retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

丸ノ内線新宿御苑前駅(新宿御苑 広大な広場)

2010-04-30 06:10:09 | Weblog
西洋庭園を、西へ西へと、歩いていくと、やがて、広大な広場に出る。
ただ、広大だとはいえ、その向こうには、もう、新宿の高層ビルが、見えていたりするので、無限に広がっている、というわけでもない。
むしろ、箱庭、といってもいいぐらいだ。
だが、その箱庭を、広大に見せているのが、他でもない、庭園の造園技術、というわけではないだろうか。
もっとも、庭園やら、ガーデニングやら、興味がある以前に、所有しているわけでもないので、造園技術とやらについては、もう、これ以上、考えようもないけど。
そのような新宿御苑、江戸時代は、高遠藩内藤氏の中屋敷だったわけだが、当時も、屋敷内の庭園は、美しいことで、有名だったらしい。
江戸時代から明治時代へ、時代が代わると、その、広い中屋敷は、いったんは、農業試験場、のような施設になっている。
ただ、せっかくの、農業試験場、やっぱり、いつの間にか、庭園になってしまった。
西洋庭園などは、その頃に、できている。
また、たぶん、南側の東西に並ぶ、いくつかの、池も、そのとき、作られたのだろう。
しかし、ようやく、完成したのだが、一般に、公開されたわけではない。
今のように、誰でも、入場できるようになったのは、終戦後のことだ。
ということは、新宿御苑は、もともと、市民のための公園、ではないのかも。
むしろ、明治時代のテーマパーク、といった方が、正確なのだろう。
そもそも、あんな、豪壮な、西洋庭園を見て、萎縮はするかもしれないが、とても、癒される、なんて、あり得ないな。
そんなわけで、園内もある程度見たし、ついでに、いちおう、南側の池にも、寄ってみることにする。ひょっとしたら、渋谷川の源泉かもしれない、とも思ったのだ。
行ってみると、なぜか、どの池も、水面が、異様に、赤茶けていて、妙だった。
なにか、新宿御苑全体、どこかに、無理があるのだろうか。
歩き回っていると、癒されえるどころか、なんとなく、疲れるし、そうなのかもしれない。わからないけど。
もっとも、そうだとすれば、渋谷から、渋谷川を辿って、行き着いた場所としては、相応しいのかもしれないな。
とにかく、早く帰ることにする。
(2009年9月記)

丸ノ内線新宿御苑前駅(新宿御苑 西洋庭園)

2010-04-29 07:30:18 | Weblog
玉藻池の縁に沿って、東へと歩いていくと、明らかに、流出口はあるようだ。
そして、そこから、東へと、溝が、伸びている。
ただ、その溝に、水が、実際、流れているのかどうか。
流れているようには、見えなかったけど。
ひょっとしたら、もう、現在、玉藻池は、渋谷川の源泉としての、役割は、ないのかもしれない。
つまり、どこからか、水が、引かれていたり、あるいは、本当に、下水だったり。
これ以上は、わからないな。
でも、この溝を辿っていくと、さっき、歩いてきたとき見た、新宿御苑と住宅地の間にあった、溝に、通じているのは、確かなようだ。
だから、たぶん、昔は、玉藻池から、この溝を伝って、水が流れ出ていた、と思う。
ということで、渋谷川を遡る道行は、終着点に辿り着いたわけだ。
だから、帰ってもいいのだけど、時間もあるので、しばらく、園内を歩いてみることにする。
さらに、東へと歩くと、大きな門。
さっき、この門の、外側を歩いたんだっけな。
門から、振り返って、西側の方を見ると、絨緞のように広がる、緑の芝地と、両側に大きな並木が果てまで続く。
いちおう、回廊になっているのだが、まるで、尺が、非現実的に、巨大なので、壮大さ、迫力を、感じてしまう。見る者に、自身の小ささを、実感させるから、そう感じてしまうのだろう。
これが、西洋庭園、というものらしい。
この場所に立っていると、本当に、都心の中にいるとは、思えないな。
(2009年9月記)

