retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

八王子駅北口(東急スクエア)

2007-05-31 06:24:39 | Weblog
甲州街道を東に進むと、ユーロードという商店街が南東に伸び駅まで続いている。
そのユーロードを歩いて駅前へ行く。駅北口の正面に東急スクエアがある。
ユーロードというちょっと垢抜けた通りを歩いていて、すぐ感じたのが、なんだか横浜に似ているな、ということだ。
横浜線で横浜文化が運ばれてきたんだな、とはさすがに思わないが。
少し経って、そういえば大宮駅西口も横浜みたいだったっけ、と思い出す。
ようするに、郊外の街のある部分は、みんな横浜みたいなのだ。
そして、北口の駅前。
ビルが四方に建っているからだろうか。昔は、広々としていたように記憶しているが、今見ると、なんでこんなに窮屈な駅前になってしまったのだろう、と思える。
しかも、このような駅前は、どこかの郊外の比較的大きな街とまったく区別がつかないのだ。
もっとも、横浜とのつながりがないわけではない。
明治時代に入り、横浜が貿易港として開港すると、絹糸の輸出が始まる。
そのとき、八王子の絹糸が、横浜から海外に輸出されたのだ。
そして、八王子から横浜まで、絹糸が運ばれていったのだが、その道を日本のシルクロードと呼ぶ場合もある。
いまでも国道16号や横浜線が八王子と横浜を結んでいる。
しかし、自分がかなり前に八王子駅北口に出たときは、山間の地方都市、例えば甲府のような雰囲気が記憶に残っているのだが。あの時の八王子はどこへいってしまったのだろうか。
垢抜けていて、賑やかで、華やかな街並み。そして、どこにでもある街並み。
のどかで、静かで、落ち着いた歴史を感じさせる街並み。
有名な観光地でもないかぎり、やっぱり前者になってしまうのかな。
(2006年11月記)

八王子駅北口八日町(ビュータワー八王子)

2007-05-30 06:24:51 | Weblog
バス停へ。八王子駅行きのバスはすぐ来る。
相変わらずクルマが多く混む。
八王子の中心街、甲州街道へ曲ったところで下車。
甲州街道沿いにビュータワー八王子がある。
甲州街道沿いはまだ、歴史のある地方都市、といった雰囲気が残っている。
といっても、もうこの甲州街道沿いくらいかな。
かなり前のことになるが、八王子の駅の改札口を出ると、もうここは都心とは違うな、と当たり前に感じたものだけど。今ではもう考えられない。
八王子といえば、絹織物がすぐに思い浮かぶが、もともと、太古の昔、多摩川流域は麻織物の一大生産地だったらしい。
そのことに由来すると思われる地名が、現在も多く残っている。
第一に、多摩川は、多麻川、だったし、八王子の北を東西に流れる浅川も、麻川、だったようだ。
その麻織物は、やがて絹織物に遷り変わったのだろう。太古の産業が、八王子の伝統的な地場産業になって現在に至っているのかもしれない。
また、多摩川の南側に東西に伸びる多摩丘陵を、大昔は、横山、といったらしいが、平安時代にその地名をとった武士団、横山党が勢力を広げ、八王子北部に拠点を築いた。
元横山町という町名にその名残りがある。
江戸時代に入ると、八王子は、甲州街道の宿場町、八王子十五宿として大いに栄えている。
こうして見ると、都心とは一線を画す、歴史と伝統を持った地方の街だったのだが。
しかし、今では、なんだか、普通の郊外の街にしか見えない。
(2006年11月記)

八王子市北部(創価大学本部棟)

