retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東西線九段下駅(ホテルグランドパレス)

2008-09-30 06:12:59 | Weblog
東西に伸びる大通りを今度は西へ。
再び日本橋川を渡り、南北に伸びる、目白通りに戻る。
目白通りの西側には、ホテルグランドパレスがある。
竣工は、高度成長期の終わり頃だ。
その頃、まだ、東京ドームなんてなかったな。その代わりに、飯田橋には、広大な貨物駅が広がっていた。
水道橋みたいな下町的な雰囲気だったかな。
でも、西南方向の台地は、山の手屈指の高級住宅地、番町、麹町がある。
だから、高級な高層ホテルが建ったのだろうか。
皇居、靖国神社も近い。
すぐそばの九段下駅には、東西線はすでに通っていたが、都営新宿線は、まだ開通していなかったかな。
そして、この高層ホテルが竣工した時期というのは、オイルショックは、あるのだけど、高度成長を達成するのは、あともう少しのところなのだ。
日本の安定期まで、あと少し。
ふと、バブルの頃、何回か、このホテルの喫茶店に寄ったことを思い出した。
窓越しに滝を模した噴水があったと記憶している。
さらに、たしかリムジンバスの時刻表があったのかな
自らを海外旅行者と錯覚させるには、十分だったなあ。
一緒に行った友人が、いたずらでフロントに、リムジンバスの時間について、ひつこく聞いていたことを、今になって、おかしく思い出す。
もう、最近は、そんなことは、まったくないなあ。
この目の前の高層ホテルが建った頃、すぐ手の届くところにあった未来は、もはや潰えてしまって、今はない、ということだな。
だけど、時代は変わっても、こうして、その頃の建物は残っている、というのは、ちょっと侘しい気分になってしまう。
しかも、今日でのんびりした休みは終わりだし。
もう、明日は、仕事なので、帰らなければ。
のんびりした時間、幸福な時間は、長くは続かないのだ。
(2008年4月記)

総武線飯田橋駅南口(千代田ファーストビル東館)

2008-09-29 06:13:35 | Weblog
外堀通りを西に歩き、南北に伸びる目白通りとの交差点に戻る。
この広い交差点の南には外堀、神田川があって、橋が架かっている。
その橋の上を目白通りは、南に伸び、総武線の高架をくぐってからは、南東方向に伸びていく。
目白通りの東側一帯は、いまや、高層ビル地帯になっている。
バブルが崩壊した後の失われた10年、その次に訪れた都心集積化の時代に、ここらへん一帯の風景は、一変してしまったなあ。
このビル群の中、最高峰の高層ビルは、ガーデンエアタワーだ。
その他、何棟もの高層ビルが、南側に連なるように並んでいる。
目白通りに沿って、南東へと歩いていく。
途中、東側に幅広の道路が伸びている。
その幅広の通りに入り、東へ。
一応、飯田橋から続くビル群の南側の果ては、このあたりまでなのだが。
東へと歩いていくと、上に首都高の高架がかぶさった日本橋川が南へと流れている。
日本橋川を越えると、その先には、千代田ファーストビル西館が聳え立っている。
そして、その東側に、一回り小さな千代田ファーストビル東館がある。
飯田橋からの高層ビル群の東側の連なりはここまでかな。
ただ、ビル群、といっても、南側の九段下から竹橋、さらに大手町、と高層ビルは、点々と連なっているので、大手町まではつながっているようにも見える。
だから、逆にいえば、大手町が飯田橋まで拡大した、ともいえるかもしれない。
もっとも、そんなことは、どっちでもいいことだな。
ところで、千代田ファーストビル東館の東側を南北に伸びる大通りがあるが、その大通りを渡るとき、北側を見ると、水道橋駅界隈と東京ドームシティの一部が遠くに見える。
いつも思うが、この光景だけは、昔と変わらないのだ。
総武線によくあるような水道橋駅周辺の様子、江戸時代からある三崎神社、そして賑やかな下町っぽい後楽園。(道路の先なので、実は景色としては見えないけど)
遠くに見えるその景色、かつて、この場所にあった景色だったのかもしれない。
ただ、遠くにある景色は、そこまで歩けば辿り着ける。でも、失われた景色には、もはや、辿り着けはしない、そう思ってしまうのだが。
(2008年4月記)

