retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

汐留シオサイト(ロイヤルパーク汐留タワー)

2007-02-28 06:38:47 | Weblog
西側、新橋の方へ少し行くとロイヤルパーク汐留タワーが聳えている。
外壁が赤茶色っぽくて目立つ。
地上を環状2号線が走る。
まだ汐留シオサイトから外へはまるでできていないのだが。
西側は新橋から虎ノ門へ向かい、東側は浜離宮庭園の北側、築地市場を通り、勝どき、豊洲、そして臨海副都心へと達する。
しかし実は、虎ノ門から築地市場までは全線、地下になるらしい。ということは、地上にあるのは環状2号線ではないということになるが。
ともあれこれでこの道路が完成すれば汐留シオサイトは、霞ヶ関と直結することになる。
地上では閉鎖されているビル街でも地下では道路と地下鉄で外界と結ばれるというわけだろう。
この道路は通称、マッカーサー道路というらしい。
戦後、アメリカ軍の統治下にあったころ、竹芝桟橋から赤坂のアメリカ大使館まで道路開通させろ、というアメリカ軍の要請があったことから最高司令官のマッカーサーの名前が付けられたということだ。
もっとも今となっては本当かどうかわからない。
具体化されないのに計画だけ生き残り、そして汐留シオサイトの完成を契機として、異例の地下道として再び具体化される。
何か不思議な話だ。
アメリカ軍の統治下ではまるで実現していないのに、アメリカ軍の統治が終了していらなくなっているのに計画だけはずっと生き残る。
そのこととはまったく関係もありそうにないビル群、汐留シオサイトの完成がマッカーサー道路の計画を復活させる。
それらの事柄を一気にまとめて納得させてしまう事実があるのだろうが。
ただそういう事実にかぎって表には出てこない。
この道路が、アメリカ軍の統治下にあったころの最高司令官マッカーサーの名前が付いている、そういうことで了解されているのだろう。
(2006年9月記)

汐留シオサイト(東京汐留ビルディング)

2007-02-25 13:30:13 | Weblog
海岸通りに沿って北へ。
汐留シオサイトの北東端に東京汐留ビルディングが聳える。
ここらへんだと築地という雰囲気が感じられる。
海も近いということだ。
ビル群といえば西新宿高層ビル街があるが、格子に区切った敷地にビルが等間隔に並んでいるイメージがある。
しかし、汐留シオサイトは違う。
まるでステンドグラスのガラスを嵌め込むように、いろいろな形をしたビルが隙間なく位置している。
だから、遠くから見るとまるで巨大な壁のように見えるのだ。
すぐ東側に浜離宮庭園があるが、間に海岸通りや首都高が通っているせいか、関連性がない。
住所も汐留シオサイトは港区だが、浜離宮庭園は日本橋や築地と同じ中央区となっている。
まだ汐留シオサイトが広大な更地だった頃、海岸通りを歩いたことがあるが、海岸通りと浜離宮との間にも堀のような水路があり、浜離宮側にびっしりと樹木が生い茂り、まるで別世界という感じだったが。
江戸時時代までは、おそらく汐留も浜離宮も一体だったのだろうが、明治時代になり、汐留は産業化の波に激しくさらされることになったのかな。
この堀や壁のような生い茂った樹木が産業化の波を拒否したように見える。
汐留シオサイトが完成し、きれいなビル街になったが、今もそれは変わらない。
それどころか、浜離宮の西側にさらに巨大な壁がもう一つできたようにさえ見える。
何に対する壁になっているのか、よくわからないが、夏の日の海風が吹き込みことに対して壁になっていることは確かだ。
もっとも、浜離宮庭園や壁そのもののビル群には涼しい海風がたくさん吹き込むことは、もっと確実なのだが。
(2006年9月記)

汐留シオサイト(東京ツインパークス)

