retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

中央線御茶ノ水駅(神田明神鳥居)

2009-08-31 04:47:01 | Weblog
湯島聖堂と東京医科歯科大学の間の通りを北へ。
東西に伸びる本郷通りに出る。
本郷通りに入り、東へ歩く。
しばらくすると、北側に、神田明神の鳥居。
神田明神、といえば、江戸の街の総鎮守だ。
そして、さらに言えば、平将門を祀ってある、ということでも、有名だな。
江戸時代、実質的には、江戸の街が、日本の中心だったので、関東に独立国を建てた、平将門が、とても人気があったのは、当然だろう。
だが、江戸時代が終わり、明治時代になると、今度は、逆に、平将門は、祭神から外されてしまう。
独立国を作った、ということは、反乱なわけだから、これも、当然かもしれない。
今から見ると、意外なのだが、実際は、そうだったのだ。
ところで、自分が、平将門、ということで、覚えているのは、なんといっても、NHKの大河ドラマ、「風と雲と虹と」だ。
ただ、あの当時、平将門を、NHKの大河ドラマで取り上げることについて、ちょっと、神経質な空気があったことも、記憶している。
たぶん、高度成長期が終わって、世の中が落ち着いてきたので、放送へ漕ぎ付けた、ということなのかもしれない。
そういうこともあるかどうか、わからないけど、「風と雲と虹と」には、とにかく、自由な、開放的な、雰囲気が溢れていた。それで、よく、覚えているのだ。
たしか、こんなシーンがあったな。
平将門が、ある方向を指して、軍を進発させる。軍は、もちろん、その方向、目指して、進軍するのだが、なぜか、大回りして、急いで、元の位置に戻ってくる。
平将門は、今度は別の方を指す。すると、やはり、軍は、そちらの方へ。だが、また、大回りして、元の位置に戻る。
それを、何度も、繰り返しているのだ。
この様子を、こっそり見ていた、朝廷軍は、あたかも、平将門が、四方八方に、軍を出陣させている、と勘違いして、恐れ入ってしまう。
少ない手勢を、大軍に、見せかけていた、という、シーンなのだが。
史実とは、思えないけど、こんな反乱が、通用してしまう、というところに、あの当時の、世の中の、平穏さが感じられるなあ。
その後、平将門は、バブル直前に、再び、祭神に迎えられるのだ。
また、同じ頃、平将門を扱った、帝都物語、なんて小説が、流行ったっけ。
だけど、そんな平穏な時代は、格差社会の到来と共に、なくなってしまった。
今の時代、平将門なら、どう思っているんだろう。ちょっと、気になる。
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(湯島聖堂)

2009-08-30 07:36:12 | Weblog
聖橋のアーチをくぐり、東へと歩く。
通りの北側には、緑深い、広大な、湯島聖堂の敷地。
そういえば、湯島聖堂の階段で、レモンを齧って、その齧りかけのレモンを、聖橋の上から、放る、という有名な歌があったな。
たしか、高度成長期が終わって、世の中が落ち着いてきた、安定期の頃の歌だ。
たぶん、この歌の中の、レモンとは、青春、そして、そのレモンを放る、というのは、その青春との、切ない決別、なのだろう。
もっとも、今のような、格差社会では、齧るレモンも、放り投げるレモンも、ないような気がするけど。
今はただ、そんな安寧な時代もあったのだな、と思うだけだ。
などと、昔を懐かしんでいるうちに、湯島聖堂の門前に着く。
湯島聖堂とは、儒教の祖、孔子を祀った、孔子廟だ。
なるほど、道徳の府、儒教の大本で、レモンを齧ってみせる、というのは、なかなか、若さが漲っている感じがする。
門をくぐり、しばらく、静かな緑の中を歩いていく。すると、突然、目の前に、でかい孔子像。
その像の巨大さで、孔子の偉大さを、表現したのだろうが、偉大、というより、ちょっと、怪物じみて、見えるな。
階段を登っていくと、門があり、その向こうに、さらに急な石段。なにか、道徳の高みに上昇していく感覚を実感してしまう。
石段を登りきると、また門があり、その先には、いよいよ、湯島聖堂の中心、大成殿。
ここを訪れるのは。二度目なので、それほど感動はしないが、やはり、歴史の重さを感じるな。
ということで、大成殿の門を出る。
出た後、まわりを、ちょっと、うろうろしていたら、ひょっこりと、聖橋の上を通る、道路に出てしまった。
道徳の高みに達した、と思ったら、聖橋の上だった、というのは、なんだか、興醒めだな。湯島聖堂の、あの階段は、実は、格差社会の階段だった、なんて思ってしまうからだ。本当は、違うんだろうけど。
それで、この後、聖橋まで歩いていって、齧ったレモンを、放ったわけか。
でも、もし、ここが、山の手だと、気付いたら、レモンを放ることなんて、しないだろう。なにせ、勝ち組なのだから、当然だ。
格差社会においては、レモンだろうが、道徳だろうが、孔子だろうが、そんなものに、意味はない。勝ち組か、負け組か、それだけが、意味を持つのだ。
そういう世の中なので、仕方ないな。
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(御茶ノ水聖橋)

