retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

田園都市線池尻大橋駅(鍋島松濤公園の池)

2010-09-30 03:57:00 | Weblog
坂道を下りきると、山手通り。
山手通りを、北へ北へと、歩いていく。
北側は、山の手になっているので、上り坂だ。
山手通りは、名前の通り、山の手を通っているのかどうか、わからないのだが、246号線から南は、目黒川沿い、すなわち、山の手ではなく、明らかに、低地を通っている。
246号線の北側で、旧山手通りが分岐しているが、こちらの方が、余程、山手通りの名に相応しい。
ひょっとしたら、山手通りの名前は、この、旧山手通りから、付けられたのでは、と思ってしまう。
ただ、山手通りは、高度成長期に開通した道路。旧山の手通りの開通は、ちょっと、わからないが、もっと、それ以前から、開通していたようだ。
ちなみに、昭和初期の地図を見てみると、今の、旧山手通りがある場所には、すでに、道路があり、たぶん、このあたりが、郊外として、再開発された頃から、旧山手通りは、存在していたと思う。
とすると、旧山の手通りは、たしかに、山の手を通っていたとしても、今の、山の手通りは、特に、山の手を、通っているわけでもないのかもしれないな。
むしろ、山の手のために、供された、通り、なのかも。
つまり、山の手に、クルマが、入ってこないようにするための、道路だ。
ひょっとすると、山の手ではなく、山の手の外縁を、通っているのかも。
そんなことを、考えながら、北へと進んで行き、途中、東へ。住宅地の中に、入っていく。
松濤の、山の手住宅地の中。
あながち、山の手通りは、山の手の外縁を、通っている、という見方は、外れていないのかもしれないな。
そのまま、東へと、歩くと、鍋島松濤公園がある。
公園に入ると、園内には、静かな、池。ますます、山の手住宅地らしい感じだ。
(2009年12月記)

田園都市線池尻大橋駅(大山道大坂)

2010-09-29 05:16:59 | Weblog
さらに、坂を、上っていく。
途中、歩道橋で、246号線の北側へ。
少し、西に向かうと、246号線から、北西方向に、細い道。
こちらは、246号線の橋梁の下、谷の底まで、伸びているので、急な下り坂になっている。
坂の名前は、大坂。けっこう、登るには、厳しい坂なので、大坂なのかな。
ところで、実は、この、細い坂道、昔の、大山道なのだ。
246号線は、元の大山道を整備した道路なのだが、橋梁になっている部分だけ、橋の下に、もとの、大山道が、残ったのだろう。
それにしても、江戸へ、あと少し、というところで、なんで、こんな急な上り坂があるんだろうと、旅行者は、嘆いたに違いない。だから、大坂なわけだが。
大坂を、上りきったところには、今は、神泉交差点がある。
そして、そこを越えれば、弘法湯、という湯治場があったそうだ。
江戸への、最後の難所を過ぎ、ほっとしたところに、湯治場か。
お客が集まるわけだな。
やがて、その、弘法湯の東側には、繁華街が広がっていく。
明治時代以降も、大山道を往来した、大山詣が、あったのかどうか、わからないが、繁華街には、色街もでき、大いに、賑わったらしい。
今の、円山町、道玄坂、あたりかな。
やがて、それが、渋谷の街へと、発展していったのだろう。
とすると、この、急な坂道、大坂が、渋谷の街のきっかけ、かもしれない。
本当に、そうかどうか、わからないけど。
(2009年12月記)

田園都市線池尻大橋駅(住友不動産青葉台タワー)

2010-09-28 06:09:41 | Weblog
246号線を、さらに、東へ。
池尻大橋駅や大橋ジャンクションがあるあたりは、目黒川の谷地になっているのだが、その谷地の斜面、すなわち、上り坂を、歩いていく。
ただ、246号線は、橋梁で、その谷地を、越えていて、それほど、急な、上り坂、というわけではない。
そのような坂を、上りきる手前、通りの、南側には、住友不動産青葉台タワー。(工事中は、こちら
最近、竣工した、高層住宅だ。
経営破綻した、日産生命の跡地だったのだが、こんな風に、なったわけか。
そういえば、日産生命があった頃、どんなだったか、おぼろげに、覚えている。
たしか、それほど、大きくはないけど、妙に、堅牢そうな、建物が、敷地の中央に、ぽつんと、あったはずだ。
山の手の、身持ちの固そうな、保険会社に見えたんだけど、いの一番に、破綻してしまったな。
堅牢だと思っていた、その礎は、たんに、日本が、上り調子だった、ということに他ならなかったのだろう。
だから、いったん、下り坂に転ずると、脆いものだ。
そんな、不安定な、右肩下がりの時代、堅固なのは、地上を睥睨したいという、欲望だけなのかもしれない。
そういうわけで、跡地には、高層住宅が、建つわけかな。
(2009年12月記)

