retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

錦糸町駅南口(江東橋2丁目計画)

2007-06-30 11:34:23 | Weblog
高田馬場から東西線に乗る。九段下から半蔵門線に乗換え錦糸町で下車。
錦糸町駅の南口。京葉道路を少し西に歩き、南側に入ると江東橋2丁目計画の工事現場がある。
他の高層ビルとしては、少し離れて南側には首都高小松川線の高架があるが、さらにその南側にはツインタワーすみとし・住吉館、毛利館のツインの高層住宅がある。
江東橋地区は、錦糸町駅の南口一帯を指し、一応、繁華街ということになっている。
住所名の江東橋は、錦糸町駅の西側にある大横川に架かる橋である。上を京葉道路が通っている。
南北にまっすぐ流れる、大横川は、現代の地図は北が上になっているので、縦になっていて妙な気もする。
首都高小松川線の高架下を東西に流れる竪(縦)川は、逆に現代の地図では横になっている。
このように、江戸時代の新興都市として開発された墨田区、江東区は、運河、道路が南北と東西にまっすぐ伸び、街割りがきれいだ。
実は、京都のような感じなのだが。
明治時代以降、工場が進出し、山の手に対する下町として繁栄した。錦糸町も城北最大の繁華街となる。
しかし、高度成長期以降、工場生産は国外へ去り、結局、何もない下町へ。
バブル期以降、その何もない下町は再開発の場になっていく。
昔、栄華を誇った錦糸町南口、江東橋の繁華街も今はわびしい感じだが、そこへ高層住宅が進出してきている、ということだろうか。
時代は、容赦なく流れていく。
(2006年12月記)

渋谷区青葉台(青葉台3丁目計画)

2007-06-29 06:21:35 | Weblog
山手通りを北へ歩く。
目黒川は、品のいい桜並木になっている。すぐ東側の山の手住宅街の影響だろう。
なんだか、代官山にあるようなお店がいつのまにか増えたような気がする。
山の手通りの西側、特に池尻大橋に入っていく方は、やはりちょっと下町っぽい。
池尻大橋駅周辺はもっと下町っぽいが。
北に歩いて行くとやがて玉川通りとの立体交差がある。さらにそこに首都高速の中央環状新宿線の立体交差が加わろうとしている
地図で見ると糸がこんがらがるようにしか見えないが、現地では息を呑むほどの大規模な工事が繰り広げられている。
できあがるジャンクションに付属するように2棟の高層ビルが予定されている。
また、この立体交差の東側に高層住宅のソプラタワーがある。
地元の住民しか知らないような(と自分は思っているのだが)階段をとんとんと上がっていくと玉川通りに出る。
山手通りと玉川通りとの立体交差の南東側に青葉台3丁目計画の建設現場がある。
ここらへんが目黒川最北端のビル群ということかな。
青葉台3丁目計画は、目黒川が作った谷地の縁の部分に位置している。
山手通りや目黒川を見下ろすような場所だ。
以前はたしか、バブル崩壊で戦後初めて破綻した保険会社の日産生命があったのだが。
その当時を思い出してみるが、もうどんな形の建物があったのか覚えていないなあ。
時代の流れが速すぎる。
(2006年12月記)

東急東横線中目黒駅南口(上目黒一丁目計画)

