retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

山手線田町駅東口(芝浦スクエアハイツ)

2008-06-30 06:21:11 | Weblog
第一京浜を北へ歩く。
巨大な住友不動産三田ツインビル西館を過ぎると交差点がある。
交差点を東に曲る。
すぐに札の辻橋、という陸橋で山手線を越えて、東側に出る。
そういえば、この陸橋は、数年前にいつの間にか拡幅されていたのだ。
徐々に街の姿が変わっていく。
陸橋を渡りきるとすぐに運河。藻塩橋で渡る。
交差点を南に曲る。また運河がある。百代橋で運河を渡る。
東側には、最近、できた巨大な高層住宅、キャピタルマークタワーが聳えている。
この場所は、沖電気の敷地だったのだが、一部を残し、高層住宅になってしまった。
そして、そのキャピタルマークタワーの南側には、オフィスビルの芝浦スクエアと高層住宅の芝浦スクエアハイツがある。
竣工は、バブルの頃だ。
まだ、この頃は、オフィスビルの付属として、住宅棟が建ったらしい。今なら、オフィスビルの方が付属棟になっている。
もっとも、キャピタルマークタワーの敷地がちょっとした公園みたいになっているので、隣接している芝浦スクエアハイツは、その敷地の一部のように見える。
まるで、高層住宅群のようなのだ。
うまい具合に敷地が連続している、と思ってしまうが。
でも、まさか、あの頃、北側に広がっている沖電気の敷地が、巨大な住宅棟になってしまうなんて思わなかっただろうけど。
キャピタルマークタワーと芝浦スクエアハイツの間、公園地帯を抜けていくと、キャピタルマークタワーの東側に出てしまった。
さらに、そのまま歩いて行くと道路に出る。
なんか、もう芝浦の工場地帯は、なくなったのだなあ、と実感してしまった。
もう日が暮れるので先を急がないと。
(2008年1月記)

山手線田町駅西口(イトヤマタワー)

2008-06-29 02:27:00 | Weblog
西側に歩き、大森駅に戻る。
再び京浜東北線に乗る。
そういえば、大森駅東口は、あんなにすっきりしていたかなあ。
もっと、ごちゃごちゃしていたような気がするが、気のせいなのかな。
と昔のことを回想しているうちに、田町駅に到着する。
西口に出る。
幅広の第一京浜に出て南へと歩いていく。相変わらず、西側が高台になっていて、その影になっているためか、薄暗い感じがする。
最近、巨大な高層ビル、住友不動産三田ツインビル西館が建ったので、ますます、薄暗くなってしまった。
その住友不動産三田ツインビル西館を過ぎたあたりにイトヤマタワーがある。
竣工したのは、失われた10年の頃。
ビル名が、地名でも企業名でもなく、個人名、というのも、俗物っぽくて、面白い。
せめて、地名の三田から、Mタワーとかにならなかったのだろうか。
あるいは、とても歴史のある古社、御田八幡神社の参道の脇にあるので、御田八幡タワーでも、いいかもしれない。かっこ悪いビル名かな。
さらに言えば、この場所には、新日本観光の新日本会館というのが、もともとあって、その跡地に建っているので、新日本観光の本社ビル、ということなら、その企業名でもいいかもしれない。
もっとも、そうなると、バブルっぽいような企業みたいなので、どちらにしろ、俗物っぽくなる。
そんな俗物ビルは、バブルが崩壊した後、白金、高輪の山の手の麓、じめじめした陰気な場所に、できあがる。
でも、今では、すぐ近くに、この俗物高層ビルよりも、はるかにはるかに巨大な住友不動産三田ツインビル西館が聳えている。
そして、じめじめした陰気な場所、というのは変わりそうにない。
そんな様を見ると、抗えぬ時代の波の大きさを感じさせられてしまうなあ。
そう考えると、この俗物高層ビルは、むしろ、滑稽な悲しみに満ちた建築物なのかもしれない。
(2008年1月記)