丸ノ内線新宿御苑前駅(新宿御苑 玉藻池)

2010-04-28 06:10:16 | Weblog
入場料を払い、門を抜け、いよいよ、新宿御苑の中へ。
意外と、広々とした、園内の道を、南へ南へと、歩いていく。
程なくして、緑なす木立の群落と、その向こうに、大きな池。
玉藻池だ。この池が、渋谷川の、源泉と言われている。
ただ、新宿御苑自体は、江戸時代、高遠藩内藤氏の中屋敷で、玉藻池は、その屋敷内の庭園の池だったようだ。
庭園の池を造成する前は、果たして、どうなっていたのか、もう、今となっては、まったく、わからない。
たぶん、完全な人工の池ではなく、もともと、源泉があり、それを、拡張し、形よく成形して、玉藻池が、できあがったと思う。
明治時代の地図を見ると、渋谷川から、玉藻池にかけて、凹地になっていることが、わかるからだ。(もっとも、それは、今の地図でも、同じだと思うけど)
だから、やはり、渋谷川の源泉は、玉藻池に違いない。
おそらく、太古の昔から、この場所には、源泉があり、そこから、流れ出た、水流が、渋谷川だったのだろう。
話は変わるが、明治時代の地図によると、まだ、南側の、東西に並ぶ、上の池、中の池、下の池、は見当たらない。
それらの池は、後になって、新宿御苑とともに、作られたのかもしれない。
こちらも、想像だが、それらの池を結ぶ、線上に、おそらく、小川が流れていて、上流から、順に、堰きとめていったので、並ぶように配置された、池が、できあがったのだろう。
ちょっと、玉藻池の縁まで、行ってみる。
池の周りには、鬱蒼と、樹木が、生い茂り、水面を覆うような感じ。
水面は、池の名前のごとく、藻が満ちていて、どんよりとしてる。
こんこんと、清水が、湧き上がるという風ではない。
無理に、泉を、大きくしたから、水が淀んでしまったのかな。
玉藻池の東側まで行ってみる。
果たして、渋谷川が流れ出しているのだろうか。
(2009年9月記)

丸ノ内線新宿御苑前駅(新宿御苑入口)

2010-04-27 05:03:27 | Weblog
住宅地の中を、北へと、歩いていく。
しばらくすると、東西に伸びる、幅広な、交通量の多い、甲州街道。
すぐ東側には、南北に伸びる、外苑西通りとの交差点があり、西側には、甲州街道の新宿御苑トンネルが、口を開けている。
そのトンネルから、溢れ出すように、クルマが、ひっきりなしに現れ、目の前を通り過ぎて行く。そして、広い交差点では、多くのクルマが、渦巻くように、思い思いの方向に、向かっていく。そんな光景を見て、一瞬、戸惑ってしまった。
新宿御苑近くの、静かな、住宅街から、いきなり、喧騒の真っ只中に、放り出されたような気がしたからだ。
そういえば、江戸時代、このあたりには、四谷大木戸という関所があり、その西側一帯は、宿場町、内藤新宿があって、たいへんな賑わいだったそうだ。
今も昔も、この喧騒ぶり、変わらないのかも。
さらに言うと、同じ場所には、当時、四谷水番所があり、ここまで、流れてきた、玉川上水が、向きを、南側へ変え、そのまま、南へと流れ下り、渋谷川に、合流していたらしい。
余った水を、排水していたのだろうけど。
多摩川から、はるばる、やって来た水が、渋谷川に流れ込んでいる、というのは、不思議な感じだな。
こう見ていると、なかなか、活発な場所ではあるようだ。
そんな中、いったん、西側に歩き、南へ向かうと、新宿御苑の入口。
再び、静寂の空間へと、戻って行く。
(2009年9月記)

丸ノ内線新宿御苑前駅(新宿御苑東側 多武峯神社)