2007-06-28 06:21:35 | Weblog
坂を下り、明治通りへ。北へ歩いて渋谷駅に出る。
東急東横線に乗り中目黒駅で下車。
中目黒駅の南東側に上目黒一丁目計画の工事現場。
山手通りと目黒川に挟まれた一帯だ。
渋谷や目黒の近くにあって、さらに東急東横線の沿線にあって、なぜか下町っぽいのは目黒川があるためだろうか。
他の高層ビルとしては、駅の南西に中目黒ゲートタウンタワーがある。
目黒川沿いにごちゃごちゃと店が集まっていたが、今ではきれいになくなってしまったなあ。
目黒区の区役所もあることだし、目黒の中心になっていくかもしれない。
目黒の地名の由来は、近くに駒場、駒沢、など馬にちなんだ地名があることから、馬「め」畦「くろ」から、「めぐろ」、ということだろうと思う。
古代律令制の頃は、牧場があったのだろう。
その律令制が崩壊していく平安時代に目黒不動尊、大鳥神社が創建されている。
山の手通りを南へ行き、目黒通りとの交差点の南西側になる。
創建年が同じなので、おそらく、目黒不動尊と大鳥神社は一緒だったという気がしてならない。
もっとも、なぜこの場所に不動尊が建てられたのか、その由来はよくわからない。
しかし、律令制が崩れ、地域が自立していったことと、なんらかの関係があったことは確かだと思う。
そして、それ以来、寺社町として、目黒の中心になる。
時は流れ、いつしか古びた下町となり、目立たない町として記憶からも消えていく。
こんどは、松涛、青葉台、代官山の山の手の影響で中目黒が中心になっていくのだろうか。
なんだか、垢抜けたお店が増えて、でかいビルが建って、訪れる人々が増えて賑やかになる。
でも、ひなびた下町の大鳥神社の酉の市で十分な気もするけど。
(2006年12月記)

渋谷区東四丁目(國學院大学高層棟若木タワー)

2007-06-27 06:21:40 | Weblog
新宿駅から山手線で渋谷駅へ。東口に出る。
六本木通りに入り、少し東へ歩き、途中、南へ曲って住宅街の中へ。
遠くからでも國學院大学の高層棟は見えるので、その高層ビルを目指して歩いていく。
國學院大学キャンパスに高層ビルの若木タワーがある。(建設中はこちら
西側を渋谷川が、渋谷付近の谷地を作りながら、北から南へ流れていき、広尾で流路を東に変える。
その谷地の斜面一帯に学校、諸施設が南北に連なっている。
青山学院大学や広尾高校なのだが、そこに國學院大学キャンパスもある。
國學院大学はもともと飯田橋にあったのだが、大正時代にこの地に移転してきている。
この地は、氷川神社の裏、若木が丘といったらしい。
もちろん、この時期は、國學院大学が移転しただけでなく、市街地が都心の外に広がり郊外が誕生した時期でもある。
明治神宮の造営も高級住宅地、松涛の開発も同じ時期だ。
明治通り、あるいは渋谷川でもいいが、西側への急な下り斜面を見ると、やはり崖の切っ先のような場所は、広範な施設や高層ビルが建つ場所なのだと確認できる。
つまり、あまり住宅地には向かない、ということだ。
ところで、移転し終えた数ヵ月後に関東大震災が起こっている。なんか逸話が残っていてもよさそうなんだけどどうなんだろうか。
そして、その関東大震災が、東京の郊外化にさらに拍車をかけることになる。
今では、東側に広尾、青山、麻布の山の手、高級住宅地、西側に渋谷という商業地、それらに挟まれた閑静な緑の多い一帯にキャンパスは位置している。
あるいは、その境界線を形成しているのかもしれない。
(2006年12月記)

西新宿高層ビル街(西新宿7丁目再開発)