京浜東北線大森駅東口(いすゞ自動車新本社ビル(大森ベルポート)(A棟、B棟、D棟、E棟))

2008-06-28 03:14:13 | Weblog
西側に歩き、蒲田駅に戻る。
京浜東北線に乗り込む。
隣の駅、大森駅で下車。東口へ。
大森駅は、駅を境にして西側が山の手、東側が京浜の下町、とわかりやすい風景になっている。
駅が、山の手、下町の境になっている点では、日暮里駅と似ているだろうか。
駅前広場から少し南へ歩くと、幅広な通りが東西に伸びている。
その通りを東へ歩いていく。
通りの北側には、いすゞ自動車新本社ビル(大森ベルポート)(A棟、B棟、D棟、E棟)がある。
一帯は、高層ビル群になっていて、そこには、いすゞ自動車新本社だけではなく、他の企業も入居しているので、「大森ベルポート」、だけの方がいいのかな。
といっても、もとは、いすゞ自動車の敷地で、大森ベルポートの「ベル」は、社名、五十鈴(いすゞ)の「鈴」からとられたらしい。
竣工は、バブル崩壊から失われた10年にかけてで、順次、高層ビルが建っている
いすゞ自動車についてだが、日本では最古参の自動車メーカー、ということだ。
工業立国、日本の産業や経済を長い間、支え引っ張ってきたことだろう。
ところが、いすゞ自動車は、バブル崩壊から失われた10年にかけて、経営難に陥る。
大森ベルポートが順次できあがっていた時期と重なっているのだ。
つまり、オフィスビル群が建ったのは、経営難だったからなのだろう。(景気がよければ、そのままの状態で自動車を作り続けていたかもしれない)
もちろん、衰退していたのは、いすゞ自動車だけではない。
まわりの工場地帯、いや、国内の工業自体が衰退したのかもしれない。
そして、なくなった工場の跡地には、高層ビルが建っていく、ということだろうか。
そういうわけで、大森駅東口も変わってしまった。
大森駅周辺だと、あとは、南東側の商店街が昔っぽい感じを残しているのかな。
でも、いつまで残っているのかわからない。
(2008年1月記)

京浜東北線蒲田駅東口(ニッセイアロマスクエア)

2008-06-27 06:14:11 | Weblog
キヤノンの工場の南側を東西に伸びる道路に出て、東に歩いていく。
途中、北東側に入っていく小道に入っていく。
商店がわずかにかたまるあたりに出ると、下丸子駅前だ。
ちょっと下町っぽい感じが残っている。
改札を通ってホームへ。
そういえば、たしか、改札を通ってしまうと、反対側のホームに行けなくなるのじゃなかったかな、と思い出したが遅かった。
前来たときも、ひっかかったような気もする。
たまにしか来ないから仕方ないけど。
駅員に申し出て、改札を出て、踏切を渡って、再び改札を通る。
こうしなければ、反対側のホームに行けないのだ。
東急多摩川線に乗り込み、蒲田駅へ。
工事中で立体迷路みたいになっている駅構内を通って、なんとか東口に出る。
駅前広場から大通りを南へ少し歩き、途中、細い道を東へ。
その細い道路の南側にニッセイアロマスクエアがある。
工場の跡地だったのだが、大正時代から昭和の初めにかけて、この場所には、松竹蒲田撮影所があった、ということだ。
映画産業の黎明期の一時期が、京浜工業地帯の町工場が集まっている中にあった、というのは興味深い。
その後、映画は、サイレント映画から音声の入る映画に転換し、大規模な産業になって、町工場地帯から大船へと巣立っていく。
しかし、大船の松竹大船撮影所は、バブル崩壊後の失われた10年の間に閉鎖。
同じ頃に松竹蒲田撮影所の跡地にあった工場もなくなっている。
なにか、大きな時代の終焉、あるいは時代の転換点だったのかもしれない。
そして、松竹蒲田撮影所のあった場所には、高層ビル、ニッセイアロマスクエアが建った、というわけだ。
(2008年1月記)