2009-08-29 04:28:34 | Weblog
東京医科歯科大学の南側には、東西に伸びる、外堀通りがある。
その外堀通りを東へ。
しばらく歩くと、重厚そうでいながら、とても優美な姿をした、アーチ橋の下に着く。
これが、有名な聖橋らしい。
といっても、自分は、たいてい、西側の、御茶ノ水橋の方しか行かないので、あまり、聖橋には、馴染みがないんだけど。
そんな聖橋なのだが、完成したのは、昭和の初め。都心、郊外、という、今に到る、都市空間が、誕生し始めた時代だ。
つまり、都心と郊外、という新しい枠組みが、その頃できた、ということだな。
それ以前は、文京山の手などの山の手があって、そして、その東側に下町が広がっている、それだけだったのだが。
そういうことで、都心、郊外、という枠組みができるのだが、やはり、その中にも、山の手、下町、があったりする。
例えば、郊外には、田園調布、という新しい山の手が生まれたした。
だが、逆に、文京山の手には、こうした、巨大な、橋ができたりして、都心の機能を担った、建造物が、登場したようだ。
ところで、聖橋、とは、うまく名付けたものだが、どんな、謂れがあるのだろうか。
橋の北側にある湯島聖堂と、南側にあるニコライ聖堂、から、「聖」の字をとったのだろうけど。
ただ、この「聖」を、聖、俗、という関係性から考えると、山の手の「聖」、下町の「俗」、という風にも見える。
もし、聖橋が、もっと、特別な意味を持っているとしたら、「聖」なる、文京山の手が、この流麗な橋をもって、対岸へ、そして、郊外へと、溢れ出したから、ということなのかもしれない。
だとすると、自分が、聖橋に、馴染みがないのは、そこに、文京山の手の雰囲気がするから、ということになるのかな。
本当は、どうだか、わからないけど
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(東京医科歯科大学医歯学総合研究棟Ⅱ期棟)

2009-08-28 06:07:47 | Weblog
再び、御茶ノ水駅前に戻り、北へ。
御茶ノ水橋で神田川を渡る。
橋の下は、深い谷底。平野にある川とは、思えないような奇観を呈している。
神田川が、江戸時代の初め、駿河台の丘に溝を穿ち、流路を作ったことによる、人工河川だからなのだろう。
だから、自然では、考えられないような地形になっているのだ。
ちなみに、江戸時代より前、神田川は、飯田橋あたりから、そのまま、南に流れていたらしい。
そんな神田川なのだが、やはり、川の北側は、文京山の手、という雰囲気がするな。
ただ、その手前、つまり、神田川の北岸に、沿うようにして、壁のように、高層ビルや、施設の建物群が、並んでいる。
まるで、文京山の手を守るための、城壁のように、見えるが。
その中の施設の一つに、東京医科歯科大学のビル群がある。
付属病院医科新棟総合研究棟Ⅰ期棟などの高層ビルで形成されたビル群だ。
そこに、最近、新たに、巨大な総合研究棟Ⅱ期棟が加わった。(工事中はこちら
以前、見たときは、ずいぶん、薄っぺらな高層ビルができたな、と思ったものだが。
ただ、工事は終わらず、すぐに、手前に、もう一棟、建ち始め、結局、それら二つのビルは、くっ付いて、今、目の前にあるような、一つの巨大な高層ビルになった。
どういう理由で、そういう建て方をしたのか、よくわからないけど。
それにしても、この、東京医科歯科大学の建物の密集する様は、すごい。
敷地が狭い、ということもあるが、むしろ、歯医者業界の隆盛を物語っているような気もする。
例えば、どこぞの商店街の中の、ある店が、なくなったな、と思ったら、たいてい、その後には、歯医者さんが、開業したりするのだ。
そのような歯医者さんの学校(最高学府らしい)が、文京山の手の防壁として、建っている、というのは、相応しい、といえば、相応しいのかもしれない。
(2009年5月記)