田園都市線池尻大橋駅(首都高大橋ジャンクション)

2010-09-27 05:09:36 | Weblog
高田馬場駅から山手線。渋谷駅で田園都市線に乗り換える。
山手線は、高架のホームで、地下鉄の駅に行くのは、意外と、面倒だ。
かといって、他の、地上線、銀座線、井の頭線、東急東横線、なども、あまり、乗り換えが、便利な気がしない。
もっとも、どこのターミナルステーションも、同じかもしれないけど。
そういえば、副都心線、というのも、あったな。こちらは、渋谷駅から、乗ったことないので、わからない。
そんなこと、考えているうちに、ホームには、半蔵門線。渋谷駅からは、田園都市線になる。
渋谷駅の次の駅、池尻大橋駅で下車。ここまでなら、歩ける距離だけど、時間がないので。
さっそく、地上へ出る。すぐに、目の前には、交通量の多い、246号線。その上空には、首都高渋谷線の高架。
相変わらず、忙しない光景だな。
246号線を、東へ歩いていく。
目黒川を、越えると、246号線の南側には、巨大な、首都高大橋ジャンクション。
山手通りの地下を通る、高速中央環状線と、首都高渋谷線の高架を、接続するので、このような、大掛かりな、建造物となったわけかな。
仕方がないのだろうけど、何か、無理やりな感じもする。
辻褄を合わせるために、人工の建造物の規模が、巨大になっていくようなのだ。
渋谷駅も、同じことかもしれない。たしか、東急東横線は、わざわざ、地下化され、副都心線と、直通するらしいし。
こうした、ただの、辻褄合わせが、再開発として、持て囃されているわけかな。
(2009年12月記)

中央線東京駅(JPタワー工事現場)

2010-09-26 06:42:30 | Weblog
行幸通りを東へ。
東京駅西側の、駅前広場に、出る。
いつの間にか、この広場の周囲は、巨大高層ビルに、囲まれてしまったな。
駅前広場を、南へ。
広場の南側には、JPタワーの工事現場。
もとは、東京中央郵便局があったのだ。
着工には、紆余曲折が、あったらしいけど。
ところで、郵便局、というと、かつての、知り合いを思い出してしまう。
普通の会社員だったのだが、ある日、突然、郵便局の、局長に、なったのだ。
郵便局の局長といえば、なにか、国家公務員にでもならなければ、なれないんじゃないか、と思って、信じられなかったけど。
最初は、薬局の、医療事務でも、やるのかと、思っていたな。
でも、実際、本当に、郵便局の局長なのだ。いわゆる、世襲制、というわけ。
細かく、調べる気は、毛頭ないんだけど、たぶん、コンビニみたいなもの、なのかもしれない。
郵便局の、どこかどう、コンビニのフランチャイズ制に、符合するのか、ちょっと、わからないが。
現実には、そういう風に、なっている、ということだ。
去り際に、オレに、郵便局長、勤まるのかな と語った その口の端からは、いままで見たこともないような、嬉しそうな笑みが、こぼれていた、というのは、他所から聞いた話。
それぞれ、運命には、いろいろあるのものだな。
例えば、バブルの頃、東京駅の周辺に、こんな風に、林のごとく、巨大ビルが、建つとは思わなかったし。
逆に、郊外、自分の住んでいるあたりの商店街は、ほぼ、シャッター通りになってしまった。昔は、賑わっていたのに、どうしたことか。
残っているのは、スーパー一軒だけ。
時代による、浮き沈み、運命、いろいろ、あるのだ。
(2009年12月記)

中央線東京駅(東京駅近く 行幸通り)