2007-05-29 06:20:40 | Weblog
中央線で八王子駅へ。北口へ出る。
昔は広々とした駅前だったような記憶があるが。
今は、ひなびた地方都市という雰囲気は一掃されて、デパートや商業施設が所狭しと建てこみ、息が詰まる感じがする。賑やかなのはいいけど。
バス停へ。新宿駅西口のように地下から行けるようになっているが、エスカレーターが完備されていて新宿よりも快適だ。
創価大学行きのバスはすぐに来る。しかし、この日は雨が降っているせいか、クルマが多く混んでいる。いや、いつも混んでいるのかもしれないが。
甲州街道で西へ進み、途中、16号線に入り、北へ進む。
高速道路の中央自動車道をくぐるとじきに創価大学の広々としたキャンパスに着く。創価大学本部棟がある。
大学キャンパス内の校舎が高層ビル、というのは、どの大学からいつ始まったのか、よくわからない。ただ、大学では、都心部、郊外に関わりなく、キャンパス内に高層の校舎棟というが、最近、多いのだ。
創価大学は、創価学会の大学だが、その創価学会は、日本の高度成長期に急拡大し、日本最大の新興宗教団体となる。
その経緯は、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思わせる。
高度成長期を経て、豊かになった日本、この豊かさも現世のご利益というわけだろうか。
高度成長期の終わりごろ、日本が豊かになって創価大学が開校している。
さらにバブル崩壊後に、創価大学本部棟が竣工している。
豊かさを維持するためには、知・情報を集積しなければならない、ということはどこも同じなのだ。
ただし、みんなで豊かさを目指した高度成長期には、現世、というものは確かに解決すべき場だったかもしれない。
しかし、現在の勝ち組、負け組みを峻別する格差社会では、現世、ということにどんな意味があるのだろう、とも思ってしまうが。
(2006年11月記)

草加市谷塚駅東口(谷塚コリーナ)

2007-05-28 06:22:56 | Weblog
松原団地駅に戻り、また東武伊勢崎線。
谷塚駅で下車。東口に谷塚コリーナがある。
戦前の都市化に伴う郊外住宅地及び工場の進出によって、駅が開業していると思うのだが。
西口に出るといまだに駅前ができあがっていない。東口はいまでこそ高層住宅が建っていて整備されている感じだが、駅と日光街道までの狭い場所が駅前に過ぎない。
竹ノ塚と草加では駅間が開いてしまうから真ん中に駅を作ったのだろうか。
谷塚の地名は、塚、古墳のことを指しているようだ。八つの塚だったかどうかはわからないが。
南側を東西に流れる毛長川は江戸時代以前は入間川であり、川幅の広い大河だったそうだ。
その旧入間川沿いに古墳がいくつもあるらしい。
竹ノ塚もむろん、この入間川(現毛長川)の南岸の古墳群が地名の由来だということだ。
戦前の都市化による郊外の拡大以前は、一面が田圃だったので、このような古墳跡はこんもりした小山のような地形になっていて、目立っていたことだろう。
そういうことで谷塚という地名が生まれたのかもしれない。
やがて、都心の都市化とともに、その周縁は郊外化していき、宅地がびっしりと建っていく。
もはや、古墳の跡など忘れ去られていくことになるのだ。
バブル以降、東武伊勢崎線は竹ノ塚駅から北越谷駅までを順次複々線化。
そして谷塚駅の東口に駅前高層住宅が建つ。
駅前広場も日光街道までの駅前通りも完成し、駅東口はきれいになった。
西口はいまだに遅々として完成していないけれど。
今では、古墳は、もう忘れ去られてしまったが、代わりに高層住宅が建っているのだろうか。
(2006年11月記)

草加市松原団地駅西口(ハーモネスタワー松原)

2007-05-27 13:26:48 | Weblog
北越谷駅で東武伊勢崎線に再び乗り今度は東京方面へ。
松原団地で下車。
西口にハーモネスタワー松原がある。
駅西側には駅名にもなっている松原団地が広がる。
東西、草加バイパスまで1キロメートル、南北、500メートルほど。
東洋一のマンモス団地といわれただけある。
といっても建てられたのは高度成長期だが。
つまり、ニュータウンと呼ばれる団地よりも前の世代ということだ。
公園もなく、建物の棟が隙間なく建っているので、高度成長期でもかなり初期の頃の団地かもしれない。
同じ頃に松原団地駅も開業。南側には伝右川を挟んで独協大学も開校している。
なお、松原の名前は、駅東口、綾瀬川沿いの日光街道の松並木に由来する。
広大な田圃をつぶして団地にする。それが高度経済成長の必須の過程だったのだろう。
おかげで日本は豊かになった。
でも、その豊かさは維持されなければならない。
バブルが崩壊した後、駅西口に高層住宅が建つ。
そして、駅前も整備され、さらにこの昭和の団地も徐々に建替えられていくようだ。
団地からニュータウンへ。そして、今は高層住宅が人気を集める。
なんだか、住む場所がとりあえず、見つかって、その住処が案外広くて。
そして、スーパーがあって、学校があって、ちょっとした公園があって。
そんなことが人生の大きな喜びだった、それが団地だったかもしれない。
今から思うと、貧しくてなんともつましいのだが、とても懐かしく思う。
(2006年11月記)

