retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜東北線大井町駅(大井町駅の下 立会川跡)

2012-01-31 07:37:09 | Weblog
大井陸橋の下。
ここで、緑道は、終わりだろうと、思ったら、まだ、続いていた。
緑道は、立会川の跡。
川の流れは、その先からも、あったわけで、その跡、となれば、当然かもしれない。
とりあえず、最後まで、流れの跡に、付き合ってみることにする。
緑道は、西に、向きを、変え、建物の、縁に沿って、そのまま、西へ。
結局、大井町駅ホームの、南端あたりで、途切れることになる。
ということは、逆に考えると、大井町駅、立会川の、北側に、設置されたわけか。
設置されたのは、明治時代。旅客営業を始めたのは、もう少し後、大正時代になってから。
当時は、一面、田圃しか、なかったのだろうな。あとは、大名屋敷の跡地。
明治時代の地図を見ると、賑やかなのは、東側、東海道沿い。
そんな大井町なのだが、旅客駅が、開業して、すぐに、工場が、建ち始める。
立会川沿いなのか、どうか、わからないけど。
ただ、目黒川沿い、大崎も、同じ頃、工場が、建ち始めているので、あるいは、同じように、立会川沿い、なのかもしれない。
どうだか、わからないが、はっきりしているのは、大井町、当初は、工場の、街だったのだ。
(2011年5月記)

京浜東北線大井町駅(立会川跡の緑道)

2012-01-30 04:17:56 | Weblog
来た道を、引き返す。
立会川跡の、緑道。
西側には、東芝病院の、広大な敷地。
まるで、緑道が、その敷地の、一部、であるかのような感じだ。
このような、広大な敷地、考えられるのは、江戸時代に、大名屋敷の、敷地だった、ということ。
実際、この場所には、薩摩藩抱屋敷が、あったそうだ。
広さは、今の、東芝病院よりも、はるかに、広い。
東は、立会川の、東側、西は、京浜東北線の、西側。
とすると、屋敷の中を、立会川は、流れていたことになる。
立会川の、流れを、屋敷内の、庭園に、生かしていたのだろうか。
おそらく、そういうことだろうと思う。
屋敷の、東側、ちょっと、離れると、すぐに、南北に、東海道。
そして、土佐藩抱屋敷もある。
交通至便であり、海も近かったので、大名屋敷が、並んでいたのかな。
さらに、緑道を、進んでいく。
(2011年5月記)

京浜東北線大井町駅(南大井五丁目 立会川)

2012-01-29 07:28:37 | Weblog
大井町駅東側に出ると、すぐに、大井陸橋。
大井陸橋の下からは、南側に、緑道が、伸びている。
さっそく、その、緑道へ。
くねくねとした、その道筋からして、どうみても、川の跡だ。
南へ南へと、歩いていくと、果たして、その先、川が、姿を、現す。
東急東横線学芸大学駅近く、碑文谷池を水源とする、立会川。
ところで、なぜ、立会川、という名前か、というと、戦国時代、合戦があって、それで、太刀合い、から、らしい。
でも、古戦場は、みな、そういう地名、川の名前、ということはなく、この川に限って、となると、やはり、わからない。
話はそれるが、水源地、碑文谷池の碑文谷は、檜物(ひもの)、から、らしい。
檜物とは、檜の薄板を加工して、いろいろな品物を、作ること。
近くに、南北に伸びる、鎌倉街道が、通っていたので、そうとう、昔から、檜物の、産地だったのだろう。
とすると、碑文谷池から、流れ出している、立会川、その名前は、そうした、産業と、関わっているのだろうか。
わからないけど。
(2011年5月記)

京浜東北線大井町駅(大井町駅南側 品川道踏切)

