retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

弦巻三丁目(小川が脇を流れる蛇崩川緑道)

2010-06-30 06:09:00 | Weblog
蛇崩川緑道を、さらに、北西へ。
ますます、静かになっていく住宅街。
まわりは、いつしか、都心の山の手から、郊外の、田園都市という雰囲気に変わっている。
学校が近いのか、子供らが、元気よく、脇を、走り抜けていくのだが、そんな光景も、郊外らしい感じだ。
ふと、緑道の脇を見ると、小川が、流れているではないか。
これが、蛇崩川なのかな、なんて、思ったが、そんな筈はない。
たぶん、復元された、人工的な、水流なのだろう。
ところで、一帯は、弦巻、という地名なのだが、「つるまき」の、「つる」は、水流(つると読む)のことらしい。
とすると、「つるまき」は、湧き水があったり、細流が、くねくねと流れる様を、表しているのかな。
ちなみに、池袋駅西口から、雑司ヶ谷に、流れていた、小川、弦巻川、という名前なのだが、おそらく、この場所と、よく似ている地形なのだろう。
ひょっとしたら、雑司ヶ谷、なんて、地名が付かなければ、弦巻、あるいは、鶴巻、という地名になっていたのかも。
逆に、蛇崩川、本当は、下流は、蛇崩川でいいとしても、上流、水源に近い場所では、弦巻川という名前だったのかな。
今となっては、わからないけど。
そんな、緑なす、長閑な道を、のんびりと歩いていく。
(2009年10月記)

弦巻三丁目(弦巻神社)

2010-06-29 03:18:23 | Weblog
蛇崩川緑道を北西へと、歩いていく。
しばらくすると、緑道の南側に、弦巻神社。
創建は、いつか、わからない。それほどの、古社ではないことは、確かだろうけど。
おそらく、関東平野の至る所と同じく、ここら一帯も、鎌倉時代、室町時代に、開拓が、始まったであろうから、創建は、その頃かな。
具体的には、世田谷に、吉良氏が、進出したとき。
その頃は、南北に伸びる、二つの鎌倉街道に挟まれた、この場所は、取り残された、まだ、開拓が及んでいない土地だったのだろう。
弦巻神社以外、その他の寺院の創建も、だいたい、同じぐらいの時期となっている。
ただ、ちょっと小高くなっているところを見ると、それ以前に、何かが、あったかもしれない。
つまり、もともとの住民か、最初の入植者の、祭祀の場だった、可能性もある。
今となっては、まったく、わからないが。
ちょうど、蛇崩川の合流地点、というのも、特別な場所、という感じがするし。
開拓される前は、畑地など、なかっただろうから、やはり、放牧地、だったのかな。
でも、東側の、駒場や、上馬、下馬、駒繁神社などからは、かなり、離れている。
とすると、もともとの住民だろうか。
古墳や、縄文時代、弥生時代の遺跡が、どういう風になっているのか、下調べしていないので、想像もできない。
弦巻神社の境内か、近くに、古墳か古い塚があれば、間違いないのだけど。
こちらも、時間があれば、後で調べてみよう。
宿題が増えていくな。
(2009年10月記)

弦巻一丁目(弦巻通りに沿う蛇崩川跡)