2007-02-24 06:38:21 | Weblog
東京駅から山手線に乗り、浜松町で下車。
東口に出て北へ。
東京ツインパークスが聳える。名前の通りツインビルだが。
汐留シオサイトのビル群は山手線の東側、新橋駅から浜松町駅まで細長く伸びているが、真ん中は西側のJRの路線と東側の浜離宮庭園がお互いに近いため、くびれている。
そのくびれたところの南北に巨大な住宅棟があり、東京ツインパークスはその一つである。
駅間ということは、どちらの駅からも遠いということで住宅棟になったのだろうか。
巨大オフィスビルでは無理があるだろう。
このビルの密集した汐留シオサイトは、バブルではなく、バブル崩壊後失われた10年の象徴のような気がする。
この密集ぶりが特徴である。
そして巨大な住宅棟も特徴だと思う。
東京ツインパークスは駅から離れているが、駐車場があるから大丈夫なのだろう。
クルマを使えば外部といっさい接触せずに家から出入りできる。
このようなでかいマンションを見ると、治安の悪いどこかの某国の権力者たちが高層マンションに住んでいることを思い出す。
高級住宅街は危険だが、マンションなら出入り口が決まっているので安全だし警備もしやすいというわけだ。
つまり、ある種のゲーテッド・コミュニティ―なのだ。
バブルのころなどは、ただの眺望のいいでかいマンションだったが、バブル崩壊後失われた10年以降では、あきらかに安全という側面があるような気がする。
集積していくから周縁部が崩壊していくのか、周りが荒れ果てていくから中心部分の集積を強化しなければならないのか、どちらも原因でどちらも結果なのだろう。
そういう社会になったのかな。
(2006年9月記)

丸の内(日本生命丸の内ビル)

2007-02-22 20:29:21 | Weblog
高田馬場から山手線で新宿、中央線に乗換え東京駅へ。
西口へ出ると北西側に日本生命丸の内ビルが聳える。
ビル群、丸の内オアゾの中では最高峰である。
他のビルとしては、丸の内センタービル、新丸の内センタービル丸の内北口ビル、丸の内ホテルがある。
日本生命は、日本では明治時代、3番手の保険会社として開業、バブルまでに世界一の保険会社にまで登りつめる。
ものづくりから資産運用への転換を如実に示している。
近代工業国家から成熟債権国家、とも言うのかな。
別に社会が成熟しているとは、まったく思えないのだが。
成熟したり、発展したりしたのではなく、社会のあり方が変容しただけではないだろうか。
バブルのころは、そのことがものづくりという視点から、具体的な規模、という考え方で解釈されてしまった。
しかし、今は、逆で、抽象的な利潤として解釈されているような気がする。だから、ものすごい勢いで具体的なものの集積化、集中化が行われているのだ。
丸の内オアゾも、この狭い敷地にでかいビルがこれでもか、という具合に押し詰められている。
何かから何かへ、着実に一歩一歩、進んでいくものがあったらいいのに。それが可視化された社会なのかな。
今とその先との差分のために保険は必要かな。もしものためだ。
その差分が利子というものだろうな。
でもその方向は何に基いているのだろう。
単に実体のある社会の規模だったどうなるのだろう。
実体のある社会の規模が大きくなっていれば確かにその方向は正しいかもしれない。
でも、そうでなかったら、負け組みをどんどん作っていく以外利益なんて出てこないのではないだろうか。
(2006年9月記)

中央区日本橋浜町(トルナーレタワー)

2007-02-21 20:41:22 | Weblog
新宿から都営新宿線に乗り、浜町で下車。
地上に出ると公園になっている。
公園を出て清洲橋通りへ。南へ少し歩くと新大橋通りとの交差点。
南側に巨大なトルナーレタワーが聳える。
他の高層ビルは、付属ビルとしてトルナーレオフィスビル。
東側に日本橋浜町Fタワー、北へ少し行くと浜町センタービル(日本橋浜町明治座)、南西方向にはロイヤルパークホテルがある。
また、新大橋通りを少し西へ進むと人形町の再開発ビルが工事中だ。
浜町は、基本的には、人形町のような感じだが、テーマパークとしてのテーマがない。
ミュージアムとしてのネタがないのだ。
あえて挙げれば明治座か水天宮(住所は蛎殻町だが)か、そんなところだろうか。
あとは、ビルが点在しているだけである。
江戸時代には、ほとんどが武家地だったようで、格式の高い土地なのだそうだ。
したがって、高級、あるいは普通の料亭なども多いらしい。
もっとも、ちょっと前まではそうで、今は潰れてしまったのだろうか。
そんな店は全然気がつかなかったが。
もし、テーマパークのテーマを見つけるとしたら、格式の高さから、日本橋の奥座敷とでもするのだろうか。
それよりも、近くの隅田川に架かる新大橋は、関東大震災や東京大空襲でも落ちず、多数の人命を救ったため、人助け橋と呼ばれているらしいが、もっと有名になってもいいような気がするが。
(2006年9月記)

西新宿高層ビル街(KDDIビル)

