retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜東北線大井町駅(新しい道路の延伸予定地)

2010-11-30 05:02:33 | Weblog
新しい道路を、さらに、西へ。
やがて、幅広な、道路は、尽き果て、更地と、住宅の中へ、埋没していく。
いちおう、公園なども整備しているので、あと、少しは、延伸するようだが。
ただ、いかに、幅広の通りとはいえ、これでは、袋小路。
少しの延伸でも、細い、南北の通りと、接続するだけ。
ということで、その先も、新しい道路の予定地、更地が、伸びている。
どこまで行くのだろうかと思い、予定地を辿って、さらに、西へ。
すぐに、南北に伸びる新幹線の高架、地上には、横須賀線の踏切。
そこを越えても、まだまだ、予定地は、続いているようだ。
そういえば、あたりには、そこそこに、広い通りは、ないみたい。
世田谷区のように、交通の便を、不便にさせて、住宅地への、外部からの、流入を、避ける、という考えなのだろうか。
たぶん、そういうこともあるのだろう。
そうなれば、閑静な住環境も、守られるわけだし。
でも、とすると、なぜ、今になって、幅広な通りを、作り始めたのかな。
たしか、世田谷区の住宅地にも、通りができつつある。
従来の、山の手、下町、という構図が、なくなりつつある、ということだろうか。
よくわからないけど。
ただ、駅前や、あるいは、都心中心部に、再開発が、集中している様子を見ていると、ひょっとして、そうなのかも、と思えてしまう。
地方や、郊外が、衰退していくのと、同じことかもしれない。
(2010年2月記)

京浜東北線大井町駅(東急大井町線高架沿いの新しい道路)

2010-11-29 04:18:46 | Weblog
大井町線高架の南側の通りを、西へと歩いていく。
街全体は、きれいになったのだが、どうやら、高架下までは、今のところ、手が届かないみたい。
そこだけ、昔日の面影があるからだ。
有体に言えば、たんに、古びているだけなんだけど。
そういえば、今、歩いている、この道、バブルの頃の地図を見ると、まだ、なかったみたい。
高架下は、古いが、道路は、新しいというわけか。
ところで、大井町に初めて来たのは、いつのことだったっけ。
バブルの終わり頃に、鳴物入りで、駅ビルが、オープンしたのだが、そのビルに、行った記憶があるので、そのあたりだろう。
そのとき、駅の南側が、下町っぽいなと、思ったものだが。でも、この、大井町の西の果てまでは、足を伸ばさなかったな。
あとは、昔、東急大井町線で、大井町駅まで、行ったことがある。
そう、そのときだ。大井町線の車窓から、道路の工事現場が、見えたのだ。
時期は、バブルが崩壊した後ぐらいだろうか。はっきり、覚えていないけど。
覚えているのは、新幹線の高架を潜ったあたりから、南側、延々と、工事現場が、連なっていたこと。
なぜか、つい最近だったような気がする。
すでに、あれから、何年も、何年も、経って、いつの間にか、工事は終了、新しい道路が完成していたわけだけど。
なにか、時代の流れに、取り残されたような気分だ。
とすると、この、古びた高架下と、自分は、実は、同じなのかもしれない。
(2010年2月記)

京浜東北線大井町駅(ブリリア大井町ラヴィアンタワー工事現場)

2010-11-28 07:28:48 | Weblog
大井町緑地児童遊園を西へと歩き、途中、北へ。
大井町線の高架の南側、西へ伸びる、通りに入り、そのまま、西へ向かう。
しばらくすると、南側に、ブリリア大井町ラヴィアンタワーの工事現場。
ずいぶんと、辺鄙な場所で、実際、大井町の街並みの辺縁に位置するわけだが。
でも、北側には、品川区役所がある。さらに、同じような、高層住宅、ファミーユ下神明もある。
だから、将来、いつになるのかわからないが、駅前とは、別の、街の中心になるのかもしれない。
例えば、この場所は、大井町線の下神明駅、大井町駅は、両方とも、歩いていける距離で、とても便利だ。
さらに言えば、大井町線高架の北側に広がる、広大な、JRの車両センター。
この一帯が、再開発されて、新しい街になる計画があったのだ。
そうなれば、北側の、大崎の街と、合体することになるだろう。
もっとも、そんな話は、バブルの頃のこと。
本当に、将来的には、様変わりしているのかもしれないけど、そんなことになるのは、たぶん、ずっと、先のことだろうな。
それに、そんな風に、新しい、巨大な街が出現したとして、それがどうした、と言われると、なんとも、答えようがない。
今は、バブルの頃のように、新しい街の出現を、皆で、共有する、ということもないだろうし。
とりあえずは、目の前に、高層住宅が、一棟、建つ、ということは、確かなのだが。
(2010年2月記)

