retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

有楽町線豊洲駅(豊洲三丁目8-4街区計画)

2008-10-31 06:12:36 | Weblog
築地市場駅に戻り、再び、都営大江戸線に乗り込む。
月島駅で降りる。
朝潮大橋を渡り、南側の晴海へ。
大川端リバーシティの再開発が終わって、次に月島あたりに、ぼこぼこと高層住宅が建った頃、よくこのコースで、豊洲まで行ったな。
月島の次は、豊洲の再開発だろう、と思ったのだが。
大通りをさらに南へ歩き、行き当たった通りに入り、東へ。
今度は、春海橋。通りは幅広でクルマには、便利そうだが、バスぐらいしか、通っていない。閑散としたものだ。
春海橋を渡りきると、その先は豊洲となる。
昔は、一帯が石川島播磨重工業の工場地帯だったのだが。
赤錆びた鉄の塊、剥き出しのコンクリート、何本ものクレーン、そして、低層の広そうな工場棟がいくつもあった。
それが、今や高層住宅を中心にしたニュータウンに変貌している。
変われば変わるものだ。
芝地、樹木、そして、集合住宅が広がる。
もっとも、まだ、豊洲の街は、半分も完成していないので、この先、どうなるかわからないが。
いったん、大通りを北東へ歩き、途中、南東へ。
再開発地へと入っていく。まだ、更地の方が目立つようだが、そのうち、賑やかになるのかな。
また、北東へ向きを変えて歩いていく。
芝浦工業大学の南東側、豊洲運河沿いに豊洲三丁目8-4街区計画の工事現場がある。
この高層住宅で、再開発も一区切り、というところか。
今のところ、高層住宅の計画がないからだ。
そう考えると、感慨深いものがある。
霧雨に煙るこの工事現場も、すぐに、新しい街に生まれ変わるだろう。
そして、新しい時代が始まる。
(2008年5月記)

都営大江戸線築地市場駅(浜離宮パークサイドプレイス)

2008-10-30 05:09:25 | Weblog
南北線の麻布十番駅と都営大江戸線の麻布十番駅は、いちおう、地下通路でつながっていて、乗換駅、ということになっているが、実はけっこう離れている。
乗り換えるわけではないので、別にいいのだが。
ちなみに、さっきの古川の橋に近い方が南北線の駅、少し北側に歩き、環状3号線まで行くと、都営大江戸線の駅、となっている。
今回は、都営大江戸線に乗るので、ちょっと北に歩き、環状3号線の方まで行って、麻布十番駅へ。
都営大江戸線で築地市場駅へ行く。
地上に出ると、目の前には、朝日新聞社の社屋がある。
さらに、築地市場も近くにあるのだが、お店などの類はいっさいない。
築地市場から離れた場所にある、日比谷線の築地駅の方が、近くに、魚市場関連のお店が多くあるので、こちらの方が、築地市場に来た、という感じがするな。
だから、一般的には、日比谷線の築地駅の方が便利だ。
だったら、なんで、地下鉄の駅が設置されたのだろう、と思ってしまうが。
たぶん、魚市場が豊洲に移転した場合、その跡地を再開発するはずだが、完成した後、最寄り駅として活用するからだろう。
いまは、がらんとしているばかりだが、その頃には、賑やかな街になっているのかもしれない。どうなるかわからないが。
近くにある新大橋通りへ入って南へ歩く。
新大橋通りは、浜離宮に行き当たると、向きを北へと変える。
その向きを変えた部分、通りの南側に浜離宮パークサイドプレイスがある。
竣工は、失われた10年が終わって、都心集積化が始まった頃だ。
都心とはいえ、なんでこんな辺鄙な場所に建っているのだろうと思ってしまうが。
おそらく、築地市場が移転後の跡地の再開発を見越してなのだろうな。
それはいいとしても、小雨が降り続いていて、しかも、肌寒くて仕方ない。
さっきの都営大江戸線の築地市場駅へ急いで戻ることにする。
寒々とした風景を見ていると、余計、寒くなる気がする。
(2008年5月記)

都営大江戸線麻布十番駅(パシフィックタワー麻布十番)

