に、そうなってしまうのかな。
景気もよくないので、この先、どうなるか、わからない。
結局は、どうにかなるんだろうけど。
それでも、相変わらず、新橋飲み屋街、烏森神社、元のままなら、いいのだが。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(汐留西地区再開発工事現場)

2009-10-25 07:35:09 | Weblog
南北に伸びる、幅広の、交通量の多い、第一京浜を渡って、通りの東側へ。
第一京浜と、JR高架の隙間には、汐留シオサイトがある。
汐留シオサイトの、JR高架の西側に、はみ出した部分だ。
それほど、大きくはないが、ファッショナブルなビルが、建ち並んでいる。
イタリア街、という、コンセプトらしい。
汐留シオサイトには、機能面だけの、巨大な、オフィスビルばかりではなく、文化的な面も、含んでいる、ということだろう。
ただ、いまだに、更地も多く、完成してもいないし、街として、機能しているのかどうか、疑わしい気もする。
そもそも、なんで、「イタリア」、なんだろうか。意味は、あるんだろうが、今さら、考えても、仕方ないだろうな。
そうしてみると、JR高架東側の、汐留シオサイトにあるような、巨大なオフィスビルが、一棟、この場所に、建っていれば、よかったのかもしれない。
今となっては、もはや、遅いけど。
そんな、イタリア街に入って、さらに、東へと、歩いていく。
しばらく進んでいくと。汐留西地区再開発の工事現場。
ビルのデザインは、たぶん、まわりと調和させるんだろうけど、規模、大きさ、から考えて、イタリア街、という、コンセプトは、このビルの計画をもって、破綻したみたいだな。
この不景気に、イタリアの街並み、なんて、わざわざ、作ってみせる、違和感に、誰かが、賢明にも、気付いたのかもしれない。
映画のセットのような、張りぼての街を作っても、張りぼては、張りぼて、なのだ。
景気がよければ、それで、いいんだけど。
時代の流れなので、仕方ないなあ。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(新築中の日比谷神社)

2009-10-24 04:53:00 | Weblog
烏森神社から西へ。
すぐに、新橋駅の西口の広場に出る。
こうして見ると、本当に、烏森神社は、新橋の街に溶け込んでいるのだと、実感してしまうな。
ところで、このような、烏森神社、所以は、どのようなものだろう。
延喜式には、載っていないので、それほどの古社ではないにしても、相応に、歴史のある神社ではあるらしい。
ただ、「烏森」、という名前は、どういう意味か、実は、さっぱり、わからないのだ。
一帯は、昔、海辺だったわけで、森があったとは、到底、思えないし。
ちなみに、烏森神社と同じように、都心には、「森」が付く神社が、いくつかある。
例えば、鳩森神社、椙森(杉森)神社、柳森神社、等々。
これらの神社も、同じく、森とは、あまり、関係なさそうに思える。
ひょっとしたら、「森(もり)」は、本来は、「守(もり)」、なのかもしれない。
なにか、入植地、のような、イメージが湧き上がるのだが。
だとすると、「烏(からす)」、というのは、どうなるのだろう。これも、まったく、わからない。
こんな風に、考えを巡らせながら、山手線の高架に沿って、南へと、歩いていく。
幅広の、交通量の多い、第一京浜に出る。
その第一京浜の東側に、新しく建造中の、日比谷神社が、現れる。
「日比谷」とあるのは、もともと、日比谷にあったからだが。
この「日比谷」、というのも、よくわからない。
もちろん、海辺に、谷が、あるわけもない、というのは、わかるけど。
たしか、こういうことらしい。
日比谷の「ひび」は、海苔の養殖に使う、浅海に、何本も突き立てた、竹や細い枝のこと。だから、「ひびや(日比谷)」は、「ひび家」、「ひび屋」、から、というわけだ。
なんとなく、海苔養殖産業の前線基地、を思い浮かべてしまう。
でも、海苔の養殖が、始まったのは、たしか、江戸時代から、のはず。
江戸時代の前から、日比谷、あるいは、日々谷、という、地名は、ある。
そもそも、海苔の養殖に使う、竹や細い枝を、なんで、「ひび」、と呼ぶのだろう。
都心の真ん中でも、わからないことだらけだな。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(烏森神社参道)