2012-01-28 07:31:46 | Weblog
京浜東北線に沿って、南へ。
すぐに、東側、品川道踏切。
そして、西側は、大井町を代表する商店街、三ツ又商店街。
アワーズイン阪急の南側一帯は、本当に、下町という感じだ。
と思って、ちょっと前、訪れたら、三ツ又商店街に関しては、そうでも、なかったな。
アワーズイン阪急が、建て替わってしまうぐらいだから、再開発の機運、とても強いのだろう。
もっとも、昭和の取り残された下町が、再開発される、というのは、大井町に限ったことではなく、都心部では、よくあることだが。
そんな大井町、初めて来たのは、バブルの終わり頃。
ほとんど、覚えていないけど。
覚えているのは、たしか、駅前広場から、南側、遠く、下町繁華街があった、ということだけ。
日暮れ近かったので、そのまま、すぐに、駅に、戻ったな。
こうなると、知っていれば、あの時、行っていたのだが、と思っても、もう、遅い。
品川道踏切を渡って、駅東側に、向かう。
(2011年5月記)

京浜東北線大井町駅(アワーズイン阪急)

2012-01-27 06:10:35 | Weblog
高田馬場駅から山手線。
品川駅で、京浜東北線に、乗り換える。
5月の連休、ということで、あまり、混んでいないな。
のんびりした感じ。
次の駅、大井町駅で下車。
改札を抜け、西口側に、出る。
品川駅の、隣の駅なのに、都心、という感じは、しない。
郊外のような感じだ。いや、京浜の下町かな。
どちらにしろ、庶民的な、街並み。
それでも、バブルの頃から、特に、西口側は、再開発で、きれいになった。
庶民的な、街並みは、すっかり、変わったはずなのだが。
ちなみに、映画「時代屋の女房」は、大井町を舞台にした、バブル直前の頃の、作品。
当時の、庶民的な、街並みを、見ることができる。
でも、バブルは、崩壊。
再開発は、いかにも、中途半端なところで終わる。
そこへ、今度は、駅近くの再開発。
そんな大井町の西口、地上に降り立ってみる。
すぐ、南西側には、アワーズイン阪急。
最近、完成した、高層ホテル棟だ。(工事中はこちら
この、高層ビルも、そうした、駅近くの再開発の一つなのだろう。
(2011年5月記)

東武東上線下板橋駅(下板橋駅駅舎)

2012-01-26 04:49:29 | Weblog
しばらく歩いていくと、東武東上線下板橋駅。
近くを、かつては、谷端川が、流れていた。
そして、おそらく、昔、ここから、一面、水田、だったようだ。
だからだろうか、今、こうして、見ても、ひらけた感じがする。
そういえば、某テレビ番組で、この一帯、取り上げられていたな。
番組によると、この場所より、少し、東側、北へ流れる川が、谷端川に、合流していたのだが、そのような、合流地点を、「袋」、というらしく、その「袋」が、池袋、の「袋」、ということらしい。
池袋の、「池」、の部分は、わからないけど。
もっとも、おそらく、「袋」に関しては、本当だと、思える。
「袋」、という川の、合流地点、さらに、その周囲、一面に、広がる、豊穣な、水田を、目にすれば、誰しも、心打たれて、地名にでも、しようと、考えるに違いないからだ。
そういうわけで、池袋発祥の地も、訪れたし、もう、帰ることにしよう。
来た道を、池袋方面へ。
今度、来るときは、銭湯巡り、といきたいところだな。
ちなみ、新月湯の他にも、あと、二つ、銭湯があるらしい。
すっかり、時代に、取り残された、という感じだが、そこが、いいのかも。
そんなことを考えながら、昔の池袋から、今の池袋へと、向かう。
(2011年5月記)

東武東上線北池袋駅(池袋本町四丁目 新月湯)

2012-01-25 04:50:13 | Weblog
細い通りを北へ。
東武東上線沿い、駅も近いので、そこそこに、商店などが並ぶ。
しばらくすると、通りの、東側に、新月湯。
こんな風に、鄙びた街を歩いていて、銭湯が、あると、なんとなく、ほっとするな。
昔、おそらく、高度成長期ぐらいは、銭湯に、行かなくなることが、生活の豊かさの、証だったのだけど。
ここ最近は、ちょっと、違うみたい。
温泉、とまではいかないけど、一種の、テーマパーク、そんな感じだ。
ひょっとしたら、各所に、今も残る、銭湯巡り、なんて、ありうるかも。
銭湯、新興の郊外住宅地には、もとより、ないし、都心部の、再開発地には、かつてあったとしても、今は、ない。
銭湯ではないけど、麻布温泉、十二社温泉も、最近、なくなってしまった。
あるとすれば、こうした、昭和の時代が、取り残された一帯。
どこか、遠くの、温泉、行くよりも、江戸の昔、池袋、発祥の地、その頃に、思いを馳せながら、ゆっくり、銭湯で、寛ぐのも、いいな。
そんな気持ちに、浸りながら、さらに、北へと、歩いていく。
(2011年5月記)