総武線飯田橋駅北口(トヨタ自動車東京本社ビル)

2008-09-28 07:20:31 | Weblog
練馬駅に戻り、都営大江戸線に乗る。
都庁前駅まで行き、ホームの反対側に停まっている車両に、乗り換える。
このままずっと乗っていてもいいのだが、かなり遠回りになってしまうので、逆方向に向かう車両に乗り換えたのだ。
都営大江戸線は、新宿の住宅地の地下を通り、やがて飯田橋駅へ。
地上に出ると、総武線飯田橋駅の北側に出ることになる。
よく利用してい東西線だと総武線飯田橋駅の南側になるのだが、今回は、北側の方が都合がいい。
歩道橋で幅広の目白通り、外堀通りとの交差点を越え、東に出る。
さらに、東西に伸びる外堀通りの南側を東へと歩いていく。
しばらく行くと、小石川後楽園の南側、外堀通りの北側に、東西に並ぶようにして、高層ビルが建っている。
その一番西側にトヨタ自動車東京本社ビルがある。
竣工は、高度成長期の終わった、安定期の頃だ。
高層ビルとはいえ、世界のトヨタにしては、ビルの規模としては、小さいような気もするが、まだ、世界のトヨタになる前なので、こんなものなのかもしれない。もっとも、世界のトヨタになっても、このままだけど。
たしか、この高層ビルが建った頃、トヨタ自動車工業、トヨタ自動車販売が合併しているな。それが、世界のトヨタへの布石だったのかな。
北米に進出したのも、この頃なので、ひょっとしたら、このビルが建った時期が、転換点だったのかもしれない。
それはともかくとして、こうして、グローバル企業、世界のトヨタは、世界を席捲していき、現在に至っているのだ。
でも、入れ替わりに、格差社会とかワーキングプア、というのが入ってきてしまった気もする。
なんとか方式にしても、一企業の利潤を基準にした、ただの労働の損切りでしかない、そう思えるし。
もともと労働には、社会への参加、社会の関係性の保持、という別の価値がある。
そのような価値が、破壊されてしまったのかもしれない。
目の前にあるトヨタ自動車東京本社ビルが建った頃、高度成長を達成した安定期、将来がこんなになるなんて、想像できなかっただろうなあ。
こんなのどかな日和だと、その当時を思い出してしまう。
そして、その当時に、時計の針が逆に回って、時間が戻ってくれないかと、夢想してしまうのだ。
(2008年4月記)

西武池袋線練馬駅南口(練馬区役所庁舎新館)

2008-09-27 03:42:29 | Weblog
ゴールデンウィーク、とはいえ、実は、次の日、自分は、休みではないのだ。
ただ、連休ではないけど、周りがこんなふうに連休モードだと、自分もつられてしまうなあ。
光が丘駅に戻り、再び、都営大江戸線に乗る。
練馬駅で下車。
地上に出ると、東西に伸びる千川通りに出る。
この千川通り沿いと南側の幅広な目白通りとの間には、お店が建ち並び、賑やかだ。
千川通りを西に歩き、途中で南へ曲る。
そのまま南へ進むと、目白通りの南側に練馬区役所庁舎新館がある。
この高層ビルの竣工は、バブルが崩壊した頃だ。
本当は、バブル崩壊、という時期ではなく、例えば、次のような感じで竣工を迎えたかったのかもしれない。
近未来的な光が丘団地も完成し、都営大江戸線もその光が丘団地から練馬駅までは伸びてきた。
これから、この練馬にも、輝かしい未来がやってくる。
そういったわけで、練馬区役所庁舎も、その未来へのモニュメントとして、斬新なデザインをほどこされ、華々しく登場する、というふうに。
しかし、あえなく、バブルは崩壊し、輝ける未来は、失われた10年の暗黒の中に沈み込んでしまうのだ。
練馬区役所庁舎新館は、ひょっとしたら、未来のモニュメント、ではなく、バブル崩壊のモニュメントになるところだったのかもしれない。
でも、その後の都心集積化の時代、駅前再開発が盛んになり、なんだか、練馬区役所庁舎新館は、練馬駅の再開発のモニュメントになったかのようにみえる。
練馬駅からペデストリアンデッキが練馬区役所まで伸びてくるとしたら、まさに、そうなんだけど。
もっとも、そんなことは、どっちでもいいことなんだろうな。
のどかな休日だと、本当にそう思ってしまう。
ただ、練馬区役所庁舎新館を見上げると、正面が全面ガラス貼りになっていて、初夏の陽光を反射してやけに眩しいのだ。
(2008年4月記)

