retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜東北線大井町駅西口(ファミーユ下神明)

2008-11-30 02:53:58 | Weblog
再び、JR蒲田駅に戻り、京浜東北線に乗り込む。
大井町駅で下車。
西口に出る。
見通しのいい、広々とした駅前広場の南側にある、阪急のデパートは、建て替えられて、高層ホテルになるそうだ。
駅前広場から一直線に西に伸びる幅広のメインストリートに入り、西へ少し歩く。
途中で北へ向きを変える。
北へ向かうと、西へ伸びている東急大井町線の高架に行き当たる。
その高架の南側を東西に伸びる通りに入り、西へ歩く。
しばらく進んでいくと、区役所通りとの交差点がある。
この交差点の南側にも、再開発の予定があり、すでに、更地も広がっている。まだ、着工する気配はないけど。
区役所通りに入り、北へ。坂道を登っていく。
少し行くと、区役所通りの東側には、品川区役所。
そして、品川区役所の通りを挟んで西側には公園があり、その公園の北側にファミーユ下神明がある。
竣工は、失われた10年の後の集積化の時代だ。
たしか、バブルの頃の壮大な計画だと、さっき通ってきた、区役所通りの東側や東急大井町線の北側まで、大崎からビル群が拡大してくる、というはずだったのだが。
あえなくバブルは崩壊してしまったので、そのような壮大な計画は、実現することはなく、夢となったようだ。
代わりに、高層住宅、ファミーユ下神明が、一棟だけ建ったわけかな。
帰りは、駅前から一直線に西へ伸びるメインストリートを歩いてみる。
このメインストリート、途中で、唐突に途切れているのだ。この途切れた部分が、バブルの勢いの限界だった部分なのだろうか。
駅前広場に着くと、南側にある阪急デパートの解体作業の光景が目に入る。
そういえば、あの解体されているデパートの南側は、バブル直前に流行った、「時代屋の女房」、という小説、映画の舞台だったはずだな。
もっとも、その小説、読んでもいないし、映画も見ていない。流行った、ということを覚えているだけなんだけど。
でも、解体の真っ最中の阪急デパートの建物を見ていると、せめて、映画だけでも、見ておこうかという気になった。
バブル前の街並みすら、どうなるかわからないし、なくなってしまい、ひょっとしたら、その代わりに、「時代屋の女房」歴史テーマパークでもできるんじゃないか、と思ったからだ。
(2008年6月記)

京浜東北線蒲田駅西口(片柳学園蒲田キャンパス工事現場)

2008-11-29 04:03:34 | Weblog
鶴見駅に戻り、再び、京浜東北線に乗る。
蒲田駅で下車。
蒲田駅周辺も、下町の雰囲気がある商店街で、いい感じだ。
なんだか、今日は、下町のレトロ商店街巡りをしているような気もするな。
西口に出て、居酒屋のあるような路地を北西に歩いていく。
少し進むと、東西に伸びる多摩堤通りに行き当たる。その通りの北側に片柳学園蒲田キャンパス工事現場がある。
片柳学園、というと、聞いたことのない学校だが、学校名ではなく、学校法人の名前らしい。
完成すれば、たぶん、日本工学院専門学校、あるいは、ひょっとして、東京工科大学、ということになるのかな。
ここも、最近、多い、教育施設の高層校舎棟、なのだろう。
ところで、このような、下町の居酒屋地帯の果てに、なんでまた、理系の学校があるのかと、不思議に思うかもしれない。
しかし、下町、といっても、日本の場合は、町工場が混在していたりするので、その中に、理系の学校があっても、まったく、違和感はない、と自分は思うのだけど。
たとえば、秋葉原の街は、理系と下町が、合体したみたいに見えるし。
そのような、京浜の下町、蒲田には、とても古い神社があったりもする。
稗田神社、という神社だ。蒲田神社、というのが、本来の名前らしい。
蒲田という地名が、非常に古いので、その地名と同じ名前の、蒲田神社も、やはり、かなり古い神社、とは思う。
このように、とても古い神社、昭和のレトロ商店街、近未来の理系学校の高層校舎棟、それらが混ざり合っているのが、蒲田の街の面白さだろう。
もっとも、さっき、訪れた、大森駅周辺も、いろいろな時代が、混在していたなあ。
昔のものが残っているだけなら、寂れている、ということと変わらない、と思う。新しいものがあるからこそ、昔のものも、生き生きするのかな。
本当は、どうだか、わからないけど。
でも、この蒲田の街を見ていると、そういう考えが、実感できるような気がする。
(2008年6月記)