京浜東北線大井町駅(立会川の跡の遊歩道 大井町緑地児童遊園)

2010-11-27 07:37:33 | Weblog
くねくねしているのは、立会川の流路跡だから、ということなのだろう。
その、立会川、かつては、東急東横線学芸大学駅近く、碑文谷公園の池から、南東へ、流れ下っていた、ということだ。
そういうことなら、いつか、立会川の源流を辿る、道行を、しなければならないな。
でも、今は、時間がないので、緑地公園内に留めるけど。
立会川は、そのまま、南東へと流れ、今の、駅前広場を横切り、大井町駅南側辺りで、JRを越える。
越えたところで、いったん、南側に流路を変え、しばらくして、再び、東へ。そのまま、海に、流れ込んでいるのだ。
ちなみに、大井町駅の東側からは、地表に、姿を、現すらしい。
見たことないが、たぶん、姿を現す、といっても、側溝みたいなものだろうな。
特に、河口は、そうなっているに違いない。
こうして見ると、同じく、かつての工場地帯、大崎の、目黒川に似ているのかも。
さらに言えば、五反田の繁華街に当たるのが、大井町駅南側の、一帯だろうか。
こちらは、かなり、賑やかな、場所だったらしいけど、今は、ひっそりとしている。
工場も、なくなったし、立会川も、なくなったので、当然かな。
今は、こうして、整備された、駅前広場と、緑地公園が、あるばかり、というわけか。
(2010年2月記)

京浜東北線大井町駅(立会川の跡の遊歩道 ネコの像 太郎と花子)

2010-11-26 04:59:18 | Weblog
高田馬場駅から山手線。品川駅で、京浜東北線に乗り換える。
大井町駅で下車。
西口に降り立つ。相変わらず、広々とした駅前広場、まっすぐ伸びるメインストリート、とても感じのよい、景観だ。
そんな駅前広場を、西へ進むと、北側に、一叢の木立。
立会川の流路跡なのだが、今は、緑地公園になっている。
その、緑地公園の入口に、二匹の、戯れているネコの銅像。
太郎と花子、という名前らしい。
なんでも、大井町に住んでいた、有名な詩人、萩原朔太郎に因んでいるそうだ。
名前は、知っているけど、詩は、疎いので、どういう、謂れなのか、まったく、わからない。
そもそも、大井町のどこに、住んでいたものやら。
これでは、終わってしまうので、いちおう、探してみると、そのもの、「大井町」という、詩作があった。
もっとも、内容は、暗澹。貧困と喧騒と薄汚さが満ち溢れている。
そう、今、大井町は、とても、きれいなのだが、実は、昔、大工場地帯だったのだ。
けれど、その、暗く鬱屈している中に、すごく、エネルギッシュな感じもある。
さらに言えば、そんな、大工場地帯、大井町を、萩原朔太郎は、たいへん、気に入っていた、ということだ。
そうでなければ、ここに、ネコの銅像なんか、なかっただろうけど。
だが、萩原朔太郎の愛した、喧騒の大工場地帯、最早、ここには、なくなっている。
今、あるのは、閑静な、景観だけ。
なんだか、あんまり、萩原朔太郎が、好きそうに、思えないのだけど。
(2010年2月記)

総武線飯田橋駅(小石川三丁目 伝通院)