2007-06-26 06:21:03 | Weblog
西武新宿線で西武新宿駅へ。
青梅街道を西へ歩く。西新宿七丁目、青梅街道の北側に西新宿7丁目再開発の工事現場。
青梅街道の北側では、山手線の東側は歌舞伎町の歓楽街、西側は下町っぽい街並みとなっている。
そして、青梅街道の北側のうち、西側の西新宿七丁目、及び西新宿八丁目のさらに北側には東西に税務署通りが通っている。(山手線から東側は職安通りと呼ばれている)
以前は、たしか税務署通りは細い道だったと記憶している。2車線もなかったかな。
その道の両脇は、ちょっとした飲食店やその他のお店が並んでいたと思う。
いつしか道幅が広がりお店もなくなり、普通の道路になってしまった。
たぶん、青梅街道のバイパスになるのだろう。
税務署通りの北側は北新宿ということで完全な住宅街になっている。ということは、この税務署通りまでは西新宿の高層ビル街が拡大する可能性はあるわけだ。
もっともすぐにどかどかと高層ビルが建つとは思えないけれど。
西新宿7丁目再開発の工事現場のすぐ東隣には、古刹、常円寺がある。
そして、常円寺より東側は、今ではどうだかわからないが、ちょっと前には、中古レコード屋がいっぱいあったりした。なんでだったんだろう。いわれはよくわからないが。
何十年もすれば、このような新宿の下町やディープな穴場のような場所がまた消えていくのだろうか。
消えてゆくはかなさがあるからこそ、そのような場所に何か惹かれるものがあるのかもしれない。
それに、西新宿高層ビル街の北の果てが、すぐに北新宿の住宅街というのも、なんか味気ないような気がするし。
(2006年12月記)

千代田区九段南(九段第3合同庁舎 千代田区役所本庁舎)

2007-06-25 06:22:01 | Weblog
高田馬場から東西線、九段下駅で降りる。
日本橋川に沿って南へ。川の上を首都高速池袋線の高架が伸びている。
日本橋川を渡り、西側に出ると九段第3合同庁舎 千代田区役所本庁舎がある。(建設中はこちら
他には、すぐ北側の隣にはあおぞら銀行の本店がある東京堂千代田ビルがある。
さらに少し離れて北には、新しい高層ビル、北の丸スクエアがある。もとは、破綻した日本債券信用銀行があった場所だ。
その破綻した日本債券信用銀行が再生したのが東京堂千代田ビルに入居しているあおぞら銀行だ。
南側には住友商事竹橋ビルがある。正式には一橋総合ビルという名前で、NTTコミュニケーションズも入居している。この一帯では古株だ。
南西側、通りの向こう側には清水濠。もう江戸城なのだ。
日本橋川も一見すると、堀みたいなものかと思うが、大雨が降ると土色に濁った水が上流から押し寄せるように流れ下ってくるので、そのときは川なんだと実感する。
千代田区は、皇居を含めた皇居の周囲に位置する。
したがって、南側、および東側は役所とオフィスしかなく、夜間人口も極端に少ない。
西側は、番町、麹町、最初の山の手であり、今でも屈指の高級住宅街となっている。対照的に北側は、下町、神田だ。
たぶん、現在では普通に存在する、この山の手、下町という組み合わせも日本で最初ではないかな。
千代田区は、そのような社会がワンセットになっているというわけだ。(役所、オフィスという働く場を含めて)
そして、西の山の手と北の下町の境界線にはビルが壁のように建ち並ぶ。
なんだか、今の格差社会を作るために、いままでの歴史の積み重ねがあったとするなら、わびしい気もするなあ。
(2006年12月記)

川崎駅東口(パレール三井ビル)

2007-06-24 12:31:48 | Weblog
川崎駅東口へ。市役所通りにはアーケードがあり、昔ながらの地方都市の風情だ。
少し市役所通りの南側に入ってみる。というより土地勘がないので迷い込んでしまったのだが。
川崎駅東口は大通りがやや放射状に伸びているので、駅から遠ざかったところで大通りから街中に入り込むと、自分の位置を見失ってしまうものらしい。
そういうことも街歩きの楽しみなのだろうが、この悪天の中では少しあせってしまう。
市役所通りと第一京浜の交差点にやっと出る。
雨、風はますます激しくなる。
この交差点の南西側にパレール三井ビルがある。付属する住宅棟としてパレール川崎もある。ともにバブルの頃の竣工だ。
また、この交差点にはペデストリアンデッキのような非常に規模の大きい、あるいは贅沢な歩道橋が架かっている。
川崎ハローブリッジという名前で、こちらはバブルの終わり頃に完成している。日本初のエレベーター付き立体横断歩道橋ということだ。
日本初といわれてもこれを契機にエレベーター付歩道橋がどんどんできて普及したとも思えないけど。
バブルならではの現象なのかもしれない。
この歩道橋にも上ってもみたが、風雨が激しいうえに、もう日没のような暗さになってしまった。
川崎の街を巡りたかったが諦めるしかない。
バブルの頃の再開発の一陣の風が川崎駅の西口から吹きつけ、東口を吹き渡り、第一京浜を抜けていった。その跡がこの川崎ハローブリッジのような気もする。
(2006年12月記)