東急多摩川線下丸子駅西口(キヤノン下丸子研究所)

2008-06-26 06:21:08 | Weblog
西側に歩き、多摩川の土手に登ってみる。
土手の向こうには広々としたグラウンド。そして、さらにその先には多摩川がゆったりと流れている。
土手は気持ちのよい遊歩道になっていて、脇にはずっと続く桜並木。
そのような土手の上を、思い思い、ジョギングする姿、散歩する姿が見られる。
まさに親水公園だなあ。
こんな素晴らしい環境の近くに集合住宅が建っていれば、やっぱり、億ションになってしまうのだろうか。
土手の遊歩道を南へ歩く。
しばらくすると、キヤノン下丸子研究所がある。
一帯は、キヤノンの工場の敷地が広がっているのだが、その中の研究所が高層ビルになっていて、多摩川の親水公園に面して建っているのだ。
いい景色でも見れば、研究の成果が上がる、というわけかどうか、わからないけど。
竣工は、さっきのパークハウス多摩川と同じ、バブルの終わり頃。
同じ時期、三菱自動車の工場跡地に億ションとキヤノンの工場ができる、というのは興味深いことだ。
億ション、というのは、なんとなくわかる。
でも、工場跡地に工場が建つ、というのは不思議ではないだろうか。
最初は、自動車工場のような油にまみれて働く工場よりも、清潔な室内で精密機器を作っている方が山の手っぽいのかな、と思っていたのだが。
おそらく、そうではなくて、利益効率の非常に高い工場になった、ということではないだろうか。
きれいな億ションができ、利益の高い工場ができたのだから、喜ばしいことなんだろうけど、その結果が今のような世の中だとすると、どうなんだろうか。
つまり、バブルが崩壊しかかっている頃に、億ションと利益効率の高い工場が出現している、というのは、その後に到来する、勝ち組、負け組の格差社会の舞台装置が整った、という感じがするのだ。
昔の川岸は、いつ洪水に襲われるかわからない、という不安があったが、その不安は、ウォーターフロントの親水公園のおかげで霧のように消えてしまった。
しかし、「不安」そのものは、格差社会という姿に変わっただけなのかもしれない。
(2008年1月記)

東急多摩川線鵜の木駅西口(パークハウス多摩川南参番館)

2008-06-25 06:16:31 | Weblog
高田馬場から山手線で渋谷へ。東急東横線に乗り換える。
さらに多摩川駅で東急多摩川線に乗り換える。
東京の西側から見ると、本当にここらへんは、縁のない場所だなあ、と思ってしまう。
大森や蒲田のある大田区だが、本門寺の西側あたりから世田谷山の手が始まっているので、界隈は閑静な住宅街となっている。だからますます縁がないのかな。
だが、東急多摩川線の西側は多摩川の川岸、ということで少しは庶民的な感じがするかもしれない。
鵜の木駅で降りる。
西へ歩いていく。庶民的な商店街はどうやら駅の東側らしい。
西側は、静かな住宅街。その中を歩いていく。
やがて多摩川に行き当たるが、その途中、多摩川の東岸に集合住宅群、パークハウス多摩川が広がっている。
その集合住宅の中に高層住宅のパークハウス多摩川南参番館がある。
竣工は、バブルの終わり頃、となっている。
三菱自動車の工場跡地だったらしいのだが、当時は、億ション、とかいわれていた。
今でもそうかもしれないが、わからないし、そもそも興味もない。
世田谷山の手に対する人工の山の手。
パークハウス多摩川は、そのわかりやすい例なんだろうなあ。
話は変わるが、多摩川の川岸、というと、高度成長期が終わった頃のテレビドラマ、「岸辺のアルバム」、というのを思い出す。
多摩川決壊、という実際にあった事件と家庭崩壊とを結びつけた作品だったと記憶している。
このテレビドラマから、川岸、というのは、昔は、不安なもの、不安定な先行き、を象徴していたのかもしれないと感じてしまう。
だが、バブルを過ぎると、川岸は、ウォーターフロントの再開発地、ということになっていく。
でも、川岸の持っていた「不安」といったものは、どこへ行ってしまったのだろうか。
パークハウス多摩川を見ていても、安定した山の手、という雰囲気しか感じない。
「不安」がなくなったわけでもないのだけど。
(2008年1月記)