2008-10-29 04:57:35 | Weblog
環状3号線を再び東に歩いていく。
すぐに南北に伸びる大通りとの交差点がある。
南北線、都営大江戸線の麻布十番駅は、この交差点の地下だ。
交差点の南東側では、通りに沿って、南から北へ流れてきた古川が、直角に東側に向きを変えている。
すなわち、古川は、その交差点からは、環状3号線の南側を東へと流れていくのだ。
その古川の南側には、通りが一つ、東へと伸びている。
交差点からその通りへ入って、少し東に歩く。
すぐに通りと古川に挟まれたところに、パシフィックタワー麻布十番がある。
アクシア麻布よりも少し前に竣工している。
この一帯は、ちょっと昔には、環状3号線から一歩、奥へ入った、という感じで都会とは思えないような静かな雰囲気がしていたのだが。
今では、この通りの南側でも、広範囲の再開発を行っている。(三田小山町地区再開発および三田小山町第2地区再開発
昔の風景がどんどんなくなっていっている。
ということで、パシフィックタワー麻布十番も訪れたし、通りを西に歩き、麻布十番駅へ向かうことにする。
途中、古川を渡っている時、古川の上は、一の橋公園、という広場になっているのだが、そこから、古川の方を何の気なしに見た。
すると、古川の両岸にはパイプのようなのが設置してあり、そのパイプに沿っていくつも開いている穴から、勢いよく水が、噴き出していた。
一面にたちこめる水しぶきで、川全体が覆われ、川面が見えないほどだ。
この珍しい光景は、実は、以前にも、何度か遭遇しているのだけど、でも、何度見ても、驚いてしまうなあ。
たぶん、何らかの実用の目的があって、行われているんだろうけど。
ただ、このような光景を見ていると、やはり、テーマパークのパフォーマンス、あるいは、アトラクション、という風にも感じてしまう。
もっとも、真夏なら、さぞかし涼しげな景色なんだろうが、あいにく、今日は、小雨でなおかつ肌寒い天気だ。
早く、地下鉄に乗り込んだ方がよさそうだな。
(2008年5月記)

都営大江戸線麻布十番駅(アクシア麻布)

2008-10-28 06:11:05 | Weblog
さっきの環状3号線に戻り、また、南へと歩いていく。
通りはカーブを描きながら、向きを東へと変えていく。
鳥居坂の入口を過ぎ、さらに、東へと歩いていくと麻布十番となる。
もう少し、歩いていくと、南北に伸びる大通りとの交差点があるが、その手前、通りの北側にアクシア麻布がある。
失われた10年の後、都心集積化の頃に竣工している。
麻布十番は、この高層住宅が竣工した、都心集積化の時代から、最も変化しつつある地域の一つだろうな。
そもそも、ここらへんには、それ以前、南北線も都営大江戸線もなかったのだから。
ずっと昔には、都電があったのだろうが、その頃は、都心ではなく、郊外だったのだろう。
このように、何も交通手段がなければ、クルマでしか近付けない、ということになる。
だから、静かな環境や昭和の取り残された雰囲気があったのだろう。
現に、通りの南側に入ったところには、商店街があり、そして、麻布十番温泉、というのもあったのだ。
でも、その麻布十番温泉も、最近、なくなってしまったらしい。
ひょっとしたら、昭和のレトロ温泉テーマパーク、ということで残ったのかもしれないが。
もっとも、すぐ南側には、山の手住宅地が広がっているので、観光地にはならないだろうなあ。
商店街だけは、細々と、懐かしの商店街テーマパーク、としては残るかな。
六本木、青山には、そのような商店街は、もう残っていないから、それなりのテーマパークとしての需要はありそうだ。
そして、その他の昭和の取り残された部分は、高層住宅になっていくのだろうか。
それはそれでいいのだけど、自分にとっては、ゆったりできたであろう、温泉がなくなるような場所は窮屈な感じしかしないな。
ただ、通過していくだけの街だ。
(2008年5月記)

都営大江戸線六本木駅(六本木ヒルズレジデンスD棟)