JR川崎駅東口(川崎駅前タワー・リバーク)

2007-06-23 11:24:38 | Weblog
大森駅へ戻り京浜東北線に乗る。
川崎駅で下車。
東口に出る。駅前には川崎駅前タワー・リバークがある。
いよいよ川崎まで来たか、という感慨より先に、この季節外れの大雨にはまいった。
川崎駅前タワー・リバークは、ビル名のとおり、駅の近くかもう駅ビルといっていいくらいの場所にある。今回は季節外れの嵐のような天気なので駅に近いのは助かる。
バブルの頃、川崎駅周辺にまとまってビルが建ったが、そのうちの一つだ。
川崎が、今のようなきれいな街になったのは、安定成長期、そして特にバブルの頃なので、この川崎駅前タワー・リバークも川崎では、もはや古株ということだ。
もともと川崎は、西口に工場、東口は下町の商店街や歓楽街、といった街だった。
現在では、西口は工場が次々と再開発され、新興都市になっている。また、JRの川崎駅と東側の京浜急行の川崎駅の間には高層ビルが建ち並び、そして、東口は、普通の地方都市の繁華街、という感じだろうか。
昔のイメージと今のイメージがこれほど急激に変わった街を他に知らない。
川崎というと、自分の年代だと、京浜工業地帯、あるいは下町、というイメージが強い。
しかし、最近の川崎のイメージは高度成長期に誕生し拡大した多摩田園都市という山の手ニュータウンなのではないだろうか。
特にバブル期以降は、この山の手ニュータウンの影響が川崎の駅周辺を圧倒的に変貌させてきた。
さて、まずは川崎駅の東口に出てみる。京浜急行川崎駅の高架をくぐって繁華街へ向かうが、ますます雨と風は激しくなる。
まるで変貌続ける川崎の街のようだ、というとできすぎな表現だろうか。
(2006年12月記)

大森駅東口(ウェリスシティ大森タワー建設現場)

2007-06-22 06:44:10 | Weblog
高田馬場から山手線に乗り品川へ。
京浜東北線へ乗換え、大森駅で下車。
東口へ出て、下町の商店街を抜けて南東方向へ歩く。
少し歩くとウェリスシティ大森タワーの建設現場がある。
大森駅は西口は山の手、東口は下町と対照的な街並みになっている。
高層ビルについては、山の手に高層ビルが建つことはないので、西口にはない。
高層ビルは下町の広がる東口に建つ、ということになる。
他の高層ビルとしては、いすず自動車の業務棟群である大森ベルポート、高層住宅棟の大森プロストシティレジデンスがある。
東口、特に南東部は昭和の時代から取り残されたような下町だ。
ところで、最近は、テーマパークで昭和の時代の街並みを再現しているものがある。
しかもそれが人気を呼んでいるらしい。
過去を賛美し、未来を否定することがいいか悪いかは別にして、大森駅東口のこの場所、ここならその昭和の時代の街並みがタダで見られる。
しかも急ごしらえのセットなんかじゃなくて、本物だ。
この日は初冬なのだが、雨が降り出していた。しとしと降るような冬の雨という感じではなく、秋口の大粒の雨だ。
差している傘を打つようにして降る雨に昭和の街並みは浸されていく。
重く垂れ込めた黒い雲が空を覆い、歴史遺産のような店々の店主たちは、腕組みをしてその空を見上げていた。
その見上げている方向は、ちょうどウェリスシティ大森タワーが、できあがれば最上階あたりになるだろうか。
そして、ウェリスシティ大森タワーが完成したら、やはりそのようにして見上げるのかもしれない。
今、テーマパークのような昭和の街並みは、徐々に高層ビルに変貌している。
月島のもんじゃ焼きみたいに本当にテーマパークになってしまわないと昭和の下町は生き残れないのかもしれない。
(2006年12月記)