山手線田端駅(田端アスカタワー)

2008-06-24 06:18:09 | Weblog
尾竹橋通りを歩き、工事真っ最中の日暮里駅前へ。
どんな街になるんだろうか、なんて、想像はつくので、あんまり興味はわかないけど。
日暮里駅で山手線に乗る。
田端駅の西側に出る。
北口、となっているが、事実上、駅の北側には、貨物線の線路や新幹線の高架などがあり、長い陸橋を渡らなければならないので、北口、というわけではないように見えるのだが。
つまり、北側から直接、田端駅にはいけない、ということだ。
この駅には、西側と南口しかないのだ。
駅を出て通りの西側、山手線の南側には、田端アスカタワーがある。
バブルの終わり頃に竣工している。
まわりを見ると、実にわかりやすい山の手の風景が広がる。
もっとも、山の手、ということで丘になっているわけで、駅のほうから見渡すわけには行かないけど。
ところで、田端アスカタワーのビル名についてだが、アスカは、王子駅の西側にある飛鳥山のことなのだろうか。
たぶん、そうなんだろう。
文京山の手は、田端、駒込から上中里の西側、さらに王子駅の西側の飛鳥山まで広がっている。
だから、飛鳥山の名前が田端駅の近くの高層ビルの名前になっていても、自然なわけなのだ。
もっとも、山の手には、興味も用事もないし、そもそも、高層ビルも建つわけはないので、この界隈は、1、2回しか歩いたことはないなあ。
記憶に残っているのは、本当に、百年一日のごとく、変わりそうもない、ということだけだ。
ということで、田端駅から山手線で帰ることにする。
前々からちょっと気になっているけど。山手線とは、よく名付けたものだ。山の手と関わりのある場所ばかり通っている。
ちょっと気になっているだけだけど。
(2008年1月記)

山手線日暮里駅東口(日暮里アインスタワー)

2008-06-23 06:20:42 | Weblog
尾竹橋通りを北西へ。日暮里駅に戻る。
途中、尾竹橋通りの北側に日暮里アインスタワーがある。
こちらは、リーデンスタワーができてから、数年後に竣工している。
都心部には、このように、高層住宅が次々と建っていき、現在に到っているのだ。
さらに、この日暮里アインスタワーができてから、数年後の現在、日暮里駅前には、もっと巨大な高層住宅ができあがりつつある。
まさに、都心集積が進んでいる。
まだ10年も経っていないのに、この変わりようは、激しすぎるような感じもする。
激しい変化とは、対照的に、日暮里アインスタワーの尾竹橋通りを挟んで南側には善性寺という、江戸時代前からある古いお寺がある。
通りを挟んで間近に変わらぬ歴史が残っているというのも面白いものだ。
そのお寺のさらに南側には、羽二重団子、という江戸時代から続いている老舗の有名な団子屋もある。
明治時代の文豪に好まれたそうだが、明治時代の文豪だけではなく、西側、坂を上がった先の文京山の手に愛されたのだろう。
別に明治の文豪を持ち出さなくてもいいと思うのだが。
上得意が文京山の手だから今に到るまで残っているのだろうか。どうだかわからないけど、たぶん、高層住宅にも受け入れられるような気もするなあ。
なぜなら、高層住宅は、人工の山の手でもあるからだ。
反対に、下町は、消えていく。
そして、レトロな部分だけ、歴史的なテーマパークとして残るのかな。
でも、羽二重団子もレトロもいいのだけど、自分にとっては、10年前の怪しげな、どうしようもなく古臭い下町の方が今は懐かしい。
時代の流れなので仕方ない。
このような変化の波は、たぶん、さらに北側の三河島あたりに押し寄せることだろう。
ということは、今度は、三河島界隈を訪れることになるのか。
先のことは、わからないけど。
(2008年1月記)