2008-10-27 05:12:20 | Weblog
西新宿五丁目駅で再び都営大江戸線に乗る。
六本木駅で下車。
相変わらず、立体迷路のようで、どこに出るのだか、さっぱりわからない。
日比谷線の駅構内に向かう。
日比谷線の方が昔に完成したので、地下の構造がすっきりしているような気がしたのだが。
地上に出ると、東西に伸びる六本木通りと南北に伸びる外苑東通りとの交差点。
交差点の南西側には、有名なアマンドがある。今でも、この店の前で待ち合わせる、なんて風習はあるのだろう。
見たところ、まったくないみたいだけど。
その脇には、シシリア、という、これもまた有名なイタリアレストラン。
昔、やはり、バブルの頃かな、一回だけ入ったことがある。
今でも覚えているのが、えらく店内で待たされた、ということだけだ。
もう、行くことは、ないだろうからいいけど。
これらの店の前から南西方向に下り坂の細い道が伸びている。
昔は、もう少し、繁華街のような感じだったような気がする。今見ると、ただの寂しい通りになってしまったようだ。
坂道をどんどん下っていくと、幅広の通りに出る。環状3号線だ。
青山から南下し、六本木通りをトンネルでアンダーパスして伸びてきている。
このトンネルが、延々と開通しなかったらしい。だから、環状3号線も、長い間、寸断されたままだったのだ。
逆にいえば、だからこそ、都心にあっても、誰も容易に近付けない、スノッブの街たりえたわけなんだろうけど。
環状3号線の渡ると、その西側は六本木ヒルズ、となる。
幅広な美しい通りが西へ一直線に伸びている。
その通りの南側に六本木ヒルズレジデンスD棟がある。
その西側には、さらに巨大な六本木ヒルズレジデンス
スノッブは、この区域内に移ったわけかな。
なるほど、これなら、交通網が遮断されていなくてもいいわけだ。
(2008年5月記)

都営大江戸線西新宿五丁目駅(住友不動産西新宿ビル6号館)

2008-10-26 07:49:24 | Weblog
西武新宿線で中井駅へ。都営大江戸線乗り換える。
西新宿五丁目駅で下車。
この日も天気がよくない。
休みの日で天気がよかった、というのは最近では、記憶にないな。
地下鉄の駅から地上に出ると、すぐに東西に伸びる方南通りがある。
東に行けば、西新宿高層ビル街。もう、その壁のように聳え立つ高層ビル群の姿が見えているが。
西に行けば、中野、杉並の住宅街、となる。
今回は、西の方に歩く。
歩いていくと、すぐに、南北に伸びる山手通りとの交差点がある。
その交差点の北東側に住友不動産西新宿ビル6号館がある(工事中はこちら)。
最近、竣工した高層ビルだ。
最初の計画だと、たしか、高層住宅だった、と思うのだが。
高層オフィスビルでも高層住宅でも、どちらでもいいんだけど、つまりは、交通量の多い、幅広な山手通り沿い、あるいは、近くを流れる神田川沿いの高層ビル、ということかな。
この高層ビルの建っている場所の地名は、本町、ということなのだが、山手通りをちょっと南に行ったところに、幡ヶ谷不動尊があることでもわかるとおり、幡ヶ谷の中心地だったので、本町、となったらしい。
もっとも、今では、一帯は、都心の住宅地、ということなので、中心、といわれても、ピンとはこないだろうな。
住友不動産西新宿ビル6号館についても、西新宿高層ビル街の拡大、という感じだし。
とすると、山手通りぐらいまでは、高層ビル街が広がるのかもしれないな。
それにしても、小雨が降り続いているので、高層ビルを見上げているのは、堪らないなあ。加えて、今日は、肌寒いのだ。
冷たい雨の中、方南通りを東へ歩く。
さっきの西新宿五丁目駅に戻る。
(2008年5月記)

総武線御茶ノ水駅北側(順天堂大医学部付属順天堂病院1号館)