2009-10-23 05:03:40 | Weblog
休日の、しかも、昼間なので、閑散としているんだろうけど。
やはり、なんとなく、寂しい雰囲気が、漂っている。
それは、気のせいなのか、景気のせいなのか。
あるいは、最近、ずっと続いている、曇天のせいかな。ちょっと、わからない。
さっきの烏森通りに戻り、西へ歩く。
しばらく、進むと、烏森神社の参道が、北に伸びている。
そういえば、このあたりの地名は、そもそも、烏森だったはず。
新橋、というのは、東側、銀座の南を指していたのだが。
今も、新橋演舞場が、銀座六丁目にあるのは、その名残りだろう。
烏森が、新橋になったのは、鉄道の駅、新橋駅が、移ってきてかららしい。
駅名が、烏森駅から新橋駅になったので、一帯の地名も、新橋になってしまったのだ。
こういう例は、特に、烏森だけでなく、いたるところにあるので、仕方がないことだけど。
参道に入って、社殿へと進む。
参道は狭く、路地のよう。そして、その両脇に、飲食店が、軒を連ねている。
かなり、昔の写真を見ても、この光景、まったく、変わっていない。賑やかな感じで、なかなか、いいと思うが。
江戸時代は、もう少し、普通の神社だったらしけど、明治時代になり、近くに花街ができて、こんな風に、飲み屋街に、埋もれるようになったそうだ。
烏森神社の、門前街、と考えれば、いいかもしれない。
もしそうだとすると、新橋のサラリーマン憩いの場も、実は、烏森神社の、門前街、ということになる。
夜毎、お神酒が、酌み交わされているわけか。
そうして、その甲斐あって、景気がよくなれば、いいんだけど。
無理かな。
(2009年6月記)

山手線新橋駅(新橋飲み屋横丁)

2009-10-22 04:18:10 | Weblog
高田馬場で東西線に乗換え、大手町駅で下車。
地上に出て、永代通りを東へ。
JRの高架の手前で、南へ向かう。
歩いていくと、すぐに、東京駅。
大手町駅と東京駅は、連絡駅ではないが、乗換えてみた、ということだ。
特に、東西線大手町駅のホームは、JRの東京駅と、近いので、乗換えよう、という気になる。
たぶん、その距離、京葉線東京駅ホームと、他のJR東京駅ホームとの距離と、同じぐらいかもしれない。
今回は、いったん、地上に出たのだが、地下道を歩くと、もっと、近く、感じる。
ところで、地下道の方が、近く感じるなら、なぜ、今日は、地上に出たか、というと、ちょっと、天気を確かめたかったのからだ。
雨の心配、というよりは、やはり、相変わらずの曇り空で、気になる。
梅雨の最中なので、曇りなのは、普通なんだけど。
ただ、こうも、太陽を、見ない日が続くと、さすがに、不安な感じだ。
東京駅、丸の内寄りの改札を抜け、ホームへ。
山手線に乗り込む。
やはり、今日も、曇天なのだな。
天気も曇りなら、景気も曇りみたい。一頃の、嵐は、治まったけど。もう、景気がいい、なんてことは、ないかもしれない。
これが、普通だと、思えば、随分、楽なのだが。世の中、そういう風には、なっていないしな。
そんなことを考えているうちに、山手線は、新橋駅のホームに、静かに滑り込む。
駅西側に出て、南へ。
ニュー新橋ビルの南側には、烏森通りが、西に伸びているが、その通りの、さらに、南側には、飲食店街が、広がっている。
いわゆる、サラリーマンの、歓楽街なのだが。
懸命に働いて、そのマイナス分を、こういう、ささやかな飲み屋の、歓楽をもって、補う。
そして、それで、すべて、事足りていたのだ。一昔前は、それが、普通だったんだな。
そういうバランスを、世の中は、もう、保てないような気もする。
(2009年6月記)