2010-09-25 07:11:01 | Weblog
内堀通りを、南へ。
和田倉濠、和田倉噴水公園を過ぎると、東側、東京駅へと、伸びる、行幸通りがある。
この、行幸通り、自分が、いままで、見てきた中では、もっとも、幅が広い。
ひょっとしたら、道路幅が広くて、有名な、名古屋には、もっと、広い道路が、あるのかもしれないけど。
ただ、こちらは、距離が、あまり長くなく、しかも、道路幅いっぱいに、クルマが、通っているのを、一度も、見たことはない。
実際、道路中央の、大部分は、行事用、ということだ。その部分、東京駅から皇居まで、馬車が、通るらしい、
だから、事実上、道路というよりも、細長い広場、と考えた方がいいかも。その広場の、両脇に、普通の道路が、付け足されているのだ。
もっとも、信号は、普通なので、渡るのは、困難だけど。
ところで、行幸通り、という名前から、行事には、もちろん、行幸、が含まれる。
行幸、というのは、天皇が、外出されることなのだが。
とすると、江戸城が、皇居になったころから、行幸通りは、ありそうな気がするけど、実は、そうではない。
明治時代の終わり頃、東京駅や、丸の内のオフィス街の誕生と、セットで、開通している。
では、それ以前は、何が、あったのか、というと、軍隊が、展開していたのだ。
明治維新の頃の、国内の不安定な政情を、考えるれば、当然かもしれないが。
でも、ひょっとして、天皇を、江戸城跡に、留め置くために、軍隊が、配備されていたんじゃないか、と思ってしまう。
今となっては、もう、昔のこと。目の前の、光景からは、想像もできないけど。
(2009年12月記)

東西線大手町駅(パレスホテル建替計画工事現場)

2010-09-24 06:10:00 | Weblog
内堀通りを、さらに、南へ、歩いていく。
しばらくすると、東側に、パレスホテル建替計画の工事現場。
また、新しい、高層ビルが、誕生しようとしている。
大手町、丸の内の再開発は、とどまる所を知らず、という勢い。
ところで、パレス、というと、宮殿。
そういえば、江戸城跡だとばかり思っていたが、実は、宮殿でもあったのだ。
いちおう、宮城、という、便利な言葉があるので、江戸城跡でも、宮殿でも、どっちでも、いいんだろうけど。
たぶん、普段は、濠や、石垣などを、目にしているので、宮殿、という、感じが、しないのかもしれないな。
でも、そうだとしても、では、なぜ、京都から、天皇が、移られたとき、江戸城跡を利用するのではなく、皇居を、新しく、造営しなかったんだろう。
有り体に言えば、巡幸の途中、江戸城跡に立ち寄った際、留め置かれ、そのまま、なし崩し的に、そこが、皇居に、なってしまった、ということらしい。
もっとも、だからといって、本当の、首都が、どこだとか、そういうことを、突き詰めることに、意味があるとも、思えないけど。
ひょっとしたら、日本の歴史においては、正式な首都、平城京、平安京、特に、平安京の置かれた時代が、特殊だった、と考えた方が、いいのかもしれない。
それ以前、皇居は、頻繁に、移動していたわけだし、それ以降は、鎌倉や、江戸が、中心だったり、戦国時代なんて時期も、あったのだ。
そもそも、遷都の詔、というのも、事実上、平城京と平安京に対してだけらしいし。
ということは、つまり、日本の国体においては、首都、という考え、あまり、重要ではないのだ。
そのように考えてくると、天皇は、明治維新このかた、ずっと、巡幸の途次、なのかもしれないな。
日々旅にして、旅を栖とす、というわけだ。
こちらの方が、ずっと、日本的な気がする。
(2009年12月記)

東西線大手町駅(大手濠)

