retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東西線竹橋駅(神田錦町3-20計画工事現場)

2012-05-31 04:09:51 | Weblog
高田馬場駅から、東西線。
竹橋駅で下車。
地上に出ると、大手町の、高層ビル群が、迫るような感じだ。
ちょっと前までは、高層ビル群、遠かったのに。
それだけ、近年、東京駅周辺の、再開発が、活発なのだろう。
その、再開発が、徐々に、北側にも、広がってきた、というわけか。
バブルの頃の方が、むしろ、のんびりしていたな。
南北に伸びる通りを、北へ、歩く。
日本橋川を、渡ると、オフィス街から、普通の、都心の、街並みへ。
低層ビルなどが、あちこちに、建つ一帯。
さらに、北へ。
しばらくすると、東西に伸びる、交差点の、北西側、神田錦町3-20計画の、工事現場。
大手町の、高層ビル街が、北上しているような感じがする。
(2011年9月記)

有楽町線護国寺駅(護国寺 大師堂)

2012-05-30 05:07:07 | Weblog
本堂も、見たし、もう、帰ることにする。
戻る途中、不老門の手前、東側に、大師堂。
なんでも、もともとは、薬師堂だった、建物を、移築したものらしい。
いろいろと、変遷があるものだ。
変遷、といえば、護国寺にあった、西国札所三十三所観音は、どうしたのだろう。
江戸名所図会を、見ると、護国寺の、西側には、本浄寺があり、本浄寺の方は、現存するのだが、その、北側、護国寺の、北西側に、西国札所三十三所観音が、かつては、広がっていたはず。
ちなみに、西国札所三十三所とは、近畿地方の、有名な寺院、三十三箇寺で、江戸時代、盛んに、それらを、巡礼したらしい。
その、ミニチュア版が、護国寺の北西側一帯に、あったのだ。
一番目は、和歌山県、那智青岸渡寺。
伊勢参りを終えて、巡礼を、始めるので、一番目、かな。
最後、三十三番目は、岐阜県、華厳寺。
江戸に帰るので、帰路の、近く、ということか。
護国寺の、ミニチュア版では、そのまま、北西へと、配置されている。
途中、音羽富士、富士山の、ミニチュアまである、という、盛り沢山。
そんな、西国札所三十三所観音なのだが、護国寺の北西という、位置関係から、どうみても、今の、雑司ヶ谷霊園、ではないかと、思う。
ひょっとしたら、江戸時代から、明治時代になり、寺勢、傾き、西国札所三十三所観音の敷地、そっくり、召し上げられたのかもしれない。
昔のことに、思いを馳せているうち、護国寺の、外へ。
有楽町線、護国寺駅に向かう。
(2011年9月記)

有楽町線護国寺駅(護国寺 本堂)

2012-05-29 05:08:34 | Weblog
江戸時代、もともと、護国寺の、東側には、護持院、という、寺院もあったのだが、今はない。
明治時代になり、護国寺と、合併したらしい。
あるいは、その後、すぐに、天皇家、豊島岡墓所に、なったのでは、と思うのだが。
江戸名所図会を見てみると、護持院境内には、権現山、という、丘が、あったらしく、その丘、今は、豊島岡墓所の中、豊島岡と、名前を変えて、残っている。
また、護国寺と、護持院の間には、よく見ると、池が、あるようなのだが、この池も、そのまま。
護国寺と、豊島岡墓所の、間にある、池が、それに、違いない。
とすると、どうやら、たしかに、護持院の敷地が、そっくり、そのまま、豊島岡墓所になった、と考えて、間違いない。
江戸時代、寺勢、盛んだったようだが、明治時代になり、逆風、ということか。
たしか、芝にある、増上寺も、そうだったったな。
などと、考えながら、北へ、進むと、護国寺本堂。
栄枯盛衰、時代は、流れていく。
(2011年9月記)

有楽町線護国寺駅(護国寺 音羽富士)

2012-05-28 05:00:19 | Weblog
東側へ。首都高池袋線の高架下から、離れる。
東側には、南北に伸びる、音羽通り。
しばらく、歩いていくと、南西に伸びる、不忍通りとの交差点。
交差点北側には、鬱蒼とした、森林地帯。
護国寺の広大な寺域が、広がる。
こちらも、江戸時代の前半。
ひょっとしたら、神田川から、順番に、北側に、寺院が、できているようにも、思えるが、はっきりしたことはわからない。
ところで、明治時代の初め頃の、地図を見ると、神田川あたりから、道路が、護国寺まで、一直線に、伸びていて、その両脇に、町屋が並び、長大な、参道のように、なっていたことが、窺える。実際、参道だったのかもしれないが。
さっそく、護国寺に、入ってみる。
仁王門から、北へ。
すぐに、不老門。
その手前、東側には、音羽富士がある。
富士山の小型模型。
ただ、実は、本来、音羽富士は、この場所ではなく、ここから、ずっと、北西側に、あったらしい。
雑司ヶ谷霊園が、ひょっとしたら、その、跡地なのだろうか。
今となっては、わからないが。
(2011年9月記)

有楽町線江戸川橋駅(目白台三丁目 桂林禅寺)