2010-11-25 06:09:16 | Weblog
牛天神の鳥居から西へ伸びる小道を、そのまま、西へ。
参道という感じがしないのは、やはり、裏門だからかな。
すぐに、南北に伸びる通りに出る。別名は、安藤坂。
坂を上っていき、北西に伸びる、春日通りを越え、さらに、北へ。
その先には、有名な、伝通院。
増上寺、寛永寺、と並んで、江戸の町を代表する、徳川家と縁の深い、大寺院だ。
江戸時代は、さぞ、隆盛を誇っていたことだろう。
ただ、明治時代になって、徳川幕府が、倒れた後、風当たりは、相当、厳しかったに違いない。
それでも、なんとか、残り、今は、名刹として、知れ渡っているのだから、立派なものだ。
だが、明治時代の終わり頃、伝通院は、焼失している。増上寺も、偶然、同じ年に、大火事。寛永寺は、すでに、明治維新のときの戦火により、灰燼に帰している。
明治時代まで、残ったとしても、建物は、結局、消滅してしまったわけだ。
もっとも、その後、戦災があったりするので、残ることは、なかっただろうけど。
その、伝通院が焼失する直前、当日だが、作家の永井荷風が、訪れている。
江戸の時代から変わらぬ、伝通院。子供の頃の思い出がそのままに残る、心の拠り所。
訪れた翌朝には、もう、すでに、灰になってしまった、ということだ。
諸行無常。そういうことなのかもしれない。
でも、伝通院は、今、こうして、目の前にある。
しかも、なにやら、工事中。ますます、変貌しているみたい。
変化しても、それを受け入れられる、ということなのかな。
だから、こうして、変わらず、残り続ける。
どうだか、わからないけど。
伝通院を訪れたことだし、もう、帰ることにする。
安藤坂を下って、飯田橋駅へ。
冬晴れの、陽射しは、心なしか、少し、暖かかった。
(2010年1月記)

総武線飯田橋駅(春日一丁目 牛天神)

2010-11-24 05:03:00 | Weblog
細い路地を、北へ。
車道を、横切り、さらに、北へ進む。
突然、高台への、石段が、現れる。
牛天神の石段だ。
上っていけば、境内があるのだが、今回は、時間がないので、やめる。
昔、一度、訪れたことはあるけど。
見晴らしがよくて、とても、感じのいい、境内だったな。
創建は、おそらく、鎌倉時代か。
鎌倉時代だとすると、関東平野が、開拓された時代だ。
例のごとく、高台の突端なので、牛天神が、創建される前にも、先住民の、祭祀の場が、すでに、あったに違いない。
さっき、訪れた、諏訪神社は、たぶん、この、牛天神が、創建されたあと、しばらくして、麓に、できたのだろう。
それにしても、江戸名所図絵に載っている、牛天神の挿絵、今の、牛天神や、諏訪神社、あるいは、まわりの地形を、かなり、彷彿とさせていて興味深い。
時代が違うだけで、同じ場所なのだから、当然かもしれないが。
江戸時代と、違う点があるとすると、牛天神がある、高台の麓、諏訪神社との間に、神田上水が、昔は、流れていたこと。
表門は、南側にあったらしいのだが、今は、なくなっていること。とすると、今、目の前にあるのは、裏門、ということなのだが。
さらに言えば、裏門の北側には、階段ではなく、坂道、いわゆる、女坂が、かつては、あったらしい。
そして、その、女坂を下ったところに、牛石、というのが、あったようだ。
座った牛の形をしている、巨石だから、牛石なのか、どういう、謂れがあるのか、さっぱり、わからないが。
実は、今、その、牛石、丘の上、境内にあるのだ。
こうして見ると、変わるものもあれば、変わらないものも、ある。
歴史の流れというのは、本当に、不思議なものだな。
(2010年1月記)

総武線飯田橋駅(後楽二丁目 諏訪神社)