京浜東北線鶴見駅東口(鶴見駅東口地区工事現場)

2008-11-28 04:10:06 | Weblog
レトロ商店街の中を北へ歩き、大森駅へ向かう。
大森駅で京浜東北線に乗る。
鶴見駅で降りる。
鶴見駅周辺も京浜の下町の雰囲気がして、レトロっぽくて、いい感じだ。
レトロな大森からレトロな鶴見へとやってきたわけかな。
川崎が未来都市になってしまった、となれば、後は、鶴見駅しかない、と思ってしまうけど。
でも、東口に出て、南へと歩くと、広範囲で再開発の工事中。
鶴見駅東口地区工事現場、となっている。
川崎駅の次は、いよいよ、鶴見駅か。
時代の流れなので、仕方ないかな。
もっとも、駅周辺は、たしかに、昭和の時代から取り残された、下町の雰囲気はするけど、駅の西側、総持寺のさらに西側や周囲は、閑静な山の手住宅街、となっている。
このように、鶴見の街は、一概に、下町、というだけでもないのだ。
ひょっとしたら、西側は、だいたい、山の手なのかもしれないな。
そして、その山の手が鶴見駅まで拡大した、ということなのだろう。最近の再開発は、だいたい、どこも同じだ。
ところで、鶴見駅の、線路に沿って、北側には、鶴見神社、という神社がある。
以前は、杉山神社、という名前だった、ということだ。
延喜式にも載っていて、とにかく、相当に古い神社だ。(延喜式に載っている杉山神社が、現在の鶴見神社かどうか、という点については、諸説あるらしい)
このように、太古の昔に、神社がある、ということは、その当時は、地域一帯の中心でもあったのだろう。
そういえば、鶴見川の大きく蛇行する、穏やかな流れを見ると、鶴見川の河口は、船にとっては、天然の良港だったのではないか、と思える。
さらに、住みやすそうな、高台、台地も近くまで迫っているし。
やはり、中心であっても、不思議はないだろうな。
そのように考えると、鶴見が太古の中心なら、現代でも中心になるのかもしれない。
ということで、再開発の工事が始まった、なんていうわけではないんだろうけど。
とにかく、川崎の次は、鶴見の再開発、であることは、間違いなさそうだ。
(2008年6月記)

京浜東北線大森駅東口(ウェリスシティ大森タワー)

2008-11-27 04:50:12 | Weblog
京浜急行の大森海岸駅まで戻り、駅の南側を東西に伸びる通りを西に向かう。
かなり前に訪れたときは、京浜の下町、という感じがしたものだが、今は、開けていて、きれいな街並みになっている。
きれいになったのはいいが、なんだか、よそよそしい感じもするな。
JR大森駅前近くまで行き、南へ。商店街の中を歩いていく。
大森駅の南東側に広がるこの商店街だけは、昔から変わらないようだ。まるで、昭和の時代にタイムスリップしたみたい。
そのような商店街を南へと歩いていくと、忽然と、白亜の巨大な高層住宅。ウェリスシティ大森タワーが現れる。
ごく最近、竣工している。(工事中はこちら
真新しい高層住宅の建っている、すぐ隣は、昭和のレトロ商店街、という光景は、なんとも奇妙で興味深い。
こちらも、古い時代と現代が混在しているようだ。
古い時代、というと、たしか、大森には、有名な、大森貝塚、というのもあったな。
縄文時代、というのは、ちょっと、古過ぎかもしれないけど。
ただ、大森貝塚、といっても、その場所は、町名では、品川区大井町、ということになるらしい。
大森駅近くだから、大森貝塚、でもいいんだろうけど。
もっとも、大森駅そのものが、本来の大森であったかどうか、という疑問はあるのだけど。
つまり、大森というのは、もっと、ずっと、南側の、京浜急行大森町駅あたりだったはずだからだ。江戸時代の大森宿も、そのあたりにあったようだし。
しかも、大森駅ができた当初の駅の住所は、入新井村だったのではないだろうか。大森ではないのだ。
たぶん、こういうことだったのではないかと想像する。
大森貝塚発見者のモースが、列車に乗っていて、車窓の風景の中に貝塚を発見したとき、場所を確認するため、乗り合わせた誰かに、今さっき、通った、駅は、何駅か、と聞いたのかもしれない。
大森駅、という回答を得て、発見された、貝塚には、大森貝塚、の名が与えられた、という訳だ。
とすると、大森貝塚の、「大森」は、大森駅のことを指している、と思えばいい、ということかな。
そのように、大森の中では、最も、有名な大森貝塚なのだが、残念ながら、行ったことはないなあ。
さすがに、有名なだけあって、こちらは、もう、歴史テーマパークにはなっているようだけど。
(2008年6月記)