2012-05-27 06:19:26 | Weblog
首都高池袋線の、高架下を、再び、北へ。
しばらくすると、西側に、桂林禅寺。
まだまだ、寺院が、続く。
この寺院の、創建も、おそらく、江戸時代の前半、と思われる。
江戸時代になって、一気に、開発された、ということだ。
では、江戸時代以前は、どうなっていたのだろう。
音羽谷を、弦巻川、音羽川が、南へ、流れていて、すぐに、東へと、流れる、神田川に、合流。
合流している地点から、東側にかけて、神田川は、澱み、広大な、白鳥池となっていたらしい。
江戸時代になると、いつの間にか、干拓されて、町屋に、なっている。
つまり、江戸時代以前は、このあたり、台地があって、それ以外は、池や、湿地帯、だったようだ。
街並みは、望むべくもなく、閑散としていたのだろう。
さらに、北へと、歩いていく。
(2011年9月記)

有楽町線江戸川橋駅(関口台公園)

2012-05-26 07:06:07 | Weblog
蓮光寺の北側には、静かな、公園が、広がっている。
寺院の敷地の、合間に、公園があるので、いっそう、静かだ。
もっとも、寺院そのものが、公園、みたいだから、あまり、公園の、ありがたみは、ないかもしれないが。
ところで、昔、公園になる前、この場所には、マレーシア大使館が、あったらしい。
マレーシアは、戦後の、新しい、国なので、大使館が、できたのも、戦後。
それでは、さらに、それ以前、戦前、ここには、何があったのだろう。
広い敷地なので、なにかの、施設が、あったのだろうけど、わからない。
もっと前、江戸時代では、旗本武家屋敷が、あったようだ。
台地だと、大名等、武家の屋敷が、多い。
このように、台地の上から、崖に、はみ出している、武家屋敷も、あるようだ。
あるいは、景勝地、ということを、考慮して、建てられたのかもしれない。
(2011年9月記)

有楽町線江戸川橋駅(関口三丁目 蓮光寺)

2012-05-25 05:11:58 | Weblog
東へ。坂を、下る。
北へ伸びる、首都高池袋線の高架下を、北へ。
かつては、弦巻川が、南へと、流れていたらしい。
東側には、別に、音羽川も、流れていた、ということだ。
二つの川が、穿った、大きな谷、音羽谷。
そんな、音羽谷を、北へ、歩くと、しばらくして、西側、蓮光寺。
この、寺院も、まわりと同じく、創建は、江戸時代前半、と思われる。
かくのごとく、こうした、台地の縁には、寺社、とくに、寺院が、多い。
しかも、創建は、だいたい、江戸時代の、初め頃。
一帯にとって、いかに、江戸時代が、大きな、画期だったか、ということか。
それとは別にして、当時、崖下には、雄大な、谷間の景色が、広がっていたはず。
寺院が、崖地の有効利用、という、側面もあるだろうけど、壮大な、景観も、見れたとすれば、そういう意味も、あったかも。
さらに、北へと、歩いていく。
(2011年9月記)

有楽町線江戸川橋駅(関口二丁目 正八幡神社)

2012-05-24 05:14:44 | Weblog
すぐ西側には、正八幡神社。
神社のほうは、一帯に、多くある、寺院よりも、古いようだ。
まわりの寺院が、江戸時代に入ってから、創建されたのだが、正八幡神社、おそらく、創建は、鎌倉時代だろうか。
もっとも、実は、さっぱり、わからない。
あるいは、もっと、古いかもしれない。
ちょっと離れるが、西側には、もう一つ、八幡神社があり、そちらを、下の宮、正八幡神社の方を、上の宮、というらしい。
ただ、なぜ、そうなっているのは、わからない。
それに、下の宮の方の、八幡神社は、今は、なくなっているし。
たぶん、目白の台地に、もともと、太古の昔、暮らしていた、住民の、なんらかの、祭祀の場、だったのだろう。
それが、神社に、姿を、変えた、ということかも。
今となっては、もう、まったく、わからない。
(2011年9月記)

有楽町線江戸川橋駅(関口二丁目 養国寺)

2012-05-23 04:58:04 | Weblog
永泉寺の、さらに、西隣には、養国寺。
こちらも、おそらく、江戸時代の、初め頃、建てられたのだろう。
台地の縁には、こうして、寺院が、多く、あるわけだが、それ以外の、理由は、よく、わからない。
やはり、台地の縁、というだけの、理由なのだろうか。
もう少し、西側に行くと、かつては、有名な、目白不動尊、があった。
そして、やはり、目白不動尊も、創建は、江戸時代の、初め頃。
一帯が、目白なのも、目白不動尊があるからだろう。
それほどに、名高かったのだが、戦災で、今は、もっと、西側に、移転してしまっている。
今に、残っていれば、ちょっとした、観光名所に、なっていたに違いない。
もっとも、それはそれで、目白の、山の手住宅地としては、あまり、受け入れたくない、事態のような、気もするけど。
また、さらに、西へ、向かう。
(2011年9月記)

有楽町線江戸川橋駅(関口二丁目 永泉寺)

2012-05-22 05:07:28 | Weblog
大泉寺の西側には、永泉寺。
こちらも、おそらく、江戸時代の初め頃の、創建だと思う。
なぜ、この地に、この時期、寺院が、創建されたのか、よくわからないけど。
ひょっとすると、ここから、西側、大洗堰、というのが、あって、神田上水の、分流地点になっているのだが、その、大洗堰と、関係しているのだろうか。
大洗堰も、作られたのは、江戸時代の、最初の頃。
あるいは、まだ、江戸時代になる前、だったかな。
ただ、すでに、江戸の街は、造成されつつ、あったようだが。
あたりの地名、関口も、たぶん、堰の口、から、だろう。
とすると、大洗堰が、完成する前、つまり、江戸時代より前、一帯には、何もなかった、ということになる。
南北に伸びる、鎌倉街道からも、かなり、外れているし。
さらに、西へ。
坂を、上っていく。
(2011年9月記)