神奈川県大井町(第一生命大井本社ビル)

2007-06-21 06:24:12 | Weblog
国分寺駅から中央線、西国分寺駅から武蔵野線。府中本町駅で南武線と乗り継ぐ。
そして登戸駅で小田急線に乗る。
町田、相模大野あたりが最初に出会う、郊外の地方都市だ。
そこを過ぎ、田園風景の中を進み、海老名、本厚木に達する。2番目に出会う地方都市である。
本厚木を越えるともはや田園と荒野が広がるばかり。
鶴巻温泉あたりから田園すら見られなくなる。それでも住宅はいたるところに建っている。
こういうところから通勤してくるサラリーマンもいるんだろうなあ。
やがて山間を縫うように線路は続く。
ひらけたところに出たと思ったら新松田駅。酒匂川沿いの町だろう。
さっそく、御殿場線の駅に向かう。ところが、まったく電車はない。
(御殿場線相模金子駅が第一生命大井本社ビルに距離的には近いがクルマ社会ということであれば最寄り駅ということではなかっただろう)
1時間に2本ぐらいかな。これでは乗換駅でもなんでもないではないか。
ホームに2人ぐらい客はいるが、たぶん、電車が来る頃は3人ぐらいになっているだろうか。
こんなに不便なら交通手段としてクルマを選ぶのは仕方ない。
といっても、こんなところから都心に通勤する客もさすがにいないだろうし。
こうなったら、バスだ、と思ったらバスも同じだった。
最後の手段。タクシーしかない。
タクシーは、すんなりと乗れる。やはりクルマ社会にならざるをえない。
タクシーは、東へ進み、川音川を渡り、丘陵地を登っていく。
登りきったところに、第一生命大井本社ビルがある。
この丘の上は第一生命の領土みたいになっていて、他にも社員寮や住宅もあるらしい。
あまり見栄えのいい高層ビルでもないけど、一応、訪れたということで、さて帰ろうか、と思ったら、帰るときの事を考えていなかった。
バスもないし。一瞬、途方に暮れる。
考えていても仕方ない。たしかここが丘の上なら駅までずっと下り坂というわけだ。タクシーで来たときの道はもう頭に入っている。
ということで、駅まで坂を走って下ることにする。季節が真夏でなくてよかった。
ところで、第一生命大井本社ビルがなんでこんな山の中の辺鄙な場所にあるかというと、おそらく近くを通る東名高速のおかげではないだろうか、と思うのだが。
そこで、実は高速バスも考えた。しかし、それでは他の街に寄れなくなってしまう。できれば、厚木ぐらいには寄りたいものだと考えて、小田急線で来た、というわけなのだ。
新松田駅に着き、すぐに小田急線へ。御殿場線は完全なローカル線なのに小田急線は通勤電車なみに本数があるというが妙な感じだ。
結局、厚木の街に着いたのは暗くなってからとなってしまう。
厚木の街については、次の機会ということにする。
とにかく交通機関という条件が満たされていれば、この場合は、東名高速と小田急線だが、高層ビルが建つこともありえる、ということかな。
でも、首都圏では、他にはリゾート関係以外の高層ビルでこんな辺鄙な場所に建っている例はない。
(2006年12月記)