山手線日暮里駅東口(リーデンスタワー)

2008-06-22 04:45:06 | Weblog
通りを西へ歩き、再び、浜松町駅へ。
山手線に乗る。
上野を過ぎ、日暮里駅へ。
東京駅を過ぎると街並みの様子はだいぶ下町っぽくなっていくなあ。
日暮里駅の東口に出る。
相変わらず、駅前は広範囲で工事中。
だが、今回は、駅からは少し離れた場所に向かう。
山手線に沿って伸びる交通量の多い幅広な尾竹橋通りに出て、南東方向に歩く。
日暮里駅と鶯谷駅の中間ぐらいの地点、尾竹橋通りの北側にリーデンスタワーがある。
竣工は、バブル崩壊後にやってきた失われた10年の終わり頃だ。
たしか、高層住宅が建つ前は、同潤会鶯谷アパートという、昭和に入った頃に建てられたとても古い集合住宅があったらしい。
その当時としては、最新鋭の住居施設であり、建物だった、ということだ。
できた当初は、近代的ともてはやされたのだろう。
だが、その最新式の建造物も、月日は流れ、70年以上も経ってしまった。
そうなると、さすがに、老朽化し歴史的な遺物、あるいは廃墟のような建物になってしまうのだ。
そして、そういった場所は、高層住宅に建て替えられていく。
失われた10年の頃だが、都心集積化の先駆けだったのかもしれない。
またしても、最新鋭の高層住宅が誕生したわけだ。
でも、同じように70年も経てば、廃墟になってしまうことだろう。
時代は変わる。
70年後の未来は、どうなっているのか、今度はどんな建物が建つのか。
そんなことは、見ることはないので、想像しても仕方はないけど。
今は、ただ、目の前にある、新しくできた高層住宅を見上げて、70年前は、最新鋭だった建物が、時代の流れとともに、老朽化していき、ついには、なくなってしまった歴史に思いを巡らせるばかりなのかもしれない。
(2008年1月記)

山手線浜松町駅(汐留ビルディング)

2008-06-21 04:20:23 | Weblog
また、増上寺大門まで戻り、東へ歩く。
浜松町駅前まで行き、さらに東側へ。
北側は汐留シオサイトの再開発で本当にがらりと変わった。
最近では、汐留芝離宮ビルディングが建ち、さらにその東側に新しく汐留ビルディングができた。
たぶん、これで汐留シオサイトも完成、ということになるだろう。
あとは、周囲に少しずつ広がるぐらいかな。
こうして、できあがってみると、もう、この場所が広大な更地だったころを思い出せなくなるなあ。
たしか、バブルが崩壊した後、失われた10年の間に延々と汐留シオサイトの再開発工事をやっていたように記憶している。
不況対策、というわけではないだろうけど。
できあがってみると、例えば、西新宿高層ビル街とは、ちょっと違うような気もする。
六本木ヒルズもそうだが、都市としての広がりがないような気がするのだ。
外部から閉ざされたコロニー、という感じだ。
そのことを特徴付けているのが、付属する高層住宅の存在だろう。
住宅があるわけだから、一応、外部から遮断されている、ということは仕方がないのかもしれない。
だけど、せっかく、新橋から浜松町まで汐留シオサイトは広がっているのだ。閉ざされているおかげで、その区間を歩こう、なんて気にならないのは、残念だ。
高度成長期後の安定期やバブル期の発想なら、汐留シオサイトの中央部は、大規模な商業施設やホテルが建っていたかもしれない。
すぐ近くには浜離宮庭園もあるし。きっと賑やかになったことだろう。
といっても時代の流れなので仕方ない。
とりあえずは、完成したのだから。
あとは、古びていって、レトロになって、遺物になっていくことだろう。
将来、遺物になった姿を見ることはできないけど、せめて、レトロになった姿は見れるかもしれないな。
(2008年1月記)