2010-04-26 04:58:19 | Weblog
国立競技場の西側を、北へと、歩いていく。
陸橋、首都高の高架、中央線と、次々と、潜っていき、中央線の北側へ。
さすがに、こうして、橋の下を、何度も、通ると、やはり、谷地なのだと、実感してしまうな。
さらに、北へと、進むと、道は、上りとなっていく。
上り、といっても、これまでのように、渋谷川の、土手を、上っているわけではない。
渋谷川そのものが、この坂を、流れ下っているようなのだ。
そのことは、渋谷川の、源泉が、近いことを、示しているようにも思える。
つまり、渋谷川は、もう、谷地を穿つほどの、大きな流れではない、ということだ。
坂を上っていくと、西側には、広大な、新宿御苑。
大きな、鉄の扉があるが、閉まっているみたい。入口は、別の場所だろう。
新宿御苑を過ぎると、新宿御苑と住宅街の境目あたりに、溝のような地形が、西に伸びている。
水の流れは、ないように見えるが、おそらく、この溝が、渋谷川に違いない。
だが、溝を、辿っていくには、新宿御苑に入らなければ、ならないのだけど。
さっき通り過ぎた、鉄の扉は、閉まっているし。どうやら、北側の、甲州街道あたりまで、行かなければ、ならないようだ。
ということで、住宅地の中、また、北へ向かう。
しばらくすると、途中に、多武峯神社。
新宿御苑のある場所は、江戸時代、高遠藩内藤氏中屋敷だったのだが、その屋敷内にあった神社だ。
もっとも、最初から、この場所にあったのかどうか、ちょっと、わからない。
ただ、地形的に見ると、台地なので、いかにも、神社が、ありそうな場所ではある。
静かな境内で、ちょっと、一休みし、また、北へ。
新宿御苑入口は、まだ、遠い。先を急ごう。
(2009年9月記)

総武線千駄ヶ谷駅(神宮 国立競技場)

2010-04-25 08:23:24 | Weblog
渋谷川跡の歩道を、北へ歩いていくと、都立明治公園霞ヶ丘広場の、東西に伸びる通りを挟んで、北側には、国立競技場がある。
一見すると、都立明治公園と同じに見えるが、厳密にいうと、国立競技場は、明治公園ではなくて、明治神宮外苑の施設だ。
都立明治公園は、国立競技場と外苑西通りに挟まれた、細長い部分になる。
東京オリンピック前の写真を見ると、たしかに、国立競技場と外苑西通りの間には、まだ、住宅地があるようだ。
その住宅地の中を、はたして、渋谷川が、まだ、流れていたのか、写真には、そこまで、写っていないので、わからないが、たぶん、流れていたのだろう。
というわけで、国立競技場は、明治神宮外苑内の施設なのである。
だが、それで、もちろん、いいのだけど、別の見方もできるように思える。
明治神宮外苑は、明治神宮とセットで、造営されたわけで、そのとき、完成したのが、明治神宮外苑競技場なのだ。
ところが、その競技場は、終戦後、しばらくして、取り壊されている。
老朽化したというわけではなく、東京オリンピックを招致するために、戦前の、巨大な競技施設を、撤去してみせたのだ。
そして、その跡地に、まったく、新しい、競技場、国立競技場を建てる。
つまり、戦前とは、もはや、違うのだ、ということを、アピールしたわけだ。
そのことが、功を奏したのかどうか、わからないが、程なくして、東京オリンピック開催のはこびとなった。
ということは、東京オリンピックのために、造られたような、都立明治公園と、国立競技場は、無関係ではないように思える。
それどころか、明治神宮外苑よりも、都立明治公園と、セットだった、と考えてもいいくらいだ。
もっとも、そのおかげで、おそらく、国立競技場の西側を流れていたであろう、渋谷川は、地表から、姿を消してしまったのだけど。
(2009年9月記)

総武線千駄ヶ谷駅(都立明治公園の渋谷川跡)

