retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜東北線蒲田駅(蒲田二丁目 円頓寺)

2011-10-31 04:22:02 | Weblog
細い道を、さらに、東に、歩いていくと、すぐに、道路の北側、円頓寺がある。
創建は、江戸時代の直前。
それ以前は、戦国大名、北条氏の家臣、行方氏の館が、あったらしい。
北条氏が滅び、行方氏が没落して、館が、なくなった後、その跡地に、円頓寺が、創建された、ということだろうか。
だとすると、円頓寺、というのは、戦国時代から、江戸時代への、時代の移り変わりを、表しているものなのかもしれない。
さらに、江戸時代に入ると、近くを、東海道が、開通する。
つまり、この一帯にとって、江戸時代への変遷が、かなり、大きな、画期、だったようだ。
ところで、そういえば、西側の、稗田神社は、行方氏の館があった頃、どうだったのだろう。
おそらく、館、というと、城塞に近いわけで、それなりに、広かったと思われる。
ひょっとしたら、呑川ぐらいまで、あったかもしれない。
ということは、稗田神社は、館の敷地内にあったのだろうか。
実際、どうなのか、わからない。
それに、そもそも、江戸時代以前、この一帯が、どうなっていたのか、想像も、できないのだけど。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田三丁目 稗田神社)

2011-10-30 07:29:38 | Weblog
新しい道路を、北へ。
途中、東へ伸びる、細い道路に入り、そのまま、東へと、歩いていく。
しばらくすると、北側に、稗田神社。
社殿が、真新しい。
こちらも、さっきの、新設された通りと、同じこと、なのかもしれない。
実は、稗田神社も、昔、訪れたことがある。
おそらく、社殿が改築された直前ぐらいだろうか。よく覚えていないが。
創建については、よくわからない。
延喜式に載っている、稗田神社とも、言われているが、おそらく、それは、田町駅近くの、御田八幡神社の可能性が、高いように思う。
御田八幡神社の方は、もともと、内陸部、白金の台地のどこかに、あったからだ。
一方、こちらの稗田神社、台地からは、かなり、離れている低湿地。
たしかに、ここから北側、大森海岸駅の近くにも、磐井神社、というのがあるが、大森の台地が、すぐ近くまで、迫り出しているので、あり得る。
とすると、白金台地にあるはずの、稗田神社、なぜ、ここに、あるのだろうか。
たぶん、創建したときは、稗田神社、ではなく、蒲田神社、だったのでは、と思える。
稗田神社の「稗」は、正確には、「稗」の上に、草冠が、付くのだ。
そういう字なら、蒲田神社が、いつしか、稗田神社に、変わっても、不思議ではあるまい。
本当かどうか、わからないけど。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田三丁目 新しい道路)

2011-10-29 06:18:19 | Weblog
呑川に沿って、東へと、歩いていく。
川は、柵に隔てられ、コンクリートで固められ、昔日の面影はない。
都心の小河川は、たいてい、このようなものだろうけど。
柵には、植木が引っ掛けられていて、そこだけ、辛うじて、緑は、あるようだ。
もっとも、今は、冬なので、土くれしか、ないけど。
しばらくすると、南北に伸びる、通りに行き当たる。
その通りに入り、北へ。
一帯は、昭和時代の、取り残された雰囲気があるが、この通りだけは、新しい。
実は、バブルの終わり頃、この通り、バスで、通ったことがあるのだ。
工事中だったのかどうか、もう、忘れたけど。
おそらく、高度成長を達成して、京浜工業地帯が、不用になった後、その代わりとして、順次、新設された道路が、開通していったのだろう。
いわば、当時、あちこちで、始まった、湾岸再開発の一つかな。
だが、今、見てみると、特に、どこかの大通りと、直結して、幹線道路になっているわけでもないし。
中途半端な感じもする。
いずれ、いつかは、もっと、延伸するのだろうが。
もっとも、そんなこと、実現するかどうかなんて、今となっては、もう、どうでもいいのかもしれない。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(蒲田五丁目 宮之橋から見る呑川)