中央線御茶ノ水駅(御茶ノ水駅前の路地)

2009-08-27 05:14:49 | Weblog
高田馬場駅から東西線で飯田橋駅へ。
総武線に乗換え、御茶ノ水駅で下車。
御茶ノ水駅の改札は、東の端か、西の端、しかない。
東の端だと、聖橋、西の端だと、神保町の本屋街の方に出られる。
今回もそうだが、たいてい、いつもは、西の端から、降りることになっているが。
階段を登っていくと、改札口。
JRの御茶ノ水駅は、神田川の谷地の斜面にあるので、駅を出るには、階段を登ることになる。
改札を抜けると、駅前は、意外と、ごちゃごちゃした感じ。
駿河台、という丘の上、文京山の手の一画なのだが、ちょっと下町っぽいかな。
たぶん、北側に、深々と、谷を穿つ、神田川が、東西に横たわっているからだろう。
つまり、山の手とは、切り離されているのだ。
もっとも、学校が多いので、学生街になっている、ということもあるかもしれない。
そんな、御茶ノ水駅の南側、ごちゃごちゃした路地に、ちょっと、入ってみる。
薄暗い先に、懐かしい喫茶店があったな。今も、まだ、やっているみたいだ。
たしか、ずっと前、入って、フルーツの盛り合わせ、かなんか、頼んだように覚えている。この喫茶店の名物だったかな。
あと、もう、あまり覚えていないが、もう一軒、喫茶店に入った。2階にあったことだけ、記憶している。名前も、どこにあったかも、わからなくなっているけど。
御茶ノ水駅には、他に、レコード屋、楽器屋、そして、病院も多い。
だけど、やっぱり、喫茶店だな。学生街の喫茶店。御茶ノ水には、関係ないけど、そんな流行り歌があったっけ。
でも、喫茶店に行くことは、今は、ないなあ。(いつも混んでるドトールぐらいなら行くが)
そういう路地を見かけても、足早に、通り過ぎるだけ。
そして、過ぎ去った、昔日は、思い出の中にあるだけだ。
(2009年5月記)

千葉モノレール県庁前駅(千葉モノレール延伸先)

2009-08-26 04:52:02 | Weblog
実は、千葉モノレールは、県庁前駅から、さらに、延伸する計画も、あったのだ。
結局、その計画は、どうなったのやら。
いちおう、その計画を、書いてみる。
県庁前駅から、北東方向に、どんどん、伸びていき、最終的には、千城台、というところまで、達する、という計画だ。
千城台には、すでに、千葉駅から北方向に伸びている、別のモノレールの路線が、達している。
千城台で、その別の路線と結合し、環状線のような路線になるらしいのだ。
なんとも、壮大な交通網の計画なのだが、実現の兆しすらない。
ということで、とりあえずは、途中まで、ということになったのかな。
最初は、県庁前駅から、そのまま、南へ。京成千原線の千葉寺駅を、迂回して、北へ方向転換。千葉大学か青葉病院まで、伸びる予定、ということだったらしい。
でも、これでは、京成線と、二重投資になってしまう。県庁前駅もすでに、近くに、JRの本千葉駅があり、二重投資になっているし。
そういう理由かどうか、わからないが、予定は、さらに、変更される。県庁前駅から、すぐに、北東へ。千葉大学の南側を東に伸び、青葉病院まで、となったようだ。
ただ、この予定も、現在は、頓挫しているみたい。
そもそも、作る順番が、逆だったのかもしれないな。
千城台から、まず、県庁前駅を目指す方が、よかったかも。
県庁前駅まで、辿り着いたら、動く歩道付きの、ペデストリアンデッキを、JR本千葉駅まで伸ばせば、乗換えに便利だ。
と、今さら言っても、仕方ないか。
そこまで、考えたとき、やっと、モノレールの車両がやってきた。
さっそく、乗り込む。
最初に、千葉モノレールを見たときは、未来的で、光り輝いて見えたものだけど、今、こうして見ると、ずいぶん、古めかしい感じがするなあ。
未来に辿り着く前に、たいていは、こんな風に、古びてしまうものなのだな。
そうとは、わかっていも、その先の未来を見てしまうのだけど。
大きく揺れながら、モノレールが、動き出した。
途切れたレールは、どんどん、遠ざかる。なんだか、未来も、遠ざかるようだ。
でも、それで、いいのかもしれない。
(2009年5月記)