越谷市北越谷駅東口(ステーションタワー北越谷)

2007-05-26 10:58:20 | Weblog
さいたま新都心駅で京浜東北線に乗る。南浦和駅で武蔵野線へ乗り換え、南越谷駅でさらに東武伊勢崎線。
北越谷で下車。東口にステーションタワー北越谷がある。
東西に走る武蔵野線に乗っているとよくわかるが、もう内陸の奥なのに、関東平野は沼沢地が多い。
その沼沢地や大河の間の南北に続く乾いた部分に街道や鉄道路線があるようだ。
武蔵野線はいくつもの沼沢地や大河を横断していく。
昔、季節は真夏だったと思うが、東川口の方から越谷まで歩いたことがある。
越谷の西側、特に草加バイパスの西側は一面、広大な田圃だった。今でもそうだろうけど。
夏空の下、地の果てまで広がるかと思うほどの田圃。若い稲の濃い草色が一面に匂いたつように光り輝いていた。
その絨毯のような緑の稲穂のかなたにステーションタワー北越谷が見えたのだ。
たぶん、リゾート高層マンションやリゾート高層ホテルを除いて最も田舎に建っている高層ビルなのでは、とその時は思ったが。
今回、北越谷駅に降りてみたが、普通の郊外の駅という感じ。駅前まで田圃が広がっているわけないな。
ただ、越谷駅の東口、元荒川の流域は本当に風光明媚、のどかで気持ちのよい場所だった。
今もそのような環境が残っているかどうかわからない。
駅前の高層ビルぐらいは建っていてもいいけど。
ただ、周辺の環境保全のために高層ビルを建てた、なんて話はいまだかつて聞いたことはないし。
(2006年11月記)

さいたま市さいたま新都心(さいたま新都心合同庁舎2号館)

2007-05-25 06:21:50 | Weblog
さらに南には、さいたま新都心合同庁舎2号館がある。
これでさいたま新都心の高層ビルはすべて見てきたわけだ。
まだ更地もあるので本当はあと何棟か建ったかもしれない。しかし、もう拡大することはないだろう。
バブルの頃のある書籍にさいたま新都心の完成予想図が載っているが、それによると、さいたま新都心駅の北東側、ショッピングセンターがある場所にも、高層ビルが描かれている。
ショッピングセンターになっているということは、計画がなくなったということだ。
逆に言えば、よくこれだけ高層ビルを建てたものだ、とも思える。
京浜東北線のさいたま新都心の駅の近くに高台橋という橋があった。
さいたま新都心を北東から南西方向へ斜めに横切る用水路に架かる橋だ。
(用水路はさいたま新都心より上流は地下化されているし、高台橋も形が残っているだけだと思う)
この高台橋の西側(京浜東北線さいたま新都心駅の南東側かな)は江戸時代、刑場だったようだ。中山道を大宮方向に少し行くと涙橋の跡というのもある。
涙橋、もちろん、この刑場に関わる名前の橋だ。
「あしたのジョー」にでてくる泪橋も、かつて江戸時代の小塚原の刑場に由来する。
さいたま新都心のビル群の場所ではないけど、高層ビルの建つ場所はたいていよくない場所だ。もっとも、いい場所だったら、山の手の高級住宅街になっているはずなのだが。
空高く聳え立つ高層ビルを見上げていると、いつしか秋晴れの抜けるような青空に視線が吸い込まれていく。
過去の歴史も、こんなふうに天に向かって昇華しているのだろうか。
本当にそうだったら、さいたま新都心の高層ビル群は建っている意味もあるのだろう。
(2006年11月記)

さいたま市さいたま新都心(さいたま新都心合同庁舎1号館)