2011-10-28 05:22:54 | Weblog
京浜工業地帯の下町には、こうした、理系の大学が、あったりする。
町工場が、多いためなのだろうか、わからないけど。
あるいは、相応しく見えるのは、気のせいかもしれない。
ただ、最近は、どこの大学も、整備されて、公園のようになってしまった。
だから、たとえ、あっとしても、もはや、町工場が並ぶ、一帯の中、というイメージはないな。
蒲田の東京工科大学も、そういう感じだ。
東京工科大学を出て、東へ。地下道で、京浜東北線の、東側に出る。
蒲田は、東側にある、京浜急行の京急蒲田駅との間が、賑やかなのだが。
こうして、ちょっと、北側に外れると、静かな住宅地が広がる。
さらに、北に歩いていくと、東へ流れる、呑川。
世田谷の丘陵地から流れ出し、蒲田を通って、海に注いでいる。
都心南部の代表的な河川。
もっとも、土地勘が、ないので、まったく、馴染まないけど。
それに、呑(のみ)川、という読み名、どういう、謂れがあるのか、まったく、見当もつかないな。
そんな、呑川に沿って、東へと、歩いていく。
(2011年2月記)

京浜東北線蒲田駅(東京工科大学蒲田キャンパス3号館)

2011-10-27 03:40:15 | Weblog
高田馬場駅で山手線。
品川駅で、京浜東北線へ。
蒲田駅で下車。駅西側に出る。
庶民的な飲食店などが、密集していて、相変わらず、下町っぽい感じだな。
こういうところは、居心地よさそう。
北側、商店街の中に入っていく。
そういえば、2月に入って、すっかり、春めいてきた感じ。
先月までの、厳しい寒さが、うそのようだ。
そんな穏やかな日和の中、商店街を抜けると、東西に伸びる、通り。
その通りの北側には、東京工科大学の敷地が広がる。
大学の敷地内に入ると、一面に広がる、緑の芝が、目に眩しい。
そして、真新しい、建物が、点在している。
その中、一際、巨大な建物、東京工科大学蒲田キャンパス3号館。
最近、完成している。(工事中はこちら
本当に、暖かい、春の陽気には、いかにも、相応しい、景観だな。
でも、なんだか、蒲田、とは、思えない。
以前は、世辞にも、きれいとは、言えないような、建物が、並んでいたのに。
それが、こんなに、きれいになる、というのは、いいことなんだろうけど、自分にとっては、あまり、居心地よさそうには、思えないのだ。
(2011年2月記)

山手線秋葉原駅(秋葉原駅 新しくなった駅ビル)

2011-10-26 03:44:11 | Weblog
再び、万世橋を渡って、神田川の北へ。
秋葉原の街に戻る。
昔は、秋葉原、というと、わくわくしたものだが。
今は、どうなんだろう。そういうのは、もう、ないな。
それよりも、雪が、降っていて、寒い。
早く、帰ろう。
東西に伸びる大通りとの交差点。東に曲がり、そのまま、東へ。
そういえば、今年の冬は、ことのほか、寒かったが、2月に入って、状況が、変わったみたい。
それほど、強い寒波は、来なくなったみたいだし。
そういうわけで、今日は、春の雪、なのだろう。寒いけど。
山手線の高架の手前で、北へ。
すぐに、秋葉原駅の改札がある。
目の前には、今なら、どこにでもあるような、きれいな駅ビル。
最近、できたらしい。
たしか、ちょっと前までは、まだ、古い昔のビルが、残っていたように思うが。
こうして、なくなってしまうと、あっけないものだな。
初めて、秋葉原に、来たとき、その古いビルの地階で、立ち食いの蕎麦、食べたっけ。
そんな昔も、もう、二度と、戻らない。
そう、失われた時は、二度とは、戻らないのだ。思い出の中にあるだけ。
判りきったことなのだけど、なぜか、最近は、心に、重く、響く。
寒いので、もう、帰ろう。秋葉原駅の改札に向かう。
(2011年2月記)

山手線秋葉原駅(神田万世橋ビル工事現場)

2011-10-25 07:19:48 | Weblog
さらに南へ。中央線の高架を潜り、南西方向に分岐している通りへ、入っていく。
その通りの北側一帯は、神田万世橋ビルの工事現場。
実は、工事が始まる以前、この場所には、交通博物館があったのだ。
鉄道には、特に、興味はないので、秋葉原に行くたび、何回も、この前を、通ったのだが、一回しか、入ったことなかったな。
でも、前を通ると、たいてい、親子連れがいて、写真撮ったりしていて、ほのぼのとさせられた。
こういう趣味も、のどかで、いいものだ。
それで、訪れた一回、というのは、鉄道好きの同僚がいて、鉄道のポストカードでも、贈ってあげようかと思ったのだ。
その日、たしか、閉まるのが、夕方5時だったのに、知らなくて、10分前ぐらいに、入ってしまった。もっとも、買い物するだけだからいいかなと、思ったけど。
いそいで、暗い、館内を、歩き回ったが、ポストカードは、見つからないし、代わりになるような、グッズも、見当が付かないし。
結局、何も買わず、出るはめに。ポストカードは、駅のキオスクかなんかで、買ってしまったけど。
そして、しばらくして、交通博物館は、閉館してしまったのだ。
ずっと、この先、在り続けると思っていたので、ちょっと、驚いたな。
秋葉原にも、足が遠のくようになったので、いつの間にか、忘れてしまったが。
(2011年2月記)