2010-06-28 04:13:59 | Weblog
蛇崩川緑道を歩いていると、ひょっこり、普通の道路に出てしまう。
東西に伸びる、弦巻通りだ。
緑道は、道路になってしまった、と思ったが、北側の歩道が、なんとなく、緑道の続き、という雰囲気。
そういう、演出で、歩道を整備したわけではなく、たぶん、実際、弦巻通りの、北側を、蛇崩川が、流れていたのだろう。
その上に蓋をして、今は、歩道になっているわけだ。
川の流れが、あった頃は、まだ、宅地化されていず、農村風景が広がり、さぞかし、長閑な感じだったに違いない。
今は、住宅地。いちおう、閑静なのだが、川には、蓋がされてしまった。
そんな、弦巻通りの歩道を、のんびり、歩いていく。すると、しばらくして、緑道が再び、出現。
その緑道は、北西へと、伸びている。
やれ、嬉し、と、さっそく、その、復活した、蛇崩川緑道に入ってしまったのだが。
実は、蛇崩川を遡る、というのも、かなり、気紛れで、蛇崩川についての、予習や、下調べは、していない。
後で、知ったのだが、蛇崩川は、ここで、二手に、分かれているのだ。
合流している、と言った方が、いいかな。
どっちが、蛇崩川の本流なんだか、分からないけど。
ただ、今、振り返ってみると、緑道になっていない方、つまり、そのまま、素通りしてしまった方が、本流だったかもしれない、と思っている。
明治時代の地図を、見ても、地形的には、そちらの方が、谷地の幅が、広いのだ。
これでは、蛇崩川を遡る道行、宿題に、なってしまったかもしれない。
ちなみに、その流路を、辿ってみる。蛇崩川緑道から、少し、弦巻通りを進むと、公園があり、そこから、南西方向へ。
今は、その上を、細い道路が通っている。
流路は、徐々に、西へと、向きを変え、そのまま、西へ。
かなり進んだ先には、池の跡があったり、あるいは、源泉に多い、弁天様が、祀ってあれば、そこが、蛇崩川の源、間違いないのだが。
実際、行っていないので、残念ながら、何とも言いようがない。
いつかまた、この場所に来て、蛇崩川を遡る道行の、続きをしなければ。
(2009年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(上馬五丁目 蛇崩川緑道)

2010-06-27 06:56:16 | Weblog
蛇崩川緑道をさらに、西へと、歩いていく。
ますます、まわりには、これといって、何もなくなる。
周囲には、静かな、住宅街があるばかり。
地名は、上馬。
もともとは、馬引沢、というのが、あって、それが、いつしか、上馬引沢、下馬引沢、と、分離。
さらに、上馬、下馬、となって、現在に、至っているらしい。
で、その、もとになった、「馬引沢」は、どこなんだろうか。
そもそも、馬を引っ張り込む沢、なんて、あまり、縁起がよさそうな、感じはしない。
だから、下の、「引沢」を、とってしまったのだろうけど。
とすると、ますます、その沢には、興味が、湧いてくる。
実は、その沢、今の、下馬付近の、蛇崩川だったらしいのだ。
かつての「蛇崩」と呼ばれた場所の、すぐ、西側ではないか。
ひょっとしたら、昔、地盤が、緩くて、馬が、足を取られ、身動きできなくなってしまった、なんて、ことがあったのかもしれない。
いや、あったのかもしれないどころか、頻繁にあったに違いないと思う。
だからこそ、江戸時代より前、このあたりは、ほとんど、往来が、なかったのだ。
馬が、立ち往生しては、困ってしまうし。
大山詣のための道が開通し、あたりが、開けてくるのは、江戸時代を、待たなければならなかったのだろう。
それにしても、下馬、上馬以外にも、南側には、駒沢や、あるいは、駒繁神社、駒留八幡など、一帯は、余程、馬に縁があるものらしい。(もっとも、「駒沢」という地名は、明治時代からのもので、歴史があるわけではないし、そもそも、駒沢という沢が、あったわけではない。もしかしたら、「駒沢」は、「馬引沢」のことかな。ちょっと、離れているけど)
かなり北になるが、駒場、という地名も、この一帯と、関係がありそうだ。
おそらく、かなり昔、どのくらい昔か、わからないが、一帯には、広大な、放牧場でも、あったのだろう。
馬が、その中で、飼われていたわけだが、ときに、馬引沢で、足を取られてしまったりしたのかな。
そこで、注意を喚起するために、地名にしたわけだ。
現在は、逆に、縁起がよさそうではないし、不動産価値が下がりそうだし、ということで、馬引沢は、名前としては、なくなってしまったのかも。
そして、かくのごとく、閑静な、住宅街になったのだ。
(2009年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(三軒茶屋二丁目 蛇崩川緑道)

