retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

京浜東北線川崎駅(サンタクス川崎タワー工事現場)

2010-05-31 04:12:58 | Weblog
さらに、北へと、歩いていくと、東西に伸びる通りに、行き当たる。
交差点の、南西側には、サンタクス川崎タワーの工事現場。
このように、まだまだ、高層住宅の建設は、続いているのだが、さすがに、これで、打ち止めではないかと思う。
先は、わからないが、いちおう、今のところ、高層ビルの計画は、ないからだ。
あるとすると、川崎駅の南西側と、ラゾーナ川崎プラザのオフィスビルかな。
いずれも、それほど、巨大高層ビル、というわけでもなさそうだし。
もっとも、これで、打ち止めだとしても、川崎駅周辺が、大変貌したのには、違いないだろう。
ここで、話は、ちょっと、変わるが。
川崎市は、東西に、細長くなっている。
その中で、西側は、田園山の手、東側は、京浜下町と、街の雰囲気が対照的。
川崎は、こんな風に、二つの側面を持っているのだ。
だが、いつの間にか、西側の、田園山の手が、徐々に、拡大。
それに伴って、東側の京浜下町は、縮小していく。
そして、今や、川崎駅は、すっかり、田園山の手に、呑み込まれてしまった。
川崎駅周辺の大変貌、というのは、そういうことが、背景にあるのかもしれない。
ところで、前に、自分は、川崎の高校に通っていたと書いたけど。
実は、その高校、川崎の中の、田園山の手にあったのだ。
なにかの間違いで、入ってしまったのかな。
高校生なので、それほど、貧富の差が、露骨になることはなかったが。
それでも、やっぱり、当時、庶民的な路線、南武線に乗ると、ほっとしたものだ。
南武線が、川崎駅周辺の、京浜下町の空気を、運んできている気がしたし。
今となっては、もう、昔のことだな。
すべては、変わってしまった。
(2009年9月記)

京浜東北線川崎駅(クレッセント川崎タワー)

2010-05-30 05:46:13 | Weblog
川崎駅西口のペデストリアンデッキから降りて、地上へ。
ラゾーナ川崎プラザの南側を西にまっすぐ伸びる、西口通りに入り、西に向かう。
すぐに、北へ曲がり、そのまま、北へ。ラゾーナ川崎プラザの裏手だ。
その裏手、道路の西側には、クレッセント川崎タワー。(工事中はこちら
最近、竣工した、高層住宅だ。
さっきの、西口通りの、交差点まで、ペデストリアンデッキが、伸びているので、ちょっと、北に、伸ばせば、クレッセント川崎タワーも、川崎駅と、直結するのだが。
あるいは、ラゾーナ川崎プラザからなら、道路を越えるだけ。
そうなれば、ラゾーナ川崎プラザの中を通り抜けると、すぐに、川崎駅改札、となる。
そこまで、ペデストリアンデッキで、つなげまくって、どうするんだ、という感じだが、やるなら、とことんやって欲しい。見てみたいものだな。
ラゾーナ川崎プラザの南西側には、まだ、更地があって、そこに、オフィスビルが建つ予定なので、そうなれば、ひょっとすると、本当に、クレッセント川崎タワーまで、ペデストリアンデッキが、伸びたりするかも。
こうして、駅と一体になった、街だけが、だんだん、広がっていくわけだ。
その代わり、油にまみれた、広大な、工場はなくなり、さらに、妙な熱気に溢れた、胡散臭い、愛すべき、街並みも、蒸発するように、消えてしまったのかな。
もっとも、儚く消えたり、変遷を繰り返したり、それも、下町っぽくて、いいかもしれない。
たぶん、後、何十年もすれば、これら最新の街並みも、また、古びた街になるだろう。
現に、バブルの頃に登場した、新都心、今、見ると、もう、レトロな雰囲気がするではないか。
ちょっと前まであった、川崎の工場地帯だって、できた当時は、最新式、いや、未来的、SF的ですらあったはず。
時が経つにつれて、いつのまにか、敷居が低くなっていくものだ。
もっとも、目の前に建っている、高層住宅が、古びていって、その後、どうなるか、確かめることは、たぶん、できないだろうけど。
(2009年9月記)