2010-04-24 06:29:09 | Weblog
たぶん、本当は、この通りには、ビクター青山スタジオに因んだ、名前を付けたかったのだろう。だが、何かの事情で、できなかったのかもしれない。
かといって、この場所を、特定するようなものは、他にはないし。
ということで、「ビクター青山スタジオ」から、かなり、遠回りな連想を施し、その結果、辿り着いた名前が、「キラー通り」、なんじゃないかな。
実際、どうなのか、わからないが。
そんなキラー通りを北へと、歩いていく。
やがて、東西に伸びる通りとの、交差点。
この交差点の南西側に、当のビクター青山スタジオがある。
交差点の北東側には、広大な、都立明治公園霞ヶ丘広場の敷地。
公園の敷地になっているためか、ここから、渋谷川の流路が、はっきりと、わかるようになっている。
まるで、川の流れを、模したような、歩道が、キラー通り(厳密には、交差点から北は、外苑西通り)と霞ヶ丘広場の間に、伸びているのだ。
この歩道の地下には、本当の、渋谷川が、流れていることになっているのだけど。
実際、歩いてみると、道は、曲がりくねり、所々に、石などが、配置されてあり、やはり、渋谷川をイメージした、造りになっているように思える。
そんなことなら、いっそのこと、蓋を取り除いて、渋谷川の流れを、再現すればいいのに。もう、無理かもしれないけど。
ところで、明治公園という名前なのだが、できたのは、高度成長期のオリンピック直前。時期的に、明治時代とは、何の関係もない。
たぶん、東側一帯に、明治神宮外苑が広がっているので、そこから、明治公園、としたのだろう。
あるいは、明治神宮外苑を、西側に、拡大させたから、とも考えられる。
(2009年9月記)

半蔵門線表参道駅(神宮前 キラー通り)

2010-04-23 05:03:53 | Weblog
渋谷川の跡地を探すのは、早々に、諦めて、住宅地の中を、北東方向へ。
すぐに、南北に伸びる、外苑西通りに出る。
さっき、住宅街の中、見失った、渋谷川の流路は、このあたりから、外苑西通り、東側に沿うようにして、続いているのだ。
再び、渋谷川の流路を辿ることができる。
ところで、外苑西通りの、今、歩いているあたりは、別名、キラー通り、とも呼ばれているらしい。
ずいぶんと、面白い、名前なのだが、なにか、謂れはあるのだろうか。
公式的には、さる、著名な、ファッションデザイナーが、高度成長期の終わり頃、近くに、寺院がある、ということで、名付けたらしい。
でも、寺院は、いたるところにあるわけだし、それなら、もっと、キラー何とか、といった名前が、あってもいいはずだが、そんなものは、ないはずだ。
他にも、外苑西通りは、クルマがスピードを出して、危ないので、とか、沿道に、出店すると、すぐ店が潰れるので、とか、あるが、両方とも、この場所を、特定するような、理由とは、とても、考えられない。
それに、そもそも、「キラー」という単語、「すばらしい」、あるいは、「すごい」、という意味合いで使うわけで、物騒なイメージは、あまりないと思う。
ここからは、勝手な想像だが、以下のような、筋書きは、どうだろう。
このキラー通り沿いで、最も、有名なもの、と言えば、どう考えても、ビクター青山スタジオ、に違いない。
通りの名前が、「青山スタジオ通り」でも、いいぐらいだ。
そのビクター青山スタジオなのだが、「キラー通り」という名前が付けられる、ほんの少し前に、オープンしているのである。
さらに、もう一つ、世間では、その少し前、「ピンキーとキラーズ」が、大流行していたわけだが、その中心メンバーのピンキー、今陽子は、デビューが、ビクターレコード、となっている。
ちなみに、デビューしたが、売れず、すぐに、別のレコード会社に移籍し、「ピンキーとキラーズ」を結成、大ヒットしたらしいのだ。
これらを整理すると、キラー通りの命名は、「ビクター青山スタジオの設立」→「ビクターから今陽子がデビュー」→「ピンキーとキラーズの大流行」→「ピンキーとキラーズからキラー通り」(時系列ではなく、連想の順番)、という風になる。
本当に、こういう、やり取りが、あったのかどうかは、今ととなっては、もう、わからないけど。
ただ、寺院からキラー、あるいは、キラーから寺院、という発想は、とても、不自然なのは、確かだろうと思う。
(2009年9月記)