2010-06-26 02:52:39 | Weblog
蛇崩川の名前についてだが、もちろん、流れている場所に、蛇崩、という地名があったからだろう。
それと、蛇は、その体型が、細長いので、なんとなく、小川、細流、の名前になりやすかったのかもしれない。
いずれにせよ、蛇崩川の流域全部が、地滑り地帯、というわけではない。
現に、今、歩いているところも、実に、長閑な、山の手住宅地だ。
そんな、蛇崩川跡地なのだが、徐々に、カーブを描き、西側へ、南西側へと、向きが変わっていく。
もう、今さっきの、三軒茶屋の、賑やかさは、ここまでは、まったく、届かない。
もっとも、まだ、町名は、三軒茶屋なのだが。
ところで、この、三軒茶屋の地名なのだが、江戸時代、田中屋、信楽、角屋、という、三軒の茶屋が、あったかららしい。
でも、本当に、そうなのだろうか。
もし、そうなら、茶屋が、二軒だったら、二軒茶屋、七軒だったら、七軒茶屋、になるわけだが。
と思ったら、実際に、そういう地名、あるらしい。
とすると、茶屋の軒数が、地名になるような場所には、他に、名前になるような、特徴も、歴史も、なかったんだろう、と考えた方がいいかな。
「三軒」に、何か、意味があるなんて、深読みすると、行き詰ってしまう。
たまたま、そういう、仮の地名が、あって、いつしか、歴史のいたずらで、無視できないほどの大きな街になり、仮の地名が、本物の地名になった、そういうわけだろう。
実際、江戸時代より前、主要幹線道路は、今の、三軒茶屋の、西側、東側を、南北に、伸びていて、その真ん中は、何もなかったのだ。
蛇崩川の細流が、静かに、流れていただけ。
もっとも、今も、三軒茶屋は、例外として、ここらへんには、特に、何もないけど。
閑静な住宅街が、広がるばかり。
(2009年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(246号線近く 蛇崩川緑道)

2010-06-25 03:45:49 | Weblog
246号線を、三軒茶屋方面に、戻る。
しばらくすると、通りに、直交するように、伸びている、緑道。
かつては、小川が、流れていたのだろうと、容易に、見て取れる。
実際、この緑道には、蛇崩川、という小川が、流れていたのだ。
なにか、とても、妙な、名前に見えるが、この場所だけにあるわけではない。
蛇崩とは、地滑り、のことをいうので、地名としては、あちこちにある。
最初は、砂崩れ(さくずれ)、だったのかな。ちょっと、わからないが。
ちなみに、この、蛇崩川は、中目黒で、目黒川に合流していたわけだが、その少し手前に、かつて、蛇崩、なる地名があったようだ。
今も、商店街(ひょっとしたら、今は、別の名前になっているかもしれない)や、交差点の名前として、残っている。
後で、時間があれば、どんなところか、見てみようと思うけど。
たぶん、蛇崩という場所は、かつての、地滑り地帯だったわけで、その地名を、残すと、不動産価値が、極端に、下がるのだろう。それで、地名が、なくなってしまったのではないかな。
そういえば、東急東横線中目黒駅の南側を、西へ、歩いたことがあるのだが。
長く、続く、上り坂だったと、記憶している。
もっとも、中目黒が、かつての、蛇崩だったわけではない。念のために。
さて、今回は、蛇崩川を遡って、源流を、探ってみようと思う。
蛇崩川緑道に入り、北西へ。
たちまち、246号線沿いの、喧騒は、ウソのように、消えて、閑静な、住宅街。
やはり、大通り沿いの、下町は、通りに面した、ごく狭い部分だけだ。
細長い下町、というわけだな。
どこも、同じだ。
(2009年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(上馬一丁目計画工事現場)