都営大江戸線光が丘駅(光が丘パークタウンプロムナード十番街2-10-1号棟)

2008-09-26 03:59:03 | Weblog
東へ歩いて光が丘駅に戻る。
団地の中は、休日、ということもあって、のんびりした雰囲気で包まれているな。
自分もその空気に浸って、ゆっくりしたいところだ。
光が丘駅のあるあたりにくると、大通りの上に幅広な歩道橋が架かっている。
大通りを渡り、北側へ。
階段を登ると、その歩道橋の上に出られる。
歩道橋といっても、幅が広いので、細長い広場のようになっているのだが。
その細長い広場のような通りは、そのまま、まっすぐ北へ伸び、広大な光が丘公園まで続いている。
なるほど、車道の空間と歩道の空間を上下に分けているわけか。
このように、上の広場のような歩道を歩いている限り、下の車道は、目に入らない。
それにしても、この細長い広場のような空間の、なんと和やかな雰囲気に満ち溢れていることだろう。
思い思い住民が集まり、初夏の陽射しに中、寛いでいる。
まさに、ゴールデンウィークの光景だ。
そのような細長い広場の東側に光が丘パークタウンプロムナード十番街2-10-1号棟がある。
竣工は、バブルの頃。
光が丘団地全体の建設工事がようやく完成間近、という頃だ。
そういえば、光が丘団地は、高度成長を達成した時期に工事が始まり、安定期からバブルの頃に完成しているのだな。
完成した時期から見ても、さらに、このようなのどかな風景から見ても、ひょっとしたら、この団地は、戦後日本のある一つの到達点だったのかもしれないなあ、という気がしてしまう。
しかし、到達はしたのだが、その先がなかったのかもしれない。
その先がないまま、だんだん古びて、レトロになっていくのだろうか。
でも、こんな5月のこんな天気のいい日だと、そんなことは、どうでもよくなってしまう。
(2008年4月記)

都営大江戸線光が丘駅(光が丘パークタウン大通り中央3-9-3号棟)

2008-09-25 04:49:30 | Weblog
ゴールデンウィーク、というのは、一週間の中に土日以外にも休みが入っている状態で、すでに、そういうのだろうか。
本当は、どうだか、わからないし、厳密にどうこういうものでもないのだろうが。
でも、そうだとしてみると、4月の最後の週を含めて、2週間が、とりあえず、ゴールデンウィーク、ということになる。
そして、この日は、その最初の一週間の中に入る。
しかも、春先からの悪天からようやく開放されて、天気はいい。
そんな中、ひさしぶりに練馬区の光が丘団地へ向かうことにする。
西武新宿線中井駅で都営大江戸線に乗り換えれば、終点が光が丘団地だ。
ひとまわり小さな都営大江戸線の車両は、練馬を過ぎ、やがて、光が丘駅へ滑り込む。
地上に出ると、5月の陽光が本当にまぶしい。
団地の木々の葉がその陽光を受け、時にきらきらと輝き、まるでステンドグラスを見ているようだ。
なるほど、古い団地は、木々の緑が深いものだが、光が丘団地も古い団地、ということになるのかな。
光が丘団地ができたのは、バブルの頃だ。
ということは、20年ぐらいしか経っていないけど。
でも、今となっては、もはや、完成当時の未来的な雰囲気はもうないなあ。
どことなく、全体的に古びてきている。
でも、それでいいのかもしれない。
東西に伸びる広々としたメインストリートを西に歩く。
このメインストリートの南側に高層住宅棟が東西に並ぶように何棟か建っている。
西へ西へと歩いていくと、光が丘パークタウン大通り中央3-9-3号棟がある。
この高層住宅が建ったバブルの頃、こうして、この高い住宅棟を見上げると、その果てに、輝かしい未来が見えていたに違いない。
いま見ると、未来はなくなり、レトロな建造物にしか見えないが。
けれど、この日、見上げると、まぶしいくらいに輝いて見えたのだ。
見上げる空が、初夏の陽射しに溢れていたからなんだけど。
(2008年4月記)