京浜急行大森海岸駅(東京マスタープレイス)

2008-11-26 06:14:25 | Weblog
さっきの通りを西に歩いて、再び、青物横丁駅へ戻る。
品川シーサイドの圧倒的な近未来のビル群とは一転して、今度は、江戸情緒が溢れる一帯、となる。
そんな風に、近未来と江戸時代が隣り合っている、というのは、不思議な光景だな。
青物横丁駅で京浜急行に乗る。
大森海岸駅で下車。
駅の南西側には、大森プロストシティレジデンスがある。
駅の東側に出て、南北に伸びる、交通量の多い幅広の、第一京浜に入り、南へと歩いていく。
しばらく歩いていくと、第一京浜の東側に東京マスタープレイスがある。
竣工は、バブルが崩壊した後の失われた10年、その後の都心集積化の頃だ。
駅からは、少し離れているが、さっきの、大森プロストシティレジデンスとともに、駅近くの高層住宅、となっているのだろう。
第一京浜を北へ進み、駅に戻ることにする。
途中、第一京浜の西側には、磐井神社という古い神社がある。
延喜式にも載っている、相当に歴史のある、正真正銘の古社だ。
さっきの青物横丁駅は、江戸時代だったのだが、今度は、もっと、もっと、昔だ。
あまりに昔なので、磐井神社のいわれや由来は、本当に、さっぱり、わからない。
わからないながら、ちょっと考えてみることにする。
近くを東海道が通っていたのだが、そもそも、その東海道は、江戸時代が始まってから開通している。それ以前は、西側の高台、尾根道が交通路だったはずだ。
とすると、江戸時代よりも古い磐井神社の近くには、幹線道路はなかった、ということになる。
道路がなかったならば、たぶん、磐井神社は、もっぱら、海の道、海運、あるいは、漁業に深く関係していた神社、とは考えられないだろうか。
例えば、ひょっとしたら、航海をするときの真水を調達するための井戸があって、それで、船が集まってきて、そして、いつしか、そこに神社が祀られたのかもしれない。
もっとも、そんな伝説、聞いたこともないしなあ。
へたな考えは、もう、ここらでやめた方がいいだろう。
それにしても、太古の昔から、神社が残っている、というのは、感動的でもある。
歴史テーマパークとして、取り上げれば、町おこしになるかもしれないな。
(2008年6月記)

りんかい線品川シーサイド駅(クレストタワー品川シーサイド)

2008-11-25 04:42:45 | Weblog
南北に伸びる海岸通りとの交差点を越え、さらに、東へと歩いていく。
北側には、品川シーサイドの高層ビル群がある。
品川シーサイドの中の住宅棟、品川シーサイドビュータワーも近い。
さらに、東へと進んでいくと、京浜運河に行き当たる。
その京浜運河の西岸にクレストタワー品川シーサイドがある。(工事中はこちら
最近、竣工した高層住宅だ。
さっき通った品川シーサイドの高層ビル群に、このクレストタワー品川シーサイドも含まれる、とすれば、品川シーサイド高層ビル群の、最後の高層ビルになるだろう。
まだ、京浜運河沿いにビルが建つかもしれないけれど、これほどの高層ビルには、ならないはずだからだ。
一応、一連の品川シーサイドの再開発も一段落、ということかな。
この品川シーサイドのビル群が建ち始めたのは、たしか、バブルが崩壊した後、失われた10年の終わり頃だろうか。
だからだろうか、そのような、時代背景の下、再開発が始まったので、バブルの頃とは、かなり様相が異なっている。
どのような点が異なっているかというと、バブル的な再開発が地方への拡大、という側面があるのだが、品川シーサイドには、そのような地域的な拡がり、という感じはまったくしない、というところだ。
例えば、この再開発ビル群の中には、高層オフィスビルばかりではなく、高層住宅、さらには、商業施設、そして、鉄道路線の駅もあり、拡大、というよりは、特定の地域にいろいろな施設が集中、密集しているのである。
まるで、大昔の城塞都市、といった感じだろうか。
実際、すべてが、ビル群の中に揃っているので、品川シーサイドの中にいれば、その外に出なくても、用が足りてしまうのだろうな。
もっとも、本当にそのような生活をしているのかは、知らないけど。
実に効率的でいいのかもしれない。
でも、そうなると、周りの地域は、歴史的なテーマパークにでもならなければ、衰退するしかない。
それも、時代の流れなので、仕方ない、といえば、それまでなんだけど。
(2008年5月記)