山手線秋葉原駅(神田須田町二丁目 肉の万世)

2011-10-24 04:22:43 | Weblog
万世橋の南側、袂の東側には、肉の万世本社ビル。
とくに、焼肉などに、興味があるわけでもないけど。
ただ、たしか、昔、バブルの頃だったかな、同僚が、ここで、学生のとき、バイトしてた、といっていたので、それを、思い出したのだ。
とすると、この建物自体は、新しいので、おそらく、高度成長期が達成された後の、安定期、建ったのだろうか。
世の中、豊かになったので、食事にも、余裕が出てきた、ということなら、あり得る。
創業は、戦後すぐ。
それ以前は、電器屋だったらしい。どうしてそんな、転業を思いついたのか、と思うけど、秋葉原には、もともと、青果市場があったので、実は、それほど、奇異ではなかったのかもしれない。
転業の動機は、不明なのだが、結果は、大当たりだったようだ。
場所柄も、高級、というわけでもないし、かといって、下町、でもない。しかも、上野駅、東京駅の真ん中ぐらいだし、ちょうどいい。
時期も、高度成長が始まるわけだし、よかったのだろう。
そんな肉の万世なのだが、結局、まったく、縁はなかったな。
(2011年2月記)

山手線秋葉原駅(秋葉原 雪の万世橋から臨む)

2011-10-23 07:05:57 | Weblog
高田馬場駅で東西線。飯田橋駅で総武線に乗り換える。
秋葉原駅で下車。
改札を抜け、秋葉原の街に、降り立つと、雪模様。
といっても、積もるような雪ではない。春の雪だ。ちょっと寒いけど。
駅南側へ。東西に伸びる大通りに出る。
来るたびに、秋葉原、普通の賑やかな街になっていくような気がするな。
大通りを西へ。
広い通りだが、秋葉原からだと、裏通りみたいな感じになる。
こういったところも、将来は、普通の、大通りになっていくのかな。
しばらくすると、南北に伸びる、中央通りとの交差点。
南に曲がり、そのまま、南へと、歩いていく。
すぐに、神田川に、架かる、万世橋。
昔、秋葉原に行っていたときは、たいてい、この、万世橋を、渡ったので、感慨深い。
神保町の古本屋街から、靖国通りを、東に、歩いて、万世橋、秋葉原、というのが、パターン。
つまり、秋葉原への入口は、万世橋、だったのだ。
今は、何もないけど、当時は、まだ、賑やかな街並みの、雰囲気なりとも、残っていたように思う。
ひょっとしたら、万世橋の南側、袂には、昭和の初め頃まで、万世橋駅があって、たいそう、賑やかだったそうだが、そのせいかな。
とすると、秋葉原の街の起源も、万世橋だったのかも。
わからないけど。
(2011年2月記)

千代田線湯島駅(池之端一丁目 教證寺)

2011-10-22 07:26:39 | Weblog
旧岩崎邸庭園の坂を下り、再び、上野の街へ。
そのまま、細い道路を、南へ歩く。
東側には、教證寺。
特に、有名な寺院でもないないけど。創建は、江戸時代の、前半ぐらいか。
だんだん、江戸の街が、大きくなって、このあたりまで、広がってきた、ということだろう。
ただ、江戸の街が、出現する前から、寺社は、あたりに、点在していた。
たとえば、不忍池の西側、南北に連なる尾根。この近くだと、湯島天神がある。
一方、東側には、隅田川に沿うように、南北に、細長く、陸地が、伸びていた。
そちらには、鳥越神社、浅草寺がある。
さらに、江戸時代より前は、その、細長い陸地に、鎌倉街道が、通っていたらしい。
あるいは、もっと、昔から、道は、あったのかも。
いちおう、江戸時代になると、そうした、尾根道ばかりではなく、不忍池近くの、低地にも、街並みが、現れたということかな。
明治時代になると、近くの、丘の上には、岩崎弥太郎が、屋敷を、かまえる。
今は、高層住宅が、建ったりするわけか。
そして、この後は、どうなっていくんだろう。
まったく、わからないし、そもそも、そんなこと、見届けることはできない。
まあ、とりあえず、冬が終わって、春が来ることは、確かだな。
もう、帰ろう。不忍通りを、南へ。湯島駅に向かう。
(2011年2月記)