千葉モノレール県庁前駅(県庁前駅駅舎)

2009-08-25 04:56:53 | Weblog
猪鼻の台地の上を、あちこち、歩き回ってみたが、特に、何かがあるわけではないので、すぐに、行くところがなくなってしまう。
千葉氏の城郭や、館は、どうなっていたのか、とか、その頃の、町並み、なんかが、具体的にわかれば、よかったのだが。
そういえば、例のニセ天守閣、中身は、博物館になっいるのだが、なんとなく、入る気がしないな。
でも、千葉の源流を、こうして、実感できたことだし、それだけで、十分だろう。
ということで、もう、帰ることにする。
北側の階段を降りていくと、さっきの、猪鼻の西側にある、通りに出た。
通りを、南へ南へと歩いていくと、千葉モノレールの県庁前駅。
ちょっと離れているが、西側には、JR本千葉駅があるのだけど。
無駄な気もするが、千葉モノレールの駅のほうは、ペデストリアンデッキで、千葉県庁、その他の施設と、直結しているみたいだから、いいのかな。
改札を通り、県庁前駅の橋上ホームへ。
客も、あんまり、いそうにないし、そもそも、本数がなさそうだ。やっぱり、あんまり、役に立っていないのかもしれないな。
ベンチに座って、モノレールの車両が、やってくるのを待っていると、ふと、昔のことを思い出してしまった。
千葉モノレールが、開通したのは、バブルの頃だが、その時期、千葉の街に、頻繁に、来ていたのだ。
千葉の街中を、クルマで走っていると、頭上を、ゴー、という音をたてながら、モノレールが、追い抜いていってたな。
これは、まるで、SFの世界だな、と、思ったのだけど。
今は、バブルの夢の跡。猪鼻と同じだ。
もっとも、千葉の街は、賑やかなので、それで、いいのかもしれない。
(2009年5月記)

内房・外房線本千葉駅(千葉氏の本拠地跡)

2009-08-24 04:39:59 | Weblog
猪鼻は、平野に、岬のように、細長く突き出した、台地になっている。
その台地の上は、広々として平らな空間。
たぶん、最初は、尾根のようになっていのかもしれない。
千葉氏が、進出してきて、本拠地に定めたとき、整地したのかな。
ただ、千葉氏が、進出する、ずっと以前から、すでに、猪鼻には、集落などが、あったらしい。
遺跡や、古墳などが、見つかっているからだ。
さらに言えば、千葉国造がいたわけで、ということは、在地の、豪族が、最初からいた、と考えた方がいいだろう。
だが、律令制が始まり、中央集権的な、体制になると、今の市川に、国府が置かれ、猪鼻は、その統治下となる。
千葉国造のような、在地の勢力を、抑えたかったのかもしれない。
時代は下り、平安時代の終わり頃、さしもの、中央集権的な体制も崩れてきた。
そのとき、千葉氏が、登場するのだ。
なんか、地方復権の、先駆けみたいだなあ。
千葉氏は、鎌倉時代にかけて、だいぶ、意気盛んだったらしい。
でも、その後は、室町時代、戦国時代、と、戦乱にまみれて、千葉氏は、消滅してしまったのだ。
江戸時代になり、やっと、世の中も落ち着いてきたのだが、千葉は、江戸の中心地に近いためか、今度は、ばらばらの領地にされてしまう。
結局、もとの姿に戻ったのは、明治時代になってからだ。
このように見てくると、県の名前に、千葉、と付けたのには、歴史的に、いろいろな意味があったわけだな。
高度成長期の頃、あったはずのない、ニセの天守閣を作ってしまう、というのも、わかる気がする。
もっとも、今の千葉は、千葉市が政令指定都市になったりして、発展を続けているようだし。
そんな心配こそ、千葉の部外者の、大きなお世話、かもしれないな。
(2009年5月記)

