retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜東北線川崎駅(神明町二丁目 さいわい緑道)

2012-08-31 04:15:53 | Weblog
北西に進んで行くと、しばらくして、東西に伸びる、緑道。
細長い、公園に、なっている。
こういう緑地、たいていは、かつての、川の、跡だったりするのだが。
この場合は、ちょっと、違う。
川崎河岸貨物線、という鉄道が、通っていた跡、らしい。
南武線矢向駅から、東側、多摩川縁まで。
多摩川縁には、川崎河岸駅、という駅も、設置されていた。
ただ、砂利の運搬を専用にした、路線で、通常の鉄道ではない。
ちなみに、運搬していた砂利は、多摩川の上流。
南武線から、川崎河岸貨物線、川崎河岸駅で、その、砂利は、船に、積み替えて、多摩川河口から、あちこちに、搬送されていったようだ。
その後、高度成長期の、終わり頃、まわりの工場も、いらなくなり、廃線となっている。もっとも、それ以前に、多摩川の砂利が、なくなってしまったのだろうけど。
市電通りを、さらに、北西へ、向かう。
(2011年11月記)

京浜東北線川崎駅(南幸町二丁目 正楽寺)

2012-08-30 05:11:44 | Weblog
市電通りから、東へ。
住宅地に入る。
住宅地の中、正楽寺。
創建は、まったく、わからない。
こころみに、明治時代初め頃の地図を、見ると、今の、川崎駅東側に、江戸時代、川崎宿だった町がある。それとは、別に、北側、多摩川沿いにも、集落がある。
だが、それ以外は、一面の、田圃。
ここらへんも、田園の中、だったのだ。
一帯が、市街化されるのは、昭和に入ってからだろうか。
とすると、正楽寺の創建、かなり、最近のことかな。
あるいは、市街化にともなって、どこからか、移転してきたのかもしれない。
それ以降、高度成長期まで、街は、発展。
ただ、高度成長を達成すると、川崎の街を、支えてきた、工場地帯は、いらなくなってしまう。
そうして、衰退するはずが、その跡地、ウォータフロントとして、バブルの頃に、再開発。
一時的に、発展したかのように、見えた。
でも、バブルの崩壊で、やはり、衰退。
かくして、今は、閑散と、しているわけか。
再び、市電通りに戻り、北西へ。
(2011年11月記)

京浜東北線川崎駅(南幸町二丁目 市電通り)

2012-08-29 05:04:25 | Weblog
西へ、伸びている、幅広の西口通りを、道なりに、西へと、歩いていく。
どこもそうだが、駅近くは、再開発で、発展しているのに、そこから、少し、外れると、閑散としたものだ。
まるで、駅近くに、すべてが、吸い取られているように、見える。
しばらく、歩いていくと、北西に伸びる、市電通りとの、交差点。
市電通りに入り、北西へ。
こちらも、幅広なのだが、静か。
ところで、通りの名前、市電、とあるが、昔、鉄道の路線でも、あったのだろうか。
実は、川崎市電、というのが、川崎駅東口、街の外周を囲むようにして、通っていたようだ。
その市電が、通っていた通りの、駅西口への、延長が、この、通りらしい。
あるいは、ひょっとして、川崎市電、駅西口にも、延伸しようとしていたのかもそいれない。
妙に、通りの幅が、広いのは、そのためかな。
だが、結局、高度成長を経て、川崎市電は、全部、なくなってしまう。
時代の流れを、感じてるな。
市電通りを、さらに、北西へ、歩く。
(2011年11月記)

京浜東北線川崎駅(ラゾーナ川崎C地区再開発工事現場)

2012-08-28 04:04:00 | Weblog
高田馬場駅で、山手線。
品川駅で、京浜東北線に、乗り換える。
しばらくすると、多摩川を、越え、川崎駅。
改札を抜け、西口に出る。
川崎に来るのも、久しぶり。
ラゾーナ川崎は、相変わらず、賑やかだ。
さっそく、ペデストリアンデッキを、西へ西へと、歩いていく。
ペデストリアンデッキは、ミューザ川崎の建物の、一部となって、さらに、西へ。
途中、ミューザ川崎の、通りを挟んで、北側、ラゾーナ川崎の西側には、ラゾーナ川崎C地区再開発の工事現場がある。
ラゾーナ川崎の、西側拡大部分、なんだろうけど。
ここまで、建物が、伸びてくるのなら、通りの上、陸橋を、設けて、ミューザ川崎と、ラゾーナ川崎を、つなげれば、便利になる。
このように、川崎駅周辺は、いま少し、再開発が、続きそうだ。
ペデストリアンデッキから地上に降り立ち、今回は、西へと、向かってみる。
(2011年11月記)

日比谷線神谷町駅(虎ノ門三丁目 専光寺)

2012-08-27 05:05:13 | Weblog
しばらくすると、南へ伸びる、細い道。
その、細い道に入って、そのまま、南へと、歩いていく。
程なくして、東側に、光明寺。
創建は、こちらも、江戸時代、だろうか。
江戸時代の、地図には、載っている。
ところで、すぐ、西側には、南北に、幅広の、桜田通りが、通っているのだが。
ここは、そこから、ちょっと、奥に入っていて、とても静か。
都心にいるとを、感じさせないほど。
ちなみに、明治時代初め頃の、地図を見ると、あたりには、この、静かな、細い道路しか、載っていない。
桜田通りは、新しく、整備された、通り、ということだろう。
明治時代より前は、ここらへん、唯一、この道しか、ないわけだ。
ひょっとしたら、鎌倉街道の跡、なのだろうか。
わからないが、ここだけは、時代の流れからは、無縁のようだな。
ただ、ずっと、留まっているわけには行かない。
もう、帰ることにする。
西へ歩けば、桜田通り。
日比谷線神谷町駅は、すぐ、近く。
この先、あと、何百年も、ずっと、このまま、なんだろうなと、思いつつ、神谷町駅へ、向かう。
(2011年11月記)

