retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

都営大江戸線東新宿駅(新宿六丁目 西光庵)

2013-02-28 04:36:36 | Weblog
新宿六丁目再開発地、北西側、交差点。
西へ伸びるのは、職安通りだが、職安通りの、南側は、もう、新宿歌舞伎町になる。
また、南へ、少し、歩けば、ゴールデン街。
そういえば、かなり前、藤圭子が、デビューしたとき、新宿の、繁華街を、流しで、歌うという、キャンペーンを、やったのだが、その、出発点は、ここから、東側の、西向天神社。
歌い流して、新宿の街、飲み屋、レコード店、歌声喫茶、オールナイトの映画館、食堂と、回ったそうだ。
そう考えると、ここらへんは、新宿の街の、裏口、という感じかな。
そんなことを、考えながら、東へ。
住宅地の中。坂を、上っていく。
文化センター通りを、越え、さらに、東。
細い、南北に伸びる、通り。
その通りの、西側には、西光庵がある。
(2012年5月記)

都営大江戸線東新宿駅(パークハビオ新宿イーストサイドタワー)

2013-02-27 04:45:51 | Weblog
再開発地、南側には、パークハビオ新宿イーストサイドタワー。
最近、完成した、高層住宅。(工事中はこちら
駅近くの、高層住宅、なわけだが、鉄道路線、駅が、新しいので、まるで、再開発に、併せて、設置されたような気もする。
鉄道の方が、計画は、早いので、やはり、交通の要衝、駅に近い、ということで、再開発されたのだろうけど。
それはそれとして、ずいぶん、整備され、きれいな街並みになったものだ。
バブルの頃、昔は、よく、明治通りを、歩いて、新宿に行ったけど、ここらへんは、新宿の、裏町、という感じだった。
整備されている、あるいは、きれいな街並み、などとは、かけ離れていたな。
そこがまた、むしろ、下町っぽくて、よかったのだが。
今は、その、面影もない。
今回は、ここから、さらに、東側、住宅地に、入っていく。
(2012年5月記)

都営大江戸線東新宿駅(完成しつつある新宿六丁目再開発地)

2013-02-26 05:00:08 | Weblog
中井駅で、都営大江戸線に、乗り換える。
都庁前駅で、今度は、別方向に向かう、列車へ。
いつも、すでに、ホームの反対側、来ているので、待つことはない。
また、いつも、がらがらなので、たいてい、座れる。
便利なのは、いいのだけど、それだけ、都心部の、北側は、あまり、乗客がいない、ということでもあるのだ。
都心に、再開発が、集中しているので、これからは、わからないけど。
しばらくして、東新宿駅へ。
改札を抜け、地上に出ると、南北に伸びる、明治通りと、東西に伸びる、職安通りとの、交差点。
ずっと前、来たときは、本当に、新宿の、裏町、という、雰囲気だったのだが。
そのときは、もちろん、まだ、都営大江戸線は、開通していなかった。
今は、都営大江戸線、副都心線も、通る、交通の要衝。
ということで、交差点の、南東側では、大規模な、再開発が、おこなわれている。
古い街並みは、一掃され、整備されつつあるようだ。
(2012年5月記)

埼京線板橋駅(滝野川六丁目 みよの台仲通り)

2013-02-25 04:50:28 | Weblog
中山道から、南に、入ると、みよの台仲通り商店街。
こちらは、まだ、少しは、お店、あるようだ。
しばらく、商店街を、歩いていくと、滝野川銀座通り。
また、もとの、場所に、戻ってしまった。
もっとも、駅前商店街は、もとより、こうしたものだろう。
迷路のようになってはいても、たいてい、もとの、駅間に、戻れるようになっているのだ。
そして、板橋の場合、もとの場所、というのは、駅前であり、旧中山道、なのかな。
とにかく、往時は、かなり、広範囲な、商店街。
おそらく、これほどの、商店街、さっき、おとずれた、四本木稲荷神社、もとの場所、戦前の、陸軍十条兵器製造所、あるいは、その他の、軍事施設と、関連があるのだろう。
つまり、一帯は、軍都、だったと思う。
それで、瀬後は、軍事施設は、なくなったはずだが、どうなったのだろうか。
よくは、わからないけど。
それは、今度、ゆっくり、調べてみよう。
今回は、これで、帰ることにする。
滝野川銀座通りを、西へ。
板橋駅から、埼京線で、帰る。
(2012年5月記)

埼京線板橋駅(パークタワー滝野川工事現場)

2013-02-24 07:10:46 | Weblog
南へ南へと、坂を、上って行くと、中山道。
途中、八幡通り商店街、というのも、通ったように、思うが、すでに、住宅地の中、埋もれていて、判別が、つかなかったのかもしれない。
中山道を、北西へ。
すぐに、通りの南側、パークタワー滝野川の工事現場。
板橋駅が、近いので、駅近くの、高層住宅、ということか。
あるいは、交通量の多い、大通りに対する、遮蔽物。
さらに言えば、もはや、いらなくなってしまった、施設の敷地、再利用する、ということかも。
いずれにしろ、こうして、また、高層住宅が、建設される。
都心部、とくに、駅周辺が、また、さらに、発展するわけだ。
でも、結局、行き着く先は、どうなるのだろう。
わからないな。
とりあえず、南へ向かう。
(2012年5月記)

埼京線板橋駅(滝野川三丁目 四本木稲荷神社)

