retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京王線芦花公園駅(北烏山五丁目 幸龍寺)

2014-08-30 04:41:40 | Weblog
北へ歩いていくと、通りの西側に、幸龍寺。
本当に、寺院が、並んでいて、多い。
創建は、わからないが、古いようだ。
創建の地は、浜松のあたりらしい。
徳川家康が、江戸に、移るのに、伴い、幸龍寺も、移転。
浅草寺の、西側に、移ってきている。
江戸時代、時勢、盛んだったようだ。
明治時代になると、衰え、普通の、寺院になる。
時代の流れ、ということだろう。
その後、時代は、下り、大正時代。
直接は、関東大震災により、この地に、移転。
実質は、郊外の誕生、ということによるのだろう。
再び、寺町通り、北へ、向かう。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(北烏山四丁目 常栄寺)

2014-08-29 06:11:39 | Weblog
北へ歩くと、しばらくして、通りの東側に、常栄寺。
寺町なので、寺院が多い。
創建は、江戸時代初め頃。
創建の地は、今の、浅草橋駅の北側、鳥越、だったようだ。
その後、今の、東日本橋駅近く、隅田川沿いに、移転。
さらに、江戸の町の、拡大に伴い、築地に、移っている。
そして、時代は、下り、大正時代。
こちらも、直接は、関東大震災により、この地に、移転。
昭和の時代、都心と、郊外が、誕生したことに、伴うものだろう。
江戸、東京の、変遷とともに、寺院も、移っていくわけだ。
さらに、北へと、歩く。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(北烏山五丁目 乗満寺)

2014-08-28 06:08:36 | Weblog
北へ歩いていくと、すぐに、通りの、西側に、乗満寺。
寺町なので、寺院が、多い。
創建は、古いらしい。
しかも、あちこちと、移っている。
戦国時代は、駿河に、あったそうだ。
徳川家が、江戸に移ったとき、乗満寺も、移っている。
移転した場所は、今の、上野駅、南東側。
その地に、しばらくは、あったのだが、時代は、下り、大正時代。
直接は、関東大震災のため、今の地に、移転している。
昭和の時代の、郊外化、ということでも、あるのだが。
再び、北へ、向かう。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(北烏山四丁目 多聞院)

2014-08-27 05:16:12 | Weblog
北へ歩いていくと、すぐに、通りの、東側には、多聞院。
寺院が、多いのは、寺町、だからだが。
通りの、名前も、そのまま、寺町通り。
多聞院についてだが、創建は、江戸時代の初め頃。
創建の地は、甲州街道沿い、今の、新宿駅近く、だったらしい。
江戸時代になり、あたりも、開けてきたのだろう。
宿場町も、開設されている。
時代は、下り。
昭和の時代、高度成長期に入る頃。
新宿駅周辺の、再開発に伴い、この地に、移転してきている。
寺町通り、北へ歩く。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(北烏山五丁目 中央自動車道高架下)

2014-08-26 05:24:46 | Weblog
北へ、歩いていくと、すぐに、東西に伸びる、中央自動車道高架。
高架下を、潜って、北側へ。
ここらへんの、中央自動車道は、高度成長期に、開通している。
多摩の、郊外化、ということなのだろう。
郊外化、というより、ニュータウン化、かな。
ニュータウンだと、郊外よりも、洗練された感じがする。
高度成長を、達成した、安定期を、代表しているのかも。
郊外よりも、自立しているが、郊外よりも、都心と、結びつきが、強い。
そのための、ハイウェイ、なのかもしれない。
そんな、中央自動車を、後にして、さらに、北へ。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(北烏山六丁目 妙高寺)

2014-08-25 05:12:01 | Weblog
北へ、向かうと、住宅地は、徐々に、なくなり始める。
正月なので、あまり、通る者も、なく、寂しいかぎりだ。
さらに、歩いていくと、通りの、西側には、妙高寺。
寺院が、ありそうな、場所ではある。
創建は、江戸時代の初め頃。
創建の地は、浅草の北側、隅田川沿い、ということだ。
とくに、江戸城の近くに、あったわけではないので、江戸時代を通して、移転、ということは、なかったらしい。
また、江戸時代、時勢、盛んだったようだ。
時代は下り、昭和の初め頃。
この地に、移転している。
直接の理由は、関東大震災によるのだろうけど。
再び、北へと、向かう。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(北烏山三丁目 世田谷 郊外の住宅地)

2014-08-24 07:10:20 | Weblog
実は、烏山川流路跡、どう考えても、東側に、あるはずなのだが、あまりに、見つからないので、甲州街道、西側に、歩いてしまった。
あるはずのない方向に、歩いているので、ますます、見つからない。
仕方がないので、とりあえず、北に、向かうことにする。
バスが、通っていたので、つられてしまった、という感じだが。
住宅地の中、北へ北へと、歩いていく。
はるか、北側には、中央線。
中央線沿線まで、住宅地が、広がっているように、思えない。
いったん、途切れる感じ。
おそらく、何もない原野、中央線が、開業し、その沿線が、開けたので、その間、つまり、甲州街道沿いと、中央線沿いの間が、取り残されたのだろう。
そんな、住宅地を、北へ北へと、歩いていく。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(北烏山三丁目 甲州街道)

2014-08-23 07:08:17 | Weblog
甲州街道、あいかわらず、混んでいる。
都心と、多摩、郊外を結ぶ、幹線道路。
ただ、歴史は、それほどない。
南側の、海から、北側の、内陸を結ぶ、鎌倉街道が、昔の、幹線道路。
東西に伸びる、甲州街道は、江戸時代の前、戦国時代に、開通している。
関東平野の、開拓が、最終段階に、入った頃だろうか。
開拓が、始まり、道路も、必要となったのかな。
時代を、かなり、経て、現代。
高度成長期、多摩が、都心に対する、郊外になる。
ますます、混んでくるわけだ。
などと、甲州街道の、昔に、思いを、馳せながら、歩き回る。
歩き回っても、いっかな、烏山川の、流路跡は、見つからない。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(南烏山三丁目 烏山川流路跡)

2014-08-22 06:07:50 | Weblog
東西に伸びる通りから北側、いちおう、道路になっている。
ただ、川の流路跡、ということは、もはや、わからない。
普通の、道路になっている。
そして、またしても、東側には、集合住宅。
川の流路跡の、周囲には、集合住宅が、多いようだ。
と思っている間に、烏山川の、流路跡、見失ってしまう。
どういうことかというと、北へ、歩いていくと、東西に伸びる、甲州街道に、行き当たるのだが、その先が、見当たらないのだ。
いったん、戻って、再び、流路跡を、辿りなおしても、同じ。
途方に暮れてしまう。
(2013年1月記)

京王線芦花公園駅(南烏山四丁目 烏山川流路跡)

2014-08-21 03:49:47 | Weblog
踏切は、烏山川流路跡の、西側にあるので、東側に、入れば、流路跡に、辿り着けるわけでだが、道がない。
本当は、あるのかもしれないが、どうも、探せないのだ。
あっても、立ち入れるような、感じではないのかもしれない。
仕方がないので、いったん、北に、向かうことにする。
行き当たった、東西に伸びる、通りを、東へ。
すぐに、建物と建物との隙間、いかにも、川の、流路跡らしき、場所を、見付ける。
おそらく、烏山川流路跡に、間違いないと、思う。
もはや、緑道どころか、道、ですらない。
ひょっとすると、線路の、近くなので、道にすると、踏切を、設置しなければならず、すでに、近くに、踏切はあるので、道には、しなかったのかも。
わからないけど。
再び、北側、烏山川流路跡を、進む。
(2013年1月記)