2010-11-23 07:30:42 | Weblog
再び、東へ。目白通りを渡り、さらに、神田川を渡る。
さっきの、新しい、道路に入り、東へ進む。
途中、北へ曲がり、そのまま、北へ。細い路地へと、入っていく。
急に、開けた場所、と思ったら、神社の境内だった。
諏訪神社というこじんまりとした神社。
この神社に、最初に来たときは、新しい道路なんて、影も形もなかったな。
道路の工事が、始まったとき、てっきり、その予定地に、諏訪神社が、入っていると思っていたものだ。
ちょうど、道路にするには、いい、空地だ、なんて。
あるいは、道路の脇に、真新しい、社を建てることで、済まされたり、という風に。
でも、新しい道路は、諏訪神社の、わずか、南側を、通ることになったようだ。
ひとまず、安心したけど。
ただ、諏訪神社の、すぐ、東側に、商店街があったような、記憶もある。
そちらの方は、完全に、無くなってしまったのだな。
その商店街、飯田橋ファーストタワーの南側を通る、細い道沿いに、かつて、あった、商店と、続いていたのかもしれない。
ひょっとしたら、諏訪神社の、門前町みたいなものだったのかも。
こんな風に、思いを巡らせるのだが、どうにも、どんな、街並みだったのか、もう、思い出せない。
カメラにでも、撮っておけば、よかったかな。
もっとも、それもまた、虚しいものだ。写真には、残っているが、現実には、存在していない、というのは、悲しい。
(2010年1月記)

総武線飯田橋駅(新小川町 新しい道路予定地)

2010-11-22 05:14:55 | Weblog
西へ向かい、再び、目白通りの側道。
さらに、西へ。神田川を渡り、そして、目白通りを、渡る。
目白通り、西側の歩道へ。
そこから、さっきの、幅広の通りの、延伸部分、予定地らしき、更地が少し、西へと、広がっている。
ちょっと前に、その、更地の、向こう側まで、行ってみたことが、あるけど、その時は、普通の、住宅地だったな。今も、そうかもしれないけど。
目白通りの東側は、完成したので、西側も、となるのかどうか。
ちなみに、計画では、そのまま、西へと、伸び、大久保通りに、合流するらしい。
たしかに、大久保通りは、東側では、さっきの、目白通りと、外堀通りの、交差点に出る。
立体交差しているわけではないので、あまり、便利ではないに違いない。
ということで、別の、方向に、抜ける道路を、作ろうとしているのかな。
ただ、あまり、交通の便を、よくしてしまうと、今まで、静かな、裏道、抜け道、のようだった、大久保通りが、普通の、通りになってしまうような気もする。
そういえば、バブルの頃、飲み会の二次会で、タクシーに分乗して、新宿に、向かったとき、大久保通りを、通ったんだっけ。
タクシーが、抜け道に、使う、通りなわけだ。
そういうことも、昔語りになるのかな。
もっとも、こうして、便利になるのは、結構なことだけど、そのたび、なんで、生活が、貧しくなっていくんだろうか。
(2010年1月記)

総武線飯田橋駅(飯田橋ファーストタワー)

2010-11-21 08:28:15 | Weblog
新しく新設された、大通りを、東へと、歩く。
すぐに、通りの、南側に、飯田橋ファーストタワー。
最近、竣工した、高層住宅だ。
実は、このビルの工事中のとき、一度も、訪れていない。
訪れる前に、完成してしまったな。
工事を始める前は、何度か、訪れたのだけど。
最近は、着工してから、完成するまで、短期間なのかもしれない。
それもあるだろうけど、単に、こちらの、のんびりしていられる時間が、無くなってしまった、ということの方が、大きいと思う。
郊外が、衰退していくのと、同じような気がするが。
その、因果関係については、よく、わからない。
ところで、飯田橋ファーストタワーの工事が、着工する前のことだが、目白通りから、東へ、細い道に入ったものだ。
その道の、北側が、予定地だったからだけど。
まだ、更地には、なっていず、道路沿いに、床屋や、喫茶店が、並んでいたな。
商店街、というほどではなかったが、周囲が、都心部の、よくある普通の住宅地だったから、そういうお店も、あったのだろう。
外堀通りの北側は、だいたい、そんな感じだったと思う。
交通量の多い、大通りに、面した部分にだけ、遮蔽壁代わりに、建物が、あったりするが、その、向こう側は、まだ、昔のままだったのだ。
そのような、昔のまま、取り残された、場所が、昨今の、都心部に集中している、再開発の場になっている気がする。
いいかどうか、わからないが、時代の流れ、ということかな。
(2010年1月記)