2007-02-20 22:56:36 | Weblog
東へ、新宿駅方面へ歩くとKDDIビルが聳えている。
高度成長期の終わりごろに建っている。
西新宿高層ビル街では3番目で古株ということだろう。
そしてKDDIビル以降、毎年のように切れ目なく次々と高層ビルが建ち続けて現在に至っている。
KDDIについてだが、もとはKDDで国際電信電話株式会社の略であり、当時、海外との通信事業を担当していた。
明治時代の半ば、逓信省が設置されるが、郵便事業だけではなく通信分野も担当していた。
戦後、電気通信省となり、郵便事業とは独立、そしてすぐに日本電信電話公社(NTT)となる。同時に国際電話のほうは、国際電信電話株式会社(KDD)が受け持つ。
そして、高度経済成長期が終わってみると、国際電信電話株式会社は、西新宿に巨大な高層ビル(KDDビル)を建てるまでに肥大化していた。
バブル直前に株式会社化、バブル崩壊後、失われた10年のなかで同じころ株式会社となった第二電電に吸収されKDDIとなり現在に至る。
したがって、西新宿高層ビル街のKDDIビルも、もとKDDビルなので本社ではない。
逆に、さらに巨大化したとも言えるのだが。
かつての太平洋戦争の敗北は、情報戦での敗北という側面もあるらしい。
戦後、情報は金になると思いついただけでも、あのころよりは、少しは利口になったということか。
しかし、バブルの直前、NTTが民営化され株券の発行でバカ騒ぎしたことを思い出すと、あんまり進歩したとも思えないが。
(2006年9月記)

西新宿高層ビル街(東京都庁第二庁舎)

2007-02-19 06:28:45 | Weblog
方南通りを東へ。西新宿高層ビル街に入る。通りの名前も北通りに変わる。
そして都庁通りに入り南へ。都庁本庁舎の南側に東京都庁第二庁舎が聳える。
本庁舎の付属ビルだが、付属ビルにしてこの巨大さだ。
バブル絶頂期に完成する。(もう崩壊しかけていたが)
東京ドーム、アークヒルズ、の他にバブルを象徴するものがあったわけだ。
当時、次のように語られていたと記憶する。
発展する都心部(山手線内かな)から都庁舎が追い出された、と。
追い出されたわけではなく、拡大したと考えた方がいいのだろう。
もし、都庁舎が現在建てられるとしたら、当然、もとの有楽町駅近くに高層ビルとして建っただろうと思う。東京国際フォーラムなんて作っている場合ではない、というわけだ。
バブルの頃、有楽町の一等地(住所は丸の内)を明け渡し、華々しく新宿の西の外れに巨大な庁舎を建て、移転する。
世界に冠たる日本経済に山手線内はまかせ、東京都の中心は西新宿高層ビル街というわけだ。
まだ、大江戸線は開通していなかったが、この環状地下鉄の中心駅は都庁前になっている。大江戸線に乗れば東京の中心部のどこでも行ける。汐留からゆりかもめに乗れば臨海副都心にも行ける。
世界に冠たる日本の中心部の地方自治体として当然の政策だっただろう。
でも、日本は特に世界に冠たる存在でもなかったわけだ。バブルははじけてしまう。
祭りの後の虚しさを抱えて、日常に戻ることとなる。しかし、そこでふと気付くのだ。お祭り気分で建ててしまったこの巨大な建築物はいったいどうするんだ、と。
深夜、大江戸線から都庁前駅に降りたことがある。
広大だが迷路のように妙に入り組んだ凝った作りのコンコース。
晩秋のころで構内も外も底冷えしていて、そして、まるで人影はない。
薄暗い迷路に自分の靴音だけ響く。
やっと地上に出ても、やはり人影はなく、底冷えしている。
目の前には、古代の遺跡のような都庁庁舎が聳え立っていた。
それを見たとき、自分は、地下の迷路から抜け出して地上に出たはずなのに、まだ薄暗い迷路から出られてはいない、と錯覚してしまった。
(2006年9月記)

西新宿六丁目西地区(菱和西新宿6丁目計画)