2013-02-23 08:00:31 | Weblog
坂を下り、東へと、歩いていくと、団地の中、四本木稲荷神社。
鬱蒼とした、樹木に、覆われ、歴史を、感じさせる。
さっき、訪れた、八幡神社も、江戸時代は、木々が、生い茂っていたそうだ。
名前も、珍しく、さぞ、大昔から、あるのだろう。
と、思ったら、実は、かなり、新しい、神社。
もとは、石神井川の、さらに、北側に、あったらしい。
広大な、中央公園の、一画。
中央公園に、組み込まれる前は、稲荷公園。
その場所に、四本木稲荷神社は、あったのだ。
この地に、移転してきたのは、戦後。
それでは、もとあったのは、どういう場所だったのだろう。
戦前、ということになるが、実は、陸軍十条兵器製造所、の敷地だったようだ。
敷地を、拡大する折、古墳があって、古墳を取り壊す最、鎮めるため、神社を、建てたらしい。
よくある話だが、本当のことだろう。
南へ。再び、坂を、上っていく。
(2012年5月記)

埼京線板橋駅(滝野川五丁目 八幡神社)

2013-02-22 04:53:07 | Weblog
北へ向かうと、下り坂。
どんどん、下っていくと、石神井川に、出てしまう。
観音橋あたり。
川の上には、ロープが、張られ、鯉幟が、吊るされている。
風が、ないので、泳いでいるようには、見えなかったけど。
石神井川まで、来てしまったが、石神井川を、見に来たわけではないので、引き返す。
別の道、南へ。今度は、上り坂。
ちょっと、開けた場所。八幡神社がある。
創建、由緒は、わかっていない。
おそらく、想像してみるに、創建は、鎌倉時代だろうと思う。
石神井川下流には、鎌倉武士の、豊島氏がいて、上流へと、勢力を、伸ばしたのが、鎌倉時代だからだ。
それ以前は、何もなかったのだろう。
今度は、もう少し、東側に、行ってみる。
(2012年5月記)

埼京線板橋駅(滝野川五丁目 伏見稲荷神社)

2013-02-21 06:09:41 | Weblog
北ヘ、歩いていくと、ほどなくして、東西に伸びる、大通り、中山道。
上空には、首都高池袋線の、高架。
幅広の、交通量の多い、通りになっている。
通りを、渡ると、北側には、小さな、祠、伏見稲荷神社。
何の、変哲もない、神社なのだが、実は、ここらへんには、きつね塚、という、塚が、あったらしいのだ。
神社は、その、塚を、祀っているのだろう。また、きつね塚商店街の、名前も、それに因んでのことだろう。
ところで、神社の、すぐ、西側には、滝野川消防署三軒家出張所がある。
昭和の、初め頃に、移転してきたのだが、どうやら、きつね塚の、跡地に、建っているらしいのだ。
あるいは、きつね塚を、整地したうえに、建てたのかも。
ただ、今となっては、どういう経緯だったのかは、わからない。
また、きつね塚が、どのような、形状か、ということもわからない。
おそらく、塚、なので、古墳だったのだろう。
遺物でも、あれば、はっきりするのだが、わかっていることは、そのぐらい。
中山道から、さらに、北へ向かう。
(2012年5月記)

埼京線板橋駅(滝野川六丁目 きつね塚商店街)

2013-02-20 03:51:47 | Weblog
路地の中、進んで行くと、きつね塚商店街。
商店街、なのだが、ほとんど、住宅地の中、埋没している。
まだ、それなりに、残っている、商店、飲食店、はあるけど。
今は、もう、なくなりつつあるけど、ちょっと前は、さぞ、賑やかだったのに、違いない。
とすると、旧中山道、滝野川銀座通りから、さらに、商店街が、分岐している、ということか。
なんか、この間の、甲府の、繁華街を、思い出した。
おそらく、縦横に、商店街が、伸び、その範囲全体が、大きな、繁華街を、形成していたのだろう。
そして、西側は、旧板橋宿とも、繋がっていたのかも。
もっとも、そういう場所、かつての、下町には、たくさん、あったと思う。
この、近くなら、王子。
ちょっと、離れて、日暮里、町屋、三河島。
さらに、離れて、千住、向島、曳舟。
みんな、同じような、感じだな。
きつね塚商店街、北へと、歩いていく。
(2012年5月記)

埼京線板橋駅(板橋一丁目 念宗寺)

2013-02-19 04:37:21 | Weblog
通りから、北側、細い、路地に入っていく。
商店街、といっても、もう、住宅地に、飲み込まれそう。
入り組んだ、路地を、歩いていくと、一画に、念宗寺。
創建は、いつなのか、わからない。
明治時代の地図を、見ても、さっきの、滝野川銀座通りが、当時の、中山道、だとすると、その北側、この場所は、田園地帯。
とくに、何も、なかったようだ。
宅地化されたとすれば、昭和に、入ってからだろう。
街の、最盛期は、おそらく、高度成長期まで。
寺が、創建されたとすれば、その頃かな。
高度成長を達成した後は、安定期。
あちこちが、整備され、街並みが、きれいになっていく。
昭和の、残された、商店街も、時代遅れになりながら、それなりに、命脈を、保っていくけど。
バブルが来て、バブルが崩壊して。
それでもまだ、ここらの、賑やかさは、残っていただろうなあ。
入り組んだ路地を、東へと、歩いてみる。
(2012年5月記)