京浜東北線川崎駅(整備された川崎駅西口)

2010-05-29 07:30:59 | Weblog
駅前からは、ラゾーナ川崎プラザへばかりではなく、南側にも、通路が伸びている。
その先には、コンサートホール、そして、高層住宅群。
駅と、街並みが、一体となっているわけか。
最近は、こういう、構造の街が多い。
昔は、川崎駅の西口といえば、工場地帯だったのだが、変われば変わるものだ。
実際、工場が、なくなってしまったわけで、それだけでも、大きな変化だ。
ところで、実は、自分の通った、高校は、川崎にあったので、毎日、南武線で、通学していたのだ。
だから、昔の、川崎については、多少は、知っている。
とにかく、うるさくて、油にまみれていて、汚くて。
そして、猥雑で、胡散臭くて、かなり、危険な街。
川崎のことを、心の中では、勝手に、地獄の一丁目、と名付けていたな。
でも、反面、とても、エネルギッシュで、わくわくさせてくれる、実に、楽しい街でもあったのだが。
高校を卒業した後、次に訪れたのは、バブルの頃。
川崎クラブチッタへ、コンサートを見に来たのだ。
その時、あまりの変わりように、びっくりしてしまった。
川崎ばかりではなく、日本中が、そうだったのだが、あちこち、ずいぶんと、きれいに整備されていた。
相変わらず、胡散臭くて、賑やかな感じは、そのままだったけど。
街の様子が、根本的に、変わったのは、バブルが崩壊して、失われた10年を経た後あたりかな。
やはり、工場地帯が、なくなったことが大きいのかも。
ずいぶんとおしゃれになって、猥雑さや、胡散臭さは、もはや、雲散してしまった。
そんな風に、きれいになったのは、いいけど、なんだか、ちょっと、寂しい気がする。
なぜなら、うるさくて、汚ない街だった頃は、敷居が低かったのだが、今は、自分の身の置き場が、なくなってしまったように思うからだ。
(2009年9月記)

京浜東北線川崎駅(ラゾーナ川崎プラザ)

2010-05-28 06:08:42 | Weblog
西武新宿線で高田馬場駅へ。山手線に乗り換え、品川駅。
さらに、京浜東北線。
川崎駅で下車。
今日も、秋晴れ、天気がいい。
暑過ぎず、穏やかな気候。空気は、清明にして爽やか。
実に、気持ちのよい、日和だな。
これで、生活に、不安がなければ、ますます、いいのだけど。
いや、生活に不安がなければ、天気など、特に、よくなくても、いいのだが。
逆に、この天気のよさ、皮肉な感じがする。
なにも、こんな時に、天気が、よくなくても、いいのに、という具合に。
駅の西口に出ると、すごい、賑わいよう。
景気が、よくないので、むしろ、こういう、近場が、賑わうのだろう。
川崎駅西口には、駅舎に直結するようにして、ラゾーナ川崎プラザがある。
そちらの方へ、お客が、どんどん、流れていくみたい。
そんなラゾーナ川崎プラザなのだが、昔は、広大な、東芝の工場の敷地だったのだが。
バブルが崩壊した後の、失われた10年を経て、その工場は、なくなってしまった。
跡地は、どうするのだろうと、思っていたら、煌びやかな、巨大ショッピングセンターが、登場。
これからは、内需拡大、ということなのだろう。
そんなわけで、今に至るも、変わらず、賑わっている。
でも、この賑わい、不景気で、どこにも行けないから、せめて、という感じなんじゃないかな。
なにはともあれ、賑わっているから