retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央線荻窪駅(天沼もえぎ公園)

2012-12-31 07:18:05 | Weblog
西へ、歩いていくと、ほどなくして、南側に、天沼もえぎ公園。
どうやら、この公園、用水と、桃園川の、合流地点、だったらしい。
北側に、まっすぐ、伸びる、川筋の跡らしき、細い、路地が、あるからだ。
もっとも、これでは、桃園川に、用水が、合流しているのではなく、逆で、用水に、桃園川が、合流しているように、見える。
しかも、この、まっすぐな、川筋を、見ると、天然の川、というより、こちらこそが、用水、というふうに、思えてしまうが。
実際、明治時代初め頃の、地図を、見ると、合流地点は、もっと、東側に、あったようだ。
その、合流地点、というのは、おそらく、さきほど、訪れた、八幡神社の、南側。
南東へ、流れてきた、桃園川が、用水と、合流していたように、見える。
いや、逆。
南東へ、流れていた、桃園川へ、用水が、合流していたのだ。
さらに言えば、八幡神社が、創建された当時、天沼は、その近くまで、広がっていたとすると、合流地点あたりで、桃園川が、流れ出していた、ということかもしれない。
それでは、いよいよ、北へ向かい、桃園川の、源流を、目指すことにする。
(2012年4月記)

中央線荻窪駅(天沼三丁目 桃園川跡)

2012-12-30 07:19:46 | Weblog
桃園川跡地に、戻ると、そこからは、緑道が、また、道路になっている。
くねくねと、曲がった、道筋が、まさに、川の跡、という感じ。
西へと、歩いていく。
ただ、その道を、辿って、延々と、歩いていくと、徐々に、南へと、曲がり、南側、東西に、伸びる、青梅街道に、出てしまうのだが。
さらに、その先、荻窪駅の、商店街、道は、続き、しばらくして、消える。
桃園川の、水源は、天沼。
その、天沼は、北に、あるはずなのに、どうしたことなのだろう。
実は、桃園川は、水流が、少ない、ということで、用水を、引いてきて、合流させていたらしい。
とすると、南側からの、流れは、用水跡、ということになる。
もっとも、そうなると、では、いったい、どこまでが、用水路で、どこからが、桃園川なのか、あるいは、どこで、合流していたのか。
実際、歩いてみたのだが、そのような、痕跡は、まったく、見当たらず。
このまま、歩いても、仕方がないので、ちょっと、迷ってしまった。
(2012年4月記)

中央線荻窪駅(天沼二丁目 八幡神社)

2012-12-29 07:22:50 | Weblog
西へ、歩いていくと、北に、伸びる道。
北に曲がると、すぐに、八幡神社。
江戸時代になる、直前に、創建されたらしい。
ところで、当時、八幡神社は、沼地の、畔に、建っていた、ということだ。
その、沼こそ、地名の、天沼、なのだろう。
おそらく、天沼の、東側一帯を、開拓したとき、八幡神社が、創建された、ということかな。
実際、明治時代初め頃の、地図を、見ると、桃園川に、沿って、水田地帯が、東へと、広がっている。
明治時代初めなので、少なくとも、江戸時代からの、水田に違いない。
ただ、その頃までには、天沼も、開拓されて、すでに、なくなっていたようだ。
などと、考えながら、八幡神社近くの細い道を、見ると、昔、あった、天沼の、縁を、あたかも、象ったように、見える。
気のせいかもしれないけど。
南に、向かい、桃園川跡へ。
(2012年4月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(天沼二丁目 藤乃湯)