京浜急行青物横丁駅東側(住友不動産品川ビル)

2008-11-24 08:18:06 | Weblog
高田馬場駅から山手線に乗り、品川駅へ。
品川駅で京浜急行に乗り換える。
都心の路線では、やはり、京浜急行が一番好きだな。
乗る機会は、あまりないけど。
青物横丁駅で下車。
この青物横丁駅、という駅名は、青物横丁、という商店街があるから付いた名前ではなく、江戸時代に、一帯に、青物市場があったから、ということらしい。
たしか、江戸時代、東海道の品川宿の南端は、このあたり、品川寺のあるところまで、だったはずだ。
そういうことで、その品川宿のはずれに、青物市場が設置されていた、ということなのかもしれない。
青物横丁駅の東側に出て、南へと歩いていく。
実は、江戸時代の品川宿の南端にあったという、品川寺は、この駅のすぐ東側に接するように位置している。
だから、駅前、といっても、駅前広場があったり、商店がある、といった感じではなく、ずいぶんと、森閑とした、あるいは、厳粛な雰囲気がするのだ。
そのような駅近くから、京浜急行の高架に沿って南へと歩き、東西に伸びる通りに入り、東へと向きを変える。
この東西に伸びる通りは、大井町駅まで伸びている。たしか、最近、開通した通りだったかな。
しばらく、東へ歩いていくと、通りの北側に住友不動産品川ビルがある。
竣工は、バブルが崩壊した頃だ。
このような辺鄙な場所に、忽然と高層オフィスビルがある、というのは、いかにも、バブルな感じがするなあ。
今、この一帯を見てみると、オフィス街、というよりも、江戸の宿場町、品川宿の歴史テーマパーク、という雰囲気の方が合っている。
ちょっと東側を南北に伸びている、海岸通りに対する遮蔽物、という役にはたっているかもしれないけど。
とはいえ、ここらへんに、高層オフィスビルが建つ、ということは、もうないはずだ。
その意味では、この高層オフィスビル、希少価値はあるのかな。
(2008年6月記)

山手線上野駅東側(上野学園音楽ホール棟工事中)

2008-11-23 02:32:26 | Weblog
不忍通りを南へ歩く。
途中、不忍池に沿って、東へ向きを変え、そのまま、東へと進んでいく。
南北に伸びる大通り、中央通りに行き当たる。
不忍池の緑溢れる、風光明媚な景観、そんな雰囲気は、もうここまで。
その中央通りから東側、山手線までの間は、アメ横などがあり、賑やかな商業地が南北に広がっている。
でも、なんとなく、昔ほど、迫力のある、賑やかさはなくなっているような感じだな。今日が雨降りの天気のためだろうか。
そんな商業地の中を、北へと歩いていく。
商業地を出ると、もう、上野駅となる。
上野駅の東側へ。
上野駅の東には、南北に伸びる、昭和通りがある。その昭和通りに入って、北へと進んでいく。
東西に伸びる浅草通りとの交差点を越え、さらに北へ。
途中、東側に曲り、街中に入る。少し入ったところで、再び、北へと歩いていく。
ほどなくして、上野学園の敷地が広がる一帯。
ついこの前、その敷地の中に、高層ビルの上野学園校舎棟が完成したばかりなのだが、その北側で、もう一棟、高層ビルの上野学園音楽ホール棟が工事中となっている。
最近、増えている、教育施設の高層棟の一つだろう。
さらに言えば、西側の文京山の手が、上野公園を越え、上野駅の東側にまで、広がってきた感じがする。
音楽学校らしいので、どう見ても、山の手、なんだろうな。
なんだか、上野の街が、妙に上品になっていくような感じがする。
ひょっとしたら、庶民的なアメ横が静かだったのは、雨が降っているため、というよりも、上野駅周辺が、山の手化してきたことが、原因なのかもしれない。
こうして見ると、今、降り続く雨の雫のように、時代が、どんどん、目の前を落ちていくような、そんな実感がするな。
そして、その時代は、過去となって、流れ去ってしまうのだ。
上野が賑やかだった昭和の時代も、そして、熱狂のバブルも、もはや、過去として、流れ去り、歴史の彼方へ、行ってしまったのだろう。
(2008年5月記)

千代田線湯島駅(池之端2丁目計画)