2008-10-25 04:23:38 | Weblog
都営新宿線で本八幡駅まで行き、総武線に乗り換え、東京方面へ。
城東の街を総武線は都心へと走っていく。
下町のような雰囲気は、浅草橋、秋葉原までで、そこから先は、文京山の手に入っていく。
御茶ノ水駅で下車。
西よりの改札を出る。
東よりの改札だと、聖橋があったり、ニコライ堂があったり、湯島聖堂があったりするのだが。
西側だと、とりあえずは、明治大学があるのかな。
あと、なんといっても、本の街、神保町へ通じている。
幅広の通りが南に伸びていて、しかも、坂道になっていて、その坂道を、ずんずん、下っていくと、神保町に行き着くのだ。
もっとも、今回は、反対の北側に向かうけど。
御茶ノ水橋で神田川を渡る。
正面には、東京医科歯科大学の病院棟が建ち並んでいる。
神田川に沿って東西に伸びる通りに入り、西へ。
その通りの北側、東京医科歯科大学の病院棟の西側には、順天堂大学の病院棟がある。
その中の順天堂大医学部付属順天堂病院1号館が高層ビルとなっている。
竣工は、バブルが崩壊する頃だ。
バブルの勢いで建ったのだろう。
それにしても、バブルで建った高層ビルが、順天堂大学、というのも、この地域一帯を象徴しているように思えるな。
でも、なぜ、この一帯には、こんなふうに大学病院や大学、予備校が集まっているのだろうか。巨大な古本屋街もあるし。ちょっと不思議に思ってしまうが。
ひょっとしたら、江戸時代からある湯島聖堂の影響だろうか。
実は、江戸時代には、湯島聖堂の敷地は、今よりも、もっと広くて、目の前の順天堂大学も、その敷地の跡地に建っているらしい。
けれど、そのことが、どのように現代と結びついているかは、わからない。
個人的には、文京山の手から、ちょっと下町っぽい神保町に到る、だらだらした坂道がモラトリアム的には居心地がいいかな、と思ってしまうのだが。だから、学校関係の施設がたくさんある、と。
あんまり関係ないかな。
帰りは、御茶ノ水駅から中央線に乗る。
今のところ、のんびり、神保町に滞留している気分になれない。
神保町は、今度、ということにするかな。
(2008年5月記)

都営新宿線篠崎駅(クリオスカイタワー篠崎)

2008-10-24 06:12:08 | Weblog
住宅地の中、細い道を北東方向へ戻る。
南北に伸びるさっきの道路へ出て、北へ歩く。
静かな住宅街で、実にのどかな雰囲気だ。並木もきれいだし、歩道も広い。
船堀駅に戻り、再び、都営新宿線に乗る。
船堀駅には、実は、もう一棟、トキタワーという高層ビルがあるが、改装中だったので、次回、訪れることにする。
都営新宿線は、船堀駅を出ると、再び地下へ。
千葉県を目指して走っていく。
都営地下鉄なのに千葉県を目指す、というのも、変なのだが。
それに輪をかけるわけでもないが、バブルの頃、さらに、千葉ニュータウンまで延伸する計画もあったらしい。
あの頃は、なんでもあり、ということだったんだろうな。
もっとも、成田新高速鉄道が開通すれば、千葉ニュータウンの通勤路線は、成田空港アクセス路線に変貌してしまうので、ひょっとすれば、千葉ニュータウンの新たな通勤路線として、都営新宿線の延伸計画が、再び、持ち上がるかもしれない。
たぶん、可能性はとても低いだろうけど。
千葉県の手前、篠崎駅で下車。
駅近くには、クリオスカイタワー篠崎がある。
バブル崩壊後、失われた10年の終わり頃に竣工している。
最近、よく見掛ける、駅前高層住宅なのだろう。
一帯は、この駅周辺の狭い範囲だけ、都会的で、あとは、のどかな住宅街が広がっている。
話は変わるが、近くに鹿骨(「ししぼね」と読む)という、一度聞いたら、忘れそうにない、地名の場所がある。
語源については、諸説あるようだが。
昔、行ってみたころがあるけど、別に鹿の骨が累々と横たわっている荒れ野ではなくて、緑の多い、静かな住宅地だったけど。当たり前かな。
(個人的には、漢字よりも、読みの方に意味があるとは思っているが)
のどかな住宅地には、別れを告げ、次に向かう。
篠崎駅に戻り、再び、都営新宿線へ。
(2008年5月記)