2007-05-24 06:21:29 | Weblog
また少し離れて南へ。
さいたま新都心合同庁舎1号館がある。
人工地盤からペデストリアンデッキで高層ビルはつながっているようだ。
だからだろうか。手持ち無沙汰な感じで、ぶらぶらと合同庁舎あたりまでやってくる者もいる。しかし、やっぱりなんにもないので、つまらなさそうに駅前へ戻っていく。
このようにさいたま新都心は役所関係の高層ビルばかりなのだが。
さいたま新都心ができあがる以前、この場所には国鉄の大宮操車場、広大な貨物列車の車両基地があった。
だが、さらにそれ以前は何があったのだろう。
はっきりとはわからない。
かつて、大宮の東には広大な見沼が広がっていた。そして西側も見沼ほど大きくはないが鴻沼という沼が広がっていたようだ。
それらをつなぐようにして用水路が、北東から南西方向に斜めに流れていた。
中山道がその用水路を越えるための橋が、京浜東北線のさいたま新都心駅付近にあったらしい。
とすると、さいたま新都心付近では、江戸時代、中山道を通ると、東と西、両側に沼地が広がっていたことになる。(江戸時代に徐々に干拓されて田圃になっていくのだが)
用水路にかかる橋から西方を見やると、鴻沼が湖面を光らせていたはずだ。そして、その手前にさいたま新都心はできあがるわけだ。
当時、何百年も経ったらこんな巨大な人工建造物が建つ、なんて思いもしなかっただろう。
でも、今後、何百年か経つと、さらにどうなっているのだろうか。
目の前の巨大なビルを見上げるだけで精一杯なのだから。考えても仕方がない。
(2006年11月記)

さいたま市さいたま新都心(ランド・アクシス・タワー)

2007-05-23 06:21:44 | Weblog
NTTドコモさいたまビルより少し離れて南側。ランド・アクシス・タワーがある。
さいたま市では最高峰となる。オフィスビルとしては埼玉県で最高峰でもある。
もっとも埼玉県で目立つ普通のオフィスビルといえばソニックシティとこのランド・アクシス・タワーしかないのだが。
あとはNTT関係、郵政関係、役所関係、法律の教育機関まである。
なのになんでごく普通のオフィスビルがないのだろう。
オフィス需要がない、ということに尽きるのだろうけど。
あとは時期的にバブルが崩壊してしまった後なので、ありもしないオフィス需要というのが、本当になくなってしまったのかもしれない。
残りははあちこちに点在する高層住宅。でも都心に近いか都心そのものに建つ高層住宅にはかなわない。
まさか、バブルの再開発の勢いで、東京に遅れをとるな、横浜、千葉に負けるな、という感じで建ててしまったんじゃないだろうな。
この日は秋晴れ、いい天気。休日なので家族連れが多い。
この異様に巨大な人工建造物も走り回る子供らから見れば遊園地の一種であるらしい。
買物にでもでかける途中なのだろうか。
昔ここには、とても広い貨物列車の車庫があった。
でも、トラックがとってかわり貨物列車もお払い箱。そうなるととても広い貨物列車の車庫はどうしようか。
そうだ。山のように巨大なビルをいくつも建てればいい。
なんでって言われても困るけど、とにかく大きな山のようなビルは必要だ。
なんて、両親は子供に説明しているんだろうか。
そんなわけはないだろうけど。
(2006年11月記)

さいたま市さいたま新都心(NTTドコモさいたまビル)

2007-05-22 06:21:20 | Weblog
とにかくこの人工地盤の下にいてもしょうがないので、また西側に戻り、階段を登って人工地盤の上、けやきひろばへ。それほど混んでもいなかったけど。
東側にNTTドコモさいたまビルがある。
巨大アンテナを配したこのビルもずいぶん近未来的だ。
この広場、そのまま東へ歩けば京浜東北線のさいたま新都心駅になる。
バブルの頃の象徴のような埼京線の駅ではなく、京浜東北線にわざわざ駅を作るのはどうかと思ったが、さいたま新都心の駅といえば、やはりこちらかな。
さいたま新都心駅の東側にショッピングセンターもあるようだし。
さいたま新都心が工事中のときは、例えば、京浜東北線で大宮まで行って、大宮から埼京線で戻ってきたりとかしたものだが。
京浜東北線でさいたま新都心に近付くと壮大な建造物を見上げるような感じで、巨大な秘密基地にでも潜入するようなわくわくした興奮があった。
埼京線では高架で、しかも徐々に離れていくので、その巨大な姿がゆっくりと眼前にパノラマとなって現れるさまは、迫力があって息を呑むような光景だった。
もっともすべての建造物が出揃ってしまった今となってみると、南西側や南側、あるいは京浜東北線の東、さいたま新都心の東南側の工場地帯などは、本来、さいたま新都心になったのかもしれない、と思ってしまう。
ただ、今から建つとしても高層住宅棟ぐらいだが、都心回帰であるとすると無理だろうし、やはりショッピングセンターかと思ったが、もう建っているし。
国鉄時代の貨物列車の敷地を有効に活用したので、このままでいいのかもしれない。
(2006年11月記)