2010-09-23 05:47:32 | Weblog
内堀通りを、南へ南へと、歩いて行く。
西側には、大手濠。
江戸城大手門があるので、大手濠なのだろう。
たしか、大手門といえば、普通の建物の、正面玄関にあたる。
玄関が、海に面していたわけだろうか。
徳川家康が、江戸城を、改築しているとき、江戸城の東側は、日比谷入江、海だったので、実際、たしかに、そうだったはずだが。
もっとも、改築が、完成すると、日比谷入江は、わざわざ、埋め立てられている。
大手門を設置する予定だったので、埋めたのか、最初から、埋め立てる予定だったので、大手門を設置したのか。よくわからないが。
たぶん、大手門というのは、城郭の中心部と、直結する門、なわけであり、とすると、江戸城の、本丸、二の丸、三の丸、の位置から考えるれば、前者、つまり、後から、仕方なく、わざわざ、埋めた、と考えた方が、いいような気もする。
では、なぜ、そのような位置に、城郭の中心部分、本丸、二の丸、三の丸を、配置したのだろう。
おそらく、もともとの江戸城、つまり、江戸氏、太田道灌の、江戸城が、そこに、あったから、そうせざるを得なかったのに違いない。
ということは、江戸氏、太田道灌の江戸城は、海に、面していたわけだ。
ひょっとしたら、このように、海に面していたとすると、最初の、江戸城、城塞、というよりも、戦国時代の堺の港、あるいは、同じく、戦国時代の、石山本願寺、みたいな、城郭都市だったんじゃないかな。
城郭都市、というほど、本格的ではなくとも、交易施設を、濠、城壁で、囲んだ、そんな場所だったのでは、と想像してしまう。
意外と、広々とした、濠の水面を、目の当たりにすると、かつての、日比谷入江のあったころを、想起させ、そんな空想が、浮かんでしまっただけかもしれしないが。
(2009年12月記)

東西線竹橋駅(和気清麻呂像)

2010-09-22 06:09:35 | Weblog
高田馬場駅から東西線。竹橋駅で下車。
地上に出ると、目の前、大手町のオフィス街が、広がる。
ただ、もう、年末の休みなので、さすがに、閑散としているけど。
そんな、雰囲気の中、濠に沿った内堀通りに入り、南東へ。
思うに、一年のうちで、今が、一番、のんびりして、ほっとする時期だな。
正月明けからは、慌しくなってしまうので、ゆっくりはできないし。
しばらくすると、通りの南側に、和気清麻呂像。
忠臣の鑑として、銅像が、設置されているのだろう。
和気清麻呂が、どうして、忠臣なのかというと、以下の通り。
その昔、奈良時代末、道鏡という怪僧がいて、女帝に、巧みに取り入り、誑かし、帝位を簒奪しようとしたが、和気清麻呂が、身をもって、阻止した、云々。
もちろん、史実というよりも、伝説、説話の類なんだろうが。
でも、お伽噺だとしても、ほいほいと、誑かされてしまう、女帝というのは、大昔の、卑弥呼を、思い起こさせ、その素朴さ、おおらかさに、むしろ、微笑ましいものを、感じてしまう。
逆に、そのことを、執拗に、追求し続けた、和気清麻呂、清廉潔白なんだろうけど、それ以前に、堅苦しい感じがするな。
そんな風に、この女帝に肩入れするのも、たぶん、正月を前にして、寛いだ雰囲気が、そうさせるのかもしれない。
しばしの間、世の中は、休息のとき。
こちらも、何の気兼ねもなしに、歩き回れる感じだ。
(2009年12月記)

京浜東北線赤羽駅(赤羽駅東口駅前広場)

2010-09-21 06:08:31 | Weblog
八幡神社境内、西側には、長い長い、急な下り坂。
こちらは、石段がない。
たぶん、クルマ用なのだろう。
地上に降り立ち、南へ歩く。しばらくして、再び、高架下を潜り、赤羽駅東口へ。
赤羽駅の東側は、下町商店街、といった風で、とても、賑やかだ。
この賑やかさ、かつては、ずっと東側、今回、訪れた、志茂周辺から、続いていたと思う。
ただ、今日、見たところでは、志茂あたり、どうしたことか、ずいぶん、閑散としていたな。
商店街とは、名ばかり、お店もまばらで、ほとんど、住宅地と区別が、つかなくなっている場所も、実は、あったのだ。
ちょっと前の、地図を見ると、志茂には、縦横に、商店街が伸び、それらの商店街が、本当に、賑やかさそうだったのだけど。
たぶん、あちこちの、下町と同じ、高度成長期が終わった頃には、忘れ去られた地域になったのに違いない。
そういった地域は、今になって、再開発されている。
赤羽、特に、赤羽駅の東側から、志茂にかけても、その例に洩れず、同じように、再開発されていくのだろうか。
将来のことは、わからないけど。
でも、そうなれば、東口は、今の、西口のようになるに違いない。
さぞ、整備された、きれいな街並みになることだろうな。
もっとも、そんな街、行きたいとは、思わないけど。
もう、そろそろ、帰ろう。
しっかり、目の前の、賑やかな街並みを、目に焼き付けてから。
(2009年12月記)