2010-06-24 06:08:16 | Weblog
三軒茶屋で、大通りは、西に、世田谷通り、南西に、246号線と、分かれる。
世田谷通りの方は、いつも、混んでいるのだが、それにもかかわらず、沿道に緑も多く、閑静な雰囲気すら、してしまう。
やはり、世田谷のメインストリートだからかな。
もう一方の、246号線。こちらは、普通の、交通量の多い、大通りだ。
上に、首都高渋谷線の高架が通っていることもあるが、一般的な、混雑している、大通り沿いと同じく、とにかく、環境は、よくない。
だからだろうか、沿道は、ちょっと、下町っぽくなっている。
環境のよくない、川沿いや、低地に下町があるのと、同じ理由かな。
そんな、246号線を、南西へと、歩いていく。
道路沿いなので、通りに沿った、細長い下町だ。
似たような街並みとしては、新宿から四谷までの、新宿通り沿い、新宿から西側、甲州街道沿い、などがある。
そして、そのような場所には、高層ビルが建ったりするものらしい。
例えば、246号線沿い、三軒茶屋近くだと、サンタワーズセンタービルトゥールジョーヌ駒沢公園などの、高層住宅がある。
そういう点から見ても、やはり、下町の例に洩れないな。
さらに、南西へと、進んで行くと、通りの、南東側に、更地が広がる、一画。
果たして、高層住宅、上馬一丁目計画の工事現場だ。
こうして、三軒茶屋付近、246号線沿いに、また、一棟、高層ビルが、増える、というわけだな。
(2009年10月記)

田園都市線三軒茶屋駅(三軒茶屋駅近くの街並み)

2010-06-23 02:59:27 | Weblog
高田馬場駅から、山手線、渋谷駅へ。
渋谷の立ち食いそば屋で、腹ごしらえをしてから、田園都市線のホームへ。
なんか、最近、渋谷に寄るのは、立ち食いそば屋で、食事するときぐらいだな。
渋谷の街が、立ち食い店の街になったわけでは、もちろん、ないのだけど。
地下のホームで、待っていると、ほどなくして、地下鉄半蔵門線の車両。
渋谷駅から先、田園都市線、と名前が変わる。
同じ路線、同じ車両なので、ちょっと、変だが、乗り入れているので、仕方がない。
ただ、それ以前は、もう少し、複雑。渋谷駅から先は、東急新玉川線だったので、半蔵門線、東急新玉川線、田園都市線と、三たび、名前が、変わっていくのだ。
たぶん、面倒なので、東急新玉川線、という名前は、なくなったのだろう。
もっとも、反対側は、東武伊勢崎線に、乗り入れるようになったので、やっぱり、東武伊勢崎線、半蔵門線、田園都市線、と、三たび、名前が、変わる。
どうでもいい、そんなことを考えているうちに、車両は、三軒茶屋駅に到着。
地上に出ると、交通量の多い、幅広な、246号線。そして、その上には、首都高渋谷線の高架。
多量のクルマが、行きかい、空は、高架で、遮られている。
かくのごとく、一帯の、世田谷山の手地域の中では、住環境は、あまり、よくない。
たぶん、今だったら、246号線とともに、首都高は、地下にしただろう。
もっとも、そのおかげ、というわけではないが、昔からの、下町は、残った。
総武線沿線や、北区、足立区あたりと、似たような、雰囲気がするのだ。
と、思ったら、やはり、時代の波は、確実に、押し寄せているみたい。
それらしい、あまり、庶民的とは思えない、お店が、多くなっている。
特に、バブルが崩壊して以降、都心部の集積が、始まった頃からだ。
時代の流れ、というわけだな。
(2009年10月記)

総武線信濃町駅(信濃町駅のビル)