半蔵門線表参道駅(旧渋谷川遊歩道)

2010-04-22 06:09:36 | Weblog
南東に伸びる、表参道を、歩道橋で、越える。
歩道橋の上から、表参道を見下ろすと、巨大なケヤキの並木が、実に、美しい。
階段を降りて、表参道の北側に降り立つ。
渋谷川の跡地は、まだ、北へと伸びているのだ。
ただ、ここから先は、もう、キャットストリートとは、呼ばないようだけど。
それでも、おしゃれな店は、まだまだ、続いているみたい。
将来的には、それらしい、名前の通りになるかもしれないな。
そんな渋谷川跡地の遊歩道を、北へと、さらに、歩いていく。
キャットストリートと違うのは、どんどん、お店が、なくなっていき、最後には、普通の、住宅地の中の、遊歩道になる点だ。
キャットストリートの場合は、渋谷に通じているからだろう。
つまり、表参道から、溢れ出した、流行の最先端は、南へは、渋谷へと、流れ着くのだが、北への流れは、そのまま、消滅しているのだ。
そんな風に、ただの遊歩道になってしまったのだが、さらに、歩き続ける。
すると、今度は、もう、住宅地の中の、入り組んだ路地になり、結局、最後には、どこが、渋谷川跡地か、わからなくなってしまった。
跡地といっても、まだ、地下を、渋谷川は、流れているので、例えば、その上の道路には、マンホールが、多く、設置されているらしいのが、やっぱり、わからない。
いちおう、マンホールが、ずらりと、並んでいる、細い道路を、探したのだが、どうにも、見つからないのだ。
もうちょっと、下調べをしておけば、よかったけど。
一瞬、迷路のような、路地の中、途方に暮れてしまった。
もっとも、川の流路を辿るよりも、街並みを辿ることの方が、本意なので、こんな風に、砂地に水が染み込むように、消えている様を、確認できれば、いいのだが。
(2009年9月記)

半蔵門線表参道駅(神宮前 表参道)

2010-04-21 06:09:25 | Weblog
キャットストリートに戻り、再び、北へと歩いていく。
通りは、徐々に、賑やかさを、増していき、やがて、表参道へ。
相変わらず、とても、繁華な通りだ。
ただ、それだけではなく、流行の最先端の街でもある。
キャットストリートの源泉は、この、表参道のように見えるな。
このような表参道なのだが、いったい、いつから、今のような街になったのだろう。
表参道という名前は、明治神宮の参道を指すのだが、とすると、すくなくとも、明治神宮がなかった、明治時代以前には、一帯には、何もなかったはずだ。
そして、明治神宮が、造営されて後も、しばらくは、参道だけだったに違いない。
ただ、昭和に入った頃から、郊外化が始まり、表参道の周囲も、徐々に、静かな、住宅街に、なってきてはいただろう。
さらに、戦後になると、近くに、一時的に、アメリカ軍の集合住宅、ワシントンハイツが作られる。
そのことにより、インターナショナルな雰囲気が、街並みに加わっていく。この点は、六本木と似ているな。
そのようなインターナショナルな表参道に、原宿族が出現、というのも、六本木の六本木族と同じだ。
いずれにしろ、当時、表参道、六本木は、庶民とは、隔絶した、区域だったのだろう。
たぶん、庶民の街は、もっぱら、新宿だったように思う。
そんな表参道が、大衆化され、賑やかになっていくのは、高度成長期から、安定期にかけて。
豊かさが、遍く、偏在し、庶民にも、享受されるようになってからだ。
やがて、その賑やかさは、表参道から、溢れ出し、渋谷川の跡地、遊歩道に、流れ出し始める。
その結果、キャットストリートが、誕生したのだ。
(2009年9月記)