都営新宿線船堀駅南口(第一三共製薬研究開発センター中央棟)

2008-10-23 05:03:26 | Weblog
東大島駅で都営新宿線に乗り込む。
鉄橋で、荒川を越え、対岸へ。
船堀駅で降りる。
大きな河川の両岸には、それぞれ岸に、駅があったりするが、この場合もそのパターンのようだ。
南北に伸びる通りに入り、南へと歩いていく。
実は、この船堀駅周辺も、東大島駅一帯と同じ時期に再開発されたらしいのだが、まったく、気が付かなかった。
広大な地域を一気に再開発する、といった感じではなかったからなのかな。
たぶん、大きな川の向こう側なので、見過ごしていただけなんだろうけど。
静かな住宅地をさらに、南へ。東西に伸びる小川を渡ったところで、南西方向へ伸びる細い道に入る。
住宅地の中をそのまま南西へと歩いていく。
北側には、第一三共製薬の研究開発センターの敷地が広がっている。
しばらく歩いていくと、その敷地内に高層ビル、第一三共製薬研究開発センター中央棟が見えるようになる。
竣工は、バブルの終わり頃。やはり、東大島駅周辺や船堀駅周辺が再開発されたのと同じ時期だ。
こちらの方も、残念ながら、気付かなかったなあ。
ちなみに、当時は、第一製薬、三共製薬が統合する前、ということで、まだ第一製薬の研究開発センターだったのだが。
バブルは、地方の時代だったので、こんな辺鄙な場所も、このように、盛んに再開発されたんだろうな。あるいは、都営新宿線で都心に直結している、というのも大きかったに違いない。
でも、あの当時、第一製薬と三共製薬が統合して、一つになる、なんて、誰も思わなかったはずだ。
そう考えると、時代の流れを感じてしまうなあ。昔には、もう二度と、戻らない、ということだ。
だけど、建築物だけは、こうして、残っている。
だとすると、思い出、というのと、建築物は、似ているのかもしれない。
もっとも、製薬会社には、特に、感慨もないんだけど。
(2008年5月記)

都営新宿線東大島駅南口(コーシャタワー小松川)

2008-10-22 04:53:46 | Weblog
また団地棟の間を抜けて、南へ歩き、東大島駅に戻る。
今度は、駅の南側へ行く。
こちらは、北口よりもやや遅れて、団地棟が建っている。
その団地棟を縫って、南へ歩いていくと、コーシャタワー小松川がある。
この高層住宅を見上げると、やっぱり、懐かしさを感じてしまう。
古い、といっても、まだ、それほど、年月が経っているわけではないんだけど。
ただ、あちこちに植わっている木々の緑がいかにも濃くて、よく茂っている様を見ると、やはり、流れた時間の長さを感じてしまうなあ。
今、歩いている、この古びた歩道の路面も、その上を、住民が何度も通って、いつしか、歩きやすくなった、そんな不思議な感じがする。
実際、そのようなことは、ないのだけど、敢えて言えば、生活が染み付いてきた、ということだろうか。
昭和の取り残された一帯が、再開発によって消滅し、近未来都市になる。そして、その近未来都市も、時間が経てば、こうして、古びていくのだな。
北へ歩き、再び、東大島駅へ。
ところで、この東大島駅の真下には、北から南へと、旧中川が流れているのだが、その旧中川は、江東区と江戸川区の境にもなっている。
江戸時代、このあたりには、この旧中川しかなくて、地域の境界線になっていたのだが、その痕跡なのだろう。
当時の境界線、すなわち、旧中川の西側は、大島で、東側は、今の新小岩あたりまで、小松川だったらしいのだ。
小松川、といえば、小松菜で有名だが。
その小松菜の生産地には、大正時代に入って、隅田川に合流していた、荒川の大きな流れが、移されてくる。一帯は、東西に分断され、もう、のどかな、農村地帯ではなくなってしまったらしい。
そういう風に時代を遡って見ると、何が、新しくて、何が、古い、なんて考えるのは、無意味な感じがするな。
(2008年5月記)