山手線田町駅西口(三田M-Square)

2008-09-24 04:05:32 | Weblog
第一京浜を急いで歩いていく。雨はそれほど本降り、というわけではないが。
急ぐに越したことはなさそうだ。
札の辻の交差点を歩道橋で渡る。
さらに南へと歩いていく。
しばらくすると、第一京浜の西側に三田M-Squareがある。(工事中はこちら
最近、竣工した高層ビルだ。
田町駅周辺の激変は、このように、まだまだ、続いている、ということだ。
もっとも、田町駅の西側は、三田M-Squareで、一段落かな、とは思うのだが、将来はわからない。
実は、この後、もう一箇所、まわることになっているので、先を急ぐことにする。
さっきの札の辻交差点に戻る。
交差点を東へ。
札の辻陸橋で山手線を越え、田町駅の東側に出る。
たしか田町駅東口の南側にまた新しい高層住宅が建つようなのだ。
その工事現場を見にいくことにしていた。
札の辻陸橋を渡りきったところで、すぐに南へ曲り、そのまま南へ南へと歩いていく。
たいてい、高層ビルの工事現場は、広い更地になっているので、遠くからでも見当がつくものなのだ。
はたして遠くにそれらしき場所もあるようなので、安心してどんどん南へ歩いていく。
ところが、道は団地のような場所で唐突に途切れ、その向こうには公園しかない。行き止まりなのだ。
しかも、東側に出るためには、新芝運河を渡らなければならないが、橋がない。
引き返すしかない。
そのとき、ついに、篠つく雨が降る出してしまう。
それでも、まだ、橋があるかもしれないと思い、新芝浦運河沿いまで行ってみるが、はっきりと、札の辻陸橋の袂まで戻らないと橋はない、と悟った。
新芝浦運河沿いには、板張りの桟橋みたいな側道があって、雨の降る中、そこを北へ北へと急いで歩いていく。
だが、もう次の目的地に行くことは、まったく諦めている。
やはり、時代の流れには追いつかないのかな。雨に打たれながら歩いていると、どうしても、そう感じてしまうな。
それでも、急いでいるのは、雨に濡れないため。
雨に濡れないために急いで歩くしかない。
(2008年4月記)

山手線田町駅西口(田町センタービル)

2008-09-23 03:28:11 | Weblog
いつまでも雨に濡れて立っているわけにはいかないので、目黒通りに出て、急いで坂を登り、目黒駅を目指す。
コンビニで傘を買えば済むことだけど。
天気予報のこともあるので、意地でも買いたくはないのだ。それに家には、急な雨のためにコンビニで買ってしまったビニール傘がもう何本もあるし。これ以上、増やしたくない。
目黒駅に着くと、すぐに山手線に乗る。
田町駅で下車。
西口に出る。
田町駅と第一京浜の間には田町センタービルがある。
バブルが崩壊した頃に建っている。
たしか、その時期の数年前に京浜東北線が快速運転を開始したのだが、当初から、停車駅に田町駅が選ばれていた。
なぜ、浜松町駅や新橋ははずされて、田町駅が選ばれたのか。
当時、田町駅周辺は、再開発で激変する、ということになっており、それを見越して、快速運転の停車駅になった、ということだったはずだ。
だが、田町センタービルが建った頃、あえなく、バブルは崩壊。失われた10年が始まろうとしていた。
そういうことで、芝浦アイランドなんてすっかり忘れられて、樹木が生い茂り、どこかの海上の古代遺跡みたいになっていたっけ。
ところが、失われた10年が終わって、都心集積化の波がやってくると、田町駅周辺には、高層住宅棟がものすごい勢いで建ち始める。
そして、その激変は、現在でもまだ続いているのだ。
でも、例えば、芝浦アイランドの再開発、当初は、もっと、違ったように記憶しているのだけど。
オフィスビルもあるような普通の再開発、だったような気もするのだ。
こんなに高層住宅が建って、高層住宅団地みたいになってしまった。
だとすると、ひょっとしたら、田町センタービルは、本当は、商業ビルにすればよかったのかもしれない。
今さら、もう、遅いけど。
小雨の中、第一京浜を南へ急ぐ。
(2008年4月記)