2008-11-22 06:14:05 | Weblog
再び地下に下り、大手町駅へ。
今度は、千代田線のホームへ向かう。
千代田線のホームは、東西線のホームの西端からさらに西側にある。
だから、結構、歩くのだ。
地下鉄だから、こんなふうに、あっちこっちにホームが散らばっていても、同じ駅、という扱いなんだろうな。
やっと、千代田線の大手町駅ホームに辿り着き、千代田線に乗り込む。
湯島駅で下車。
北側に歩いていくと、すぐに、眼前には、不忍池の雄大な光景。
いつ見ても、緑豊かな水辺の景観には心が奪われる。
都心近くにありながら、よく埋立てられずに残ったものだ。
たぶん、文京山の手が近いからだろう。
つまり、アーバンリゾート地、ということで残ったのかな。
不忍池の西側を南北に伸びる不忍通りに入って、北へと歩いていく。
しばらく歩くと、通りの西側に池之端2丁目計画の工事現場がある。
風光明媚な場所ではあるが、さすがに、池の畔、というと、高層住宅が建つしかないんだろうなあ。
まわりを見渡すと、なんか、じめじめしていて、薄暗い感じだし。
高台から見下ろせば、いい景色なんだろうな。
ところで、この池之端2丁目計画の工事現場には、以前、ソフィテル東京、という高層ホテル棟が建っていたのだ。
たぶん、高さ100メートル以上の高層ビルの中では、日本一、妙なデザインのビルだった、と思う。
竣工は、バブルが崩壊した頃だ。
そのような高層ビルなのだが、もう解体されて、なくなってしまったのか。
後、何十年も残っていれば、あの熱気に溢れたバブルの時代の生き証人として、人気が出たかもしれないのに。
残念だな。
でも、この高層ホテルの解体は、もうバブルの時代が再びやってくることは、永遠にない、ということの、一つの表れなのかもしれない。
つまり、ソフィテル東京があると、こんな奇想天外な建物を建てようなんて、考えるような、時代がまた来るんじゃないか、と錯覚してしまうからかな。
とにかく、バブルの時代から、また一つ、大きく、遠ざかった、ということだ。
(2008年5月記)

東西線大手町駅(新日鐵ビルヂング)

2008-11-21 06:14:21 | Weblog
西葛西駅に戻り、再び、東西線に乗り込む。
今度は都心へ向かう。
荒川を鉄橋で越えると、また、地下へ。
このように、東西線は、地下鉄なのに、荒川から東側は、終点近くまで高架になっている。開通した当初は、地下鉄にする必要がないほど、辺鄙な場所だったのだろうな。
つまり、高度成長期までは、何もない場所だったのだ。
それが、今では、こんなに大きな街になったとは。
時代の流れを感じるなあ。
そのような感慨に耽っているうちに、東西線は、やがて、都心へと入っていく。
大手町駅で下車。
大手町駅は、JRの東京駅に近いのだが、特に、東西線の大手町駅ホームは、他の地下鉄路線のホームよりも格段に、東京駅に近い。
ほとんど、東京駅、といってもいいぐらいだ。
たぶん、丸ノ内線や京葉線の東京駅ホームよりも東西線の大手町駅の方が、新幹線や中央線の東京駅ホームに近いだろう。
地上に出ると、東西に伸びる永代通り。
永代通りの南側は、もう、東京駅の日本橋口、となっている。
少し、東側に歩くと、永代通りの北側に、かなり古そうな新日鐵ビルヂングがある。
ビル名の漢字は、「新日鉄」でもいいのだろうけど、社名の「鉄」は、「鐵」の字を使っているので、やはり、「新日鐵ビル」の方がいいのかな。
竣工は、高度成長期の終わり頃だ。
その同じ時期に、八幡製鐵と富士製鐵が合併して、新日本製鐵が誕生したわけなのだが、とすると、新日本製鐵の誕生、ということで、新日鐵ビルが建ったのかもしれない。
そういえば、今、乗ってきた、東西線の開通も、この新日本製鐵の誕生、及び、新日鐵ビルヂングの竣工と同じぐらいだったはずだ。
新日本製鐵は、通勤路線まで用意していた、などということはないのだろうが、こんな風に揃うと、なにか、できすぎているような気もするな。
もっとも、たとえ、そうであろうと、そうでなかろうと、今では、もはや、ただの古いビル、というだけだ。
そのような古ぼけてしまったビルを見ると、どうしても、時代の流れを思わずにはいられない。
(2008年5月記)