2012-12-28 06:10:59 | Weblog
このあたりの住宅地、都心とは、思えないほど、長閑な感じ。
といっても、もう、都心とは、言えないかな。
かといって、郊外でもないし。
昭和の、取り残された、雰囲気がする。
そんな、寂れた商家が、点在する、通りを、歩いていく。
しばらくすると、途中から、緑道、になる、桃園川跡の、道路。
緑道を、西へ西へと、歩いていくと、ほどなくして、北側に、銭湯の煙突が、見えてきた。
細い、緑道を歩くのも、飽きてきたので、銭湯のある、通りへ、行ってみる。
こちらも、変哲ない、住宅地の通りだけど。
そういえば、さっきの、桃園川跡地の緑道、ほとんど、平らな、地形だったな。
明治時代初め頃の、地図を見ても、実は、北側に、もう一つ、川筋が、あったりする。
ひょっとすると、今、歩いている、住宅地の中の、道路が、それなのかも。
大昔は、幾つもの、小川が、交錯していて、湿地帯を、形成したいたのかな。
住宅地の中、さらに、西へ西へと、歩いていく。
(2012年4月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(天沼二丁目 熊野神社)

2012-12-27 05:10:34 | Weblog
桃園川川筋跡の、道路を、歩き、しばらくして、北へ、曲がる。
そのまま、住宅地の中、北へ、歩いていくと、熊野神社。
創建は、意外と、古くて、おそらく、鎌倉時代の次、室町時代の、初め頃か。
ちょうど、同じ時期、新宿駅の西、新宿中央公園の西側にある、熊野神社も、創建されている。
熊野から、武士団が、今の、中野あたりに、室町時代初期、進出してきたのだが、そのとき、連れてきたらしい。
その後、中野長者と、呼ばれるほどに、盛んになったようだ。
ひょっとしたら、そこから、分派した、勢力がいて、桃園川を、遡り、このあたりに、根を、下ろしたのかもしれない。
ただ、では、どういう、生業で、この地に、根を下ろしたのか、というと、不明だ。
一帯は、桃園川流域の湿地帯、畑作は、難しいだろう。
とすると、馬の放牧、かもしれない。
街中を南へ。
再び、桃園川跡の道路へ、戻る。
(2012年4月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(天沼一丁目 桃園川跡)

2012-12-26 06:10:11 | Weblog
緑道のようになっていた、桃園川跡、しばらくすると、住宅地の中にあるような、道路になる。
まだ、歩道が、不自然に、広かったりするので、流路跡を、辿れるのだが。
これが、完全に、道路だけになってしまうと、辿るのは、難しい。
自然の、川の流れの如く、道路が、曲がりくねっているとか、窪んでいるとか、そんなことでしか、わからなるのだ。
あとは、かつての、橋の欄干が、どこかに、残っている、あるいは、橋の名前が、交差点の、名前になっている、そんなところだろうか。
ただ、桃園川の場合、阿佐ヶ谷という地名が、浅い谷、からきているように、大地に、渓谷を、穿つような、流れではなかったはず。
むしろ、湿地帯を、伴った、緩やかな、流れだったのかもしれない。
だから、川筋跡、と思われる、道路に、平行するような、道路が、通っているが、そちらも、川筋だった可能性もある。
ひょとすると、幾本もの、細流が、交錯しながら、流れ、細長い、湿地帯、沼地を、形成していたのかも。
そういえば、地名も、天沼。
西へと、歩き続ける。
(2012年4月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐ヶ谷北三丁目 慈恩寺)

2012-12-25 04:56:07 | Weblog
桃園川の流路跡に戻り、再び、西へ、歩く。
さっき、通った、松山通りについてだが、大昔、鎌倉街道だったころ、それなりに、幹線道路として、賑わっていたのかもしれない。
時代を経て、いつしか、忘れ去られ、おそらく、江戸時代は、畑の中の、長閑な、道になっていたのだろう。
松山通りとなったのは、その頃かな。
さらに、時代が、下り、阿佐ヶ谷駅が出来ると、今度は、通りに、商店が、連なるようになる。
そして、まっすぐ、伸びる、中杉通りが、開通すると、そちらが、幹線道路になり、松山通りの方は、いよいよ、商店街へと、変わっていった、ということだろうか。
などと、考えながら、桃園川の跡地を、辿って、歩いていくと、しばらくして、北側に、慈恩寺。
創建は、わからないけど、鎌倉街道からは、離れているので、それほど、古くはない、と思える。
おそらく、江戸時代、だろうか。
当時は、すぐ近くを、桃園川が、流れていて、風光明媚だったに違いない。
また、桃園川跡に、戻り、西へ。
(2012年4月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐ヶ谷北二丁目 法仙庵)