山手線目黒駅(アトリア目黒タワー)

2008-09-22 06:14:19 | Weblog
外苑前駅から銀座線へ。
天気はますます怪しくなってきた。
傘を持っていると心強い、という天気だ。
地下鉄で移動しているうちに、天気が回復している、なんてことは、期待できそうにないなあ。
終点の渋谷駅。
はたして天気はどうなっているだろう。ますます、雨が降りそうになっている。
急いで、JRの渋谷駅へ向かい、山手線に乗る。
目黒駅で下車。
西口に出ると、目の前には、最近できたパークタワー目黒
そのパークタワー目黒の南側には、目黒川に向かって、急な下り坂がある。
行人坂、と言われている坂だ。その坂を下っていく。
とても急な坂で、以前、雪が残っているときに通って、難儀したことを覚えている。
坂の途中には、南側に大円寺という古いお寺。
江戸時代、このお寺が火元になった火事が、麻布、日本橋、千住まで焼き尽くす、大火になっている。
行人坂大火、明和の大火、と言われている、江戸三大大火の一つだ。
大火は、さぞ大変だったとは思うが、当時の江戸の街の広がりがわかって興味深い。
さらに、坂を下り、下りきったところには、南側に目黒雅叙園がある。
そのすぐ西側は南北に目黒川が流れ、太鼓橋、という橋が架かっている。
もちろん、今は架け代わっているのだが、江戸時代からある橋だ。
目黒川に沿って、北へ歩いていく。
やがて、東西に伸びる目黒通りへ出る。
目黒通りを渡ってさらに北へ。
目黒川の西側にアトリア目黒タワーがある。
最近、竣工した高層住宅だ。
この高層住宅を見上げていたら、ポツポツと雨が落ちてきた。
やはり降ってきたか。天気の移り変わりには、所詮、抗えないものだ。
そして、時代の流れに対しても同じかもしれない。
目黒川沿いや目黒駅周辺は、ずいぶん変わった。
その変化に自分は、到底、追いつかないのだな。
雨に濡れながらそう思わざるを得ない。
(2008年4月記)

銀座線外苑前駅(青山ザ・タワー)

2008-09-21 02:44:40 | Weblog
さらに青山通りを西へと歩いていく。
南北に伸びる外苑西通りとの交差点。
外苑西通りに入って南へ。
少し歩いていくと青山ザ・タワーがある。
失われた10年の後、都心集積化の時代に竣工している。
白亜の外壁、滑らかな曲線を持つ外観が美しい建物だ。
この建物のすぐ東側には広大な青山霊園が広がっている。
そのような青山ザ・タワーのデザインは、隣接する青山霊園の静謐なイメージには、相応しいのかもしれない。
もっとも、実は、青山霊園には、一度も行ったことはないのだけど。
とても有名な霊園なので、そのような静謐な雰囲気はあるとは思う。
そんな、まったく縁のない青山霊園なのだが、少しだけ記憶に残っていることがある。
バブルの頃に同僚が、やたらと、青山霊園で花見をしたいと誘っていたのを思い出すのだ。
そのときは、なんで霊園で花見をするのかと、訝しく思ったものだ。
それに、花見、といえば、「青山」のような流行の最先端の街とは、どうも、そぐわない気がした。
飛鳥山公園、千鳥ヶ淵、そういったところが順当なのかもしれない。
だが、昔からそうだったかどうか、わからないけど、青山霊園、といえば、今では、花見の名所らしい。
いつから、そういうことになったのかわからないが。
もちろん、バブルの頃、青山霊園に花見に行く、という動機は、桜の美しさよりも、バブルの熱気に絆された、ということの方が大きかったのは確かなのだ。
つまり、「桜」よりも「青山」、という街に惹かれたのだ。
そう考えると、ひょっとしたら、広大な青山霊園は、都市集積化の流れも加わり、霊園としての場、ではなく、テーマパークになってきているのかもしれない。
そして、このようなテーマパークの近くに、おしゃれな高層住宅が建った。それが、青山ザ・タワーなのかもしれない。
(2008年4月記)