2007-02-18 12:33:16 | Weblog
方南通りを東へ。新宿方面へ。
西新宿六丁目西地区、十二社通り沿いに菱和西新宿6丁目計画。
この地区は、住宅地だったが、バブル期以降、次々と高層ビルに変わっている。
東地区は高層ビルで埋め尽くされたが、西地区の方は、あちこちに駐車場と更地が広がり、そのまま放置されていた。
ここにきて、また高層ビルの建設が始まったようだ。
淀橋浄水場跡地から高層ビル街が溢れ出して神田川方面へ進出したという感じだ。
この場所は、西新宿高層ビルのあるあたりから神田川にかけて下りの斜面になっている。
長らく更地が広がっていたが、そこから見上げる高層ビル街がなんとも近未来的で美しかった。
黒い土があちこちに剥き出したのどかな原っぱの斜面。廃屋が何軒か静かに佇んでいる。
その斜面の先を見上げると太陽の光を反射して輝く巨大な建築物が壁のように立っているのだ。
そういえばこの場所に来ると、なんのドラマだか映画だかわからないが、よくロケをやっている。
もっとも、このような興味深い風景も高層ビルが建ち始めたのでもはや見ることもないだろう。
たしかに、この景色は、景気変動などによる一時的な偶然の産物にすぎないのだが、その存在感が心に重く響いてくるのはなぜなんだろう。
そしてここにも野良猫がたくさんいる。住処を失ったら、たぶん、十二社通りを挟んで反対側、西側の西新宿五丁目にでも移るのかな。
まだ、西新宿五丁目にはかつての西新宿六丁目の風景がまだあることに気付く。
でも、西新宿六丁目の次に高層ビル化されるのは西新宿五丁目かもしれない。
(2006年9月記)

西新宿・渋谷区本町(渋谷区本町3丁目計画)

2007-02-16 23:17:00 | Weblog
六本木に戻り大江戸線に乗る。西新宿五丁目駅で下車。
方南通りを西へ歩く。山手通りとの交差点の北東側に渋谷区本町3丁目計画が工事中。
渋谷区だが基本的には西新宿という感じがする。あるいは中野の東という感じもする。
少し東に歩くとシティタワー新宿新都心がある。
また少し北側には神田川が流れている。神田川沿いの高層ビルとなるかもしれない。
交差点の名前は清水橋交差点となっている。
南西から小川が流れてきていて、この交差点付近を通過、神田川に合流していたということだ。
その小川にかかる橋が清水橋だが、もう小川もその橋もない。
ということはやはり神田川沿いという土地柄なのかもしれない。
山手通りは今、盛んに地下を通る首都高の工事をやっている。
最終的に品川まで伸び首都高羽田線と結ばれるのだろう。そして都心と外延部との境界線になるのかもしれないが。
といってもここまで西新宿高層ビル街が広がることはないだろう。と言いつつ、しかし、目の前で高層ビルの建設をやっているのだが。
つまり、この都心の範囲内なら南側の代々木、北側の目白などの屈指の山の手を除く川沿い、つまり下町なら高層ビルが建つかもしれない。
ここらへんだとやはり神田川沿い、ということになるかな。
しかし、山手通りとはよく名付けたものだ。オリンピックのころ開通したのだが、どういういわれがあったかわからない。
もっとも旧山手通りは別としてちっとも山の手を通っているわけでもなくその縁、目黒川や神田川沿いなどを通っている。
山の手に便利な環状道路ということだろうか。
山の手は山手通りができたころと変わらないのに、山手通り自体が変貌しようとしている。
下町というのは、特に山の手の近くだと、いつも工事中なのだろう。
(2006年9月記)

六本木ヒルズ(六本木ヒルズレジデンス)

2007-02-15 22:36:07 | Weblog
紀尾井ストリートを通って、赤坂見附へ。
丸ノ内線、霞ヶ関で日比谷線、六本木で下車。
外苑東通りの西側の通りを南へ、坂を下る。
がらっと華やかな街並みが現れる。通りを西へ進む。六本木ヒルズの南側の通りだ。
ここだけ日本でないような、あるいはいままでの貧相だがつつましやかな日本でないような、明るく開放的な幅広のストリートが延びる。
距離にしてわずか500メートルたらずだが。
通りの東側には六本木ヒルズレジデンスD棟、西側にはホテルグランドハイアット東京を配し、通りに面してツインタワーの六本木ヒルズレジデンスが聳え立つ。
これが今現在の到達した高みなのだ。
なるほど背伸びしていないゆとりが見られ、リラックスさえ感じられる。
つまり、フォーマルではなくカジュアルなのだ。
この空間から外へ出たときの陰鬱な雰囲気が頭をよぎる。
しかし、ふと気付くが、開放的とは無防備と直結しているのではないだろうか。
このストリートでは金を払わなければ(つまりどこかの店にでも入らなければ)身の置き場がない、ということに思い至る。
いつまでも無防備にさらされるわけにはいかないのでさっさと、この空間から出てしまわなければならない。
このような方法でもゲーテッド・コミュニティ―は作り上げることが出来る、というわけか。
さすがに、このような開けた場所に野良猫がいるとは微塵も考えられない。
このでかいマンションの中のどっかに猫は飼われているのかもしれないが。
(2006年9月記)