2010-06-22 04:07:42 | Weblog
明治聖徳記念絵画館の東側を、北へと、歩いていく。
しばらくすると、やっと、神宮外苑の外へ。
都心部、喧騒の街中に戻る。
首都高とJRの上を、越えていくと、南北に伸びる、外苑東通り。
ちょっと、南側に向かい、歩道橋に上がって、南側、外苑東通りの先を見てみる。
東側の赤坂御用地の緑と、西側の神宮外苑の緑に、挟まれて、森林の中、広い通りが、まっすぐ、伸びていて、美しい光景だ。
さらに、その向こうには、赤坂、青山、六本木、麻布があるわけか。
再び、外苑東通りを、北へ。
北側は、新宿の街、ということになる。こちらの方が、何か、現実の世界、という感じだな。
下町、というほどでもないが、ほっとしてしまう雰囲気。
赤坂御用地、神宮外苑の南側とは、対照的だ。
その間が、緑地帯のようになっているので、南側の方は、余計、浮世離れして見えるのかもしれない。
その浮世離れした街から、延々と、ここまで、歩いてきたので、くたびれたのかな。
外苑東通りの東側には、信濃町駅の駅ビル。
駅ビル、というより、ただのビルの地階に、たまたま、新しく、鉄道の改札が、設置されたように、見える。
むろん、駅のほうが、はるかに、古く、ビルは、最近、バブルの頃に、旧駅舎を、改良して、建てられているので、やはり、駅ビル、なんだろうけど。
そういえば、信濃町駅の再開発、というのは、僅かに、記憶にあるな。
そんな駅ビルも、今となっては、ごく、普通のビルなわけが。
バブルの頃は、神宮外苑の南側、浮世離れした街並みの、夢を見たのかもしれない。
ただ、完成してみると、それほど、巨大な、建物ではなかった、ということなのかな。
でも、今、こうして、赤坂から、はるばると、歩いてきて、辿り着いてみると、なぜか、ほっとする。
それで、よかったのかもしれない。
ということで、もう、疲れたので、信濃町駅から帰ろう。
総武線は、緩行線なので、ゆっくりできる。
今は、疲れているので、ゆっくり帰るのも、いいかな。
(2009年10月記)

銀座線外苑前駅(明治聖徳記念絵画館)

2010-06-21 03:35:07 | Weblog
外苑総合グラウンドの東側を、北へ北へと、歩いていく。
この、グラウンドも広大で、またしても、果てしなく、遠い。
やっと、グラウンドの北側に、出る。
グラウンドの北側には、とても、奇妙な建物、明治聖徳記念絵画館。
デザイン的には、東京駅舎や、国会議事堂に似ているのかな。
こういうの、ネオ・バロック様式、というのだろうか。
興味ないので、ちょっと、わからないが。
形ばかりの、重厚さ、一目で、ヨーロッパと分かるが、ただそれだけ。
そんな印象がするけど。
それで、なぜ、そのような、絵画館があるのか、というと、それは、たぶん、ここが、明治神宮の外苑、だからだろう。
さっき、庭園ではなく、公園、と書いたのだが、それはそれで、いいんだけど、実質的には、この場所は、明治神宮の境内なのだ。
だから、絵画館は、神社によくある、宝物殿、みたいなものかもしれない。
ちなみに、明治神宮には、宝物殿が、実際にある。
では、スポーツ施設というのは、どう、考えればいいのだろうか。
これも、神社にはよくある、境内の、奉納相撲の土俵、みたいなものかな。
こちらも、実際、神宮球場の北側、今の、第二球場の場所に、当初は、土俵が、あったのだ。
こうしてみると、神宮外苑、近代的な、スポーツ施設を擁した、市民公園なのだが、実際は、太古の昔と、変わっていないのかもしれないな。
そういうわけで、スポーツ競技の捉え方も、奉納、という独特の、感じ方が、どこかに、あり、それが、国民性なんて、呼ばれているのかも。
だから、どうだ、というわけでもないが。
それにしても、ただの、グラウンドや公園を、延々と歩くのは、本当に、くたびれる。
早く、最寄の駅に、辿り着かなければ。
(2009年10月記)