日比谷線神谷町駅(虎ノ門三丁目 光明寺)

2012-08-26 07:11:00 | Weblog
北へ歩いていき、坂を、下ると、東西に伸びる、通りに出る。
愛宕山と、増上寺の丘陵地との間にある、切通しの、谷地。
西へ曲がり、そのまま、西へ。
しばらくすると、南側に、光円寺。
創建は、わからないが、おそらく、江戸時代、だろうか。
江戸時代の地図には、載っている。
それにしても、寺院が、多いな。一帯は、寺町、なのかな。
ところで、そばの、切通し、おそらく、江戸時代、丘陵地を、突き崩して、開通させたのだろうけど。
いったい、いつなのだろう。
日比谷入江を、埋め立てたときかな。わからないけど。
愛宕神社が、創建した時期と、合っているので、あり得なくもない。
ただ、昔のことなので、もう、わからなくなっているな。
再び、西へ、進む。
(2011年11月記)

日比谷線神谷町駅(虎ノ門三丁目 光円寺)

2012-08-25 07:16:38 | Weblog
芝給水所の建物に沿って、北へ向かう。
芝給水所は、本郷給水所と並んで、東京で、初めての、水道設備だったらしい。
歴史的にも、貴重なのだ。
そういえば、横浜の野毛山に、日本初の、水道設備が、あったっけ。
日本初、ということは、横浜の方が、先に、水道が、整備されていったわけだが、東京は、その間、どうしていたのだろう。
まだ、江戸時代のままっだったのかな。
江戸の街も、それなりに、大きな、都市だったとすると、それなりに、水道設備も、完成していたのだろう。
そこで、既に、出来上がっている、設備を、そのまま、利用したのかもしれない。
もっとも、下町、住宅地は、まだ、井戸、だったのかな。
そんなことなど、考えながら、歩いていると、下り坂。
坂を、降りる途中、西側には、光円寺。
創建は、おそらく、江戸時代、だろうか。
(2011年11月記)

都営三田線御成門駅(芝公園三丁目 芝給水所公園)

2012-08-24 05:09:09 | Weblog
北へ行くと、突き当たり、広大な、建造物がある。
あまり、高くはないので、目立たないけど。
建物は、芝給水所、となっている。
完成したのは、明治時代。
丘陵地の上に、給水所を、設置すると、麓にある街に、配水しやすいのだろう。
建物の屋上に、上ってみると、公園と、運動場になっていた。
有効利用、ということかな。
完成したのは、つい、数年前。
ところで、給水所になる前、江戸時代には、小諸藩の、上屋敷、だったらしい。
だが、江戸時代の地図を見ると、沼津藩の、上屋敷、となっている。
あるいは、別の、藩の、上屋敷だったことも、あったようだ。
どうも、時期によって、いろいろ、屋敷の、主が、変っているみたい。
ひょっとすると、あまり、大きくはない藩の場合、自前、ではなく、すでに、完成している、屋敷を、間借りしているような、感じだったのかも。
大名屋敷は、江戸城に、登城しなければならないことを、考えれば、近場でなかればならないわけだが、土地は、限られているし。
ということで、屋敷を、使いまわしていたのだろうか。
屋上にある、公園から降り、地上へ。北へ向かう。
(2011年11月記)

都営三田線御成門駅(芝公園三丁目 金地院)

2012-08-23 04:32:25 | Weblog
南へ、進むと、すぐに、道路は、西へ。
道なりに、西へ、歩くと、南への道路。
南へ曲がり、そのまま、南へ。
すぐに、東西に、伸びる、道路に、行き当たる。
今度は、東へと、曲がり、そのまま、東へ。
道路の南側には、東京タワー。
しばらく、歩いていくと、北側には、金地院。
妙に、複雑な、道行、なのだが、なんのことはなく、さっき、訪れた、光宝寺の、すぐ、南側が、金地院、なのだ。
ひょっとしたら、光宝寺の境内と、つながっているかもしれない。
そんな、金地院だが、創建は、江戸時代の初め頃。
やはり、このあたりの、寺院、増上寺と、同じ、江戸時代の前半、創建、なのだろう。
一概に、寺院が、江戸時代に影響を、受けてる、というわけでもないけど、ただ、江戸の街が、拡大するたびに、移転しているのは、寺院が、多い。
また、西へ。途中、北へ曲がり、そのまま、北。
もと来た道を、戻る。
(2011年11月記)

都営三田線御成門駅(芝公園三丁目 光宝寺)

2012-08-22 06:08:13 | Weblog
南へ向かうと、すぐに、道路の、東側に、光宝寺。
創建は、わからない。
江戸時代の、地図に、載っているので、江戸時代、と思われる。
ひょっとすると、幸稲荷神社の、すぐ、南側なので、幸稲荷神社と、関係があるのかもしれない。
増上寺の子院、ではなかったと思うが。
ただ、増上寺が、建って、その周囲が、寺町に、なったのは、確かだ。
だとすると、やはり、江戸時代、だろう。
ところで、愛宕山の丘陵地と、増上寺の間、谷地になっているが、どうにも、不自然に、思える。
愛宕山と、増上寺の丘陵地、一つ、というのが、自然だ。
その、谷地、切通し、という名前らしい。
ひょっとしたら、江戸時代、トンネルを通す、技術が、なかったので、丘陵地を、突き崩して、谷地を、作ったのかもしれない。
どういう経緯が、あったのだろうか。調べてみないと、わからないな。
再び、南へと、歩いていく。
(2011年11月記)