2012-12-24 08:07:31 | Weblog
前回、桃園川跡を、高杉通りまで、辿ってきたわけだが。
ただ、そのときは、高杉通りに、至る前、流路跡を、見失ってしまったんだっけ。
高杉通りに出て、遠目に、見てみると、窪みがあるので、桃園川の跡は、すぐ、わかるけど、住宅街の中では、ちょっと、わからないな。
一瞬、高杉通りから、見失った、流路跡、もう一度、辿りなおそうかと、思ったが、時間がないので、やめた。
先へ、進むことにする。
桃園川跡を、西へ。
すぐに、南北に伸びる、細い通り。
商店が、並んでいて、松山通り商店街、となっている。
実は、こちらも、パールセンターと、同じ、かつての、鎌倉街道。
商店が、並んでいなかった頃は、松山通り、だったのだろう。
松山通り商店街に入って、南へ。
しばらくして、通りの、西側に、法仙庵。
創建は、江戸時代。
当時は、あたりに、松山通りしかなく、静かだったのかな。
北へ。来た道を、引き返す。
(2012年4月記)

中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐ヶ谷北一丁目 桃園川跡)

2012-12-23 08:45:09 | Weblog
青梅街道を、東へ、歩いていくと、丸ノ内線西新宿駅。
西新宿駅で、丸ノ内線に、乗り込む。
南阿佐ヶ谷駅で、下車。
地上に出ると、また、青梅街道。
丸ノ内線で、青梅街道の、地下を、進んできたわけだが。
北側、杉並区役所の東を、北へ。街中に、入っていく。
細い道を、進んで行くと、やがて、賑やかになり、商店街、パールセンター。
アーケードになっている、昔ながらの、商店街だ。
おそらく、一昔前は、もっと、賑やかだったに違いないのだろうけど。
そういえば、たしか、この、商店街、はるか、昔は、鎌倉街道だったらしい。
中央線沿線にあって、阿佐ヶ谷は、ちょっと、山の手のような、雰囲気がするのは、かくのごとく、歴史があるからだろうか。
そんなことを、考えながら、歩いているうちに、阿佐ヶ谷駅前に出る。
高架下を、潜り、駅北口へ。
今度は、北へ伸びる、高杉通りを、北へ、進む。
しばらくして、桃園川の、流路跡。
前回、来たときは、ここまで、だったな。
(2012年4月記)

丸の内線西新宿駅(パークハウス新宿タワー)

2012-12-22 04:40:44 | Weblog
北へ。いったん、拡幅され、きれいになった、税務署通りに、出てみる。
都心にあるような道路ではなく、まるで、郊外ニュータウンの、道路だ。
いや、逆に考えれば、バブルの頃までは、再開発は、地方、郊外、のニュータウンが、中心で、今は、都心が、再開発の舞台、ということなのかもしれない。
そんな、きれいに、整備された、税務署通りを、西へ。
しばらくして、南へ、曲がり、巨大な、高層オフィスビルの、間を抜け、そのまま、南へと、歩く。
再び、青梅街道に出て、西へ。
ほどなくして、北側には、パークハウス新宿タワー。
最近、完成した、巨大な、高層オフィスビルに、付属する、高層住宅。
かつて、地方、郊外に、広がっていった、ニュータウンが、最近は、こうして、高層住宅に、集中している、というところか。
鉄道の駅も近いし、都心は、すぐだし、繁華街、新宿も、近い。
それどころか、勤め先が、西新宿高層ビル街だったら、鉄道の駅すら、いらなくなる。
究極の、都心集中だ。
もっとも、そこまで、集中して、そして、いらなくなって、排除された、まわりの、広範な部分は、どうなるのやら。
そこまでは、考えていないのかな。
踵を返して、青梅街道を、東へ向かう。
(2012年4月記)