東武東上線北池袋駅(池袋本町一丁目 西念寺)

2012-01-24 05:13:07 | Weblog
住宅地の中、今度は、東側へ。
東武東上線の駅が、近くなるので、少しは、賑やかになる。
といっても、やはり、それほどでもないけど。
線路近くには、西念寺、という寺院。
創建は、それほど昔ではない。終戦後、だろうか。
もとは、浅草、深川の方に、あったらしい。
おそらく、戦災のため、移転してきたのだろう。
当時は、もう、池袋の中心は、今の、西口繁華街あたりだったのかな。
だから、空いた場所が、いくらかあって、そこへ、西念寺が、移転してきた、ということかもしれない。
それから、しばらく、時代を経て、高度成長を達成したあと、東口に、サンシャインシティが、誕生。
その頃、こんな、駅から遠い、辺鄙な場所に、巨大高層ビルを、建てても、誰も、来ないだろうと、言われていたらしい。
それが、今では、駅から、サンシャインシティまでの通り、池袋駅東口の、中心になっている。
さらに、バブルの時代。今度は、西口の、南側。
再開発され、東京芸術劇場ができたりして、すっかり、きれいになった。
こうしてみると、池袋の街、南側、あるいは、南東方向へと、移動しているように、思える。
時代の流れとは、不思議なものだな。
(2011年5月記)

山手線池袋駅(池袋本町三丁目 氷川神社)

2012-01-23 03:16:15 | Weblog
本町中央通り商店街を、北へ北へと、歩いていく。
寂れた地域は、どこも、同じだが、ほとんど、商店は、並んでいない。
そのまま、歩いていくと、谷端川跡の緑道。
南から、北へと、流れていた、谷端川、途中、大きく、カーブを描きながら、南東へ、向きを、変えているのだが、池袋の、かつての、中心地、その、カーブの、内側に、位置していたようだ。
半ば、川に、取り囲まれていて、湿地帯、あるいは、沼沢地、のような、場所かと、思っていたが、実際、現地に、来て見ると、ちょっと、違う。
台地、というほどではないが、まわりよりは、少し、小高い感じなのだ。
今度は、別の、細い道を、南へ。
やはり、かつて、湿地帯だったところを、埋め立てた、という感じではないな。
そんな、住宅地の中、あちこちと、歩き回ってみる。
しばらくすると、一叢の、木立。
このあたりの鎮守、氷川神社だ。
創建は、江戸時代の、直前くらい。
当時、一帯が、大規模に、開拓されたのだろう。
池袋の本拠地は、見たところ、ちょっと、高台になっているので、おそらく、田園で広がっていたのは、その周囲、かな。
さらに、このあたりを、歩くことにする。
(2011年5月記)

山手線池袋駅(池袋本町一丁目 本町中央通り商店街)

2012-01-22 03:32:55 | Weblog
細い道は、カーブを描き、東へ向きを、変える。
すぐに、南北に伸びる、本町中央通り商店街の道。
本当に、閑散とした、寂しい道だな。
でも、今、こうして見ると、それほど、目立たない、これらの細い道、実は、明治時代の地図に、はっきりと、載っている。
明治時代の地図に、載っているということは、それ以前、江戸時代、すでに、あった、ということだ。
実際、江戸時代、池袋の中心は、このあたりだったらしい。
だから、ちゃんとした、道があり、そして、その道は、今も、残っているのだ。
そんな、池袋の本拠地、おそらく、池袋の駅が、できたあと、徐々に、そちらの方、南側へと、移動していったのかもしれない。
そして、ひととき、西口の北側、繁華街が、中心、だったのかな。
今は、そこも、通り過ぎて、さらに、南へ。
おかげで、かつて、賑やかだった、西口の北側は、現在、うらぶれてきている。
時代と共に、街の、中心が、移っていったのだろうか。わからないけど。
本町中央通り商店街、もう少し、北へ、歩いてみる。
(2011年5月記)