内房・外房線本千葉駅(市立郷土博物館のニセ天守閣)

2009-08-23 06:59:23 | Weblog
都川を渡り、通りを南へ。
交差点で、東へ曲がる。
通りは、緩やかなカーブを描きながら、北へと向きを変えていく。
街並みは、かなり古い感じ。たぶん、高度成長期から変わっていないのだろう。
途中、東へ。目の前には、鬱蒼とした緑に覆われた、台地が現れる。
その台地の頂上を目指して、坂道を、登って行く。その上り坂は、すぐに階段となる。
その階段を登りきると、広々とした、場所。
ここが、千葉氏の本拠地、猪鼻だ。
なるほど、西側に目をやれば、都川が、うねるように流れている、千葉の沃野が、一望の下、見渡せるわけか。
目を転ずると、なんと、千葉氏の城郭跡が、そのまま、なわけはないはずなのだが。
でも、堂々たる、天守閣が、聳え立っているではないか。
自分のような、千葉初心者でも、千葉の創始者、千葉氏、というのは、鎌倉時代から、遅くとも室町時代まで、というのは、知っているのだ。
このような、戦国時代末期特有の城郭が、ここに、あるわけがない。
バブルの頃あたりに、勇み足で、作ってしまったのかも、と思ったが、このニセ天守閣は、もっと昔、高度成長期にできたらしい。
JR千葉駅や、京成電鉄の千葉中央駅が、移設し、千葉の街が、大変貌した頃だな。
その頃が、千葉の街にとって、どのような画期だったのか、千葉に住んでいるわけでもないので、わからないけど。
なんとなく、大変貌の余勢で、ニセ天守閣を作ってしまったような気もする。
たぶん、千葉氏も、千葉の街の発展は、喜んでいるだろうが、ニセ天守閣には、苦笑いしているかもしれない。
それに、そもそも、子供を連れて来た場合なんかに、いったい、どうやって、説明しているのか、とても気になるな。
千葉の部外者にとっては、どうでもいいことかもしれないけど。
(2009年5月記)

内房・外房線本千葉駅(都橋から見る都川)

2009-08-22 07:38:35 | Weblog
通りを、さらに、南へ南へと、歩いていく。
まわりの風景は、郊外、というよりも、地方のようだな。
しばらくすると、都川、と、その都川に架かる、都橋。
「中央」の次は、いよいよ、「都」か。
近くに、千葉県庁本庁舎があるので、「都」、でもいいんだけど。
ただ、街並みは、都、とは、程遠い。
以前、訪れたときは、JRの本千葉駅で、降りたのだが、千葉駅から、気軽に歩いてくるような場所ではないな。
だから、JRの他にも、千葉モノレールまで、千葉駅から、伸びているわけなんだろうけど。
このように、この場所は、千葉の街の中心からは、かなり、離れているのだが。
でも、この、都川の、流れを見ていると、とても、豊かな、土地なんだな、と思ってしまう。
川幅は、それほど広くもないが、水を、たっぷり湛え、ゆったり、うねるように、流れているからだ。
そのような河川は、肥沃な大地と、活発な水運を、もたらせてくれたに違いない。
大昔、千葉の礎を築いた、千葉氏の、本拠地が、あったのも、うなずけるな。
はるかな昔は、本当に、都みたいだったのだろう。
ところで、この場所の地名は、なんで、千葉、なんだろうか。
千葉氏は、この土地に、進出してから、名前を、「千葉」に変えていてるので、地名の方が古い。
多くの古い地名が、そうであるように、「千葉」に関しても、もう、その謂れは、わからないだろうなあ。
ただ、この場所の地名が、現在の、千葉県の名前になっている、というのは、時代の流れの、不思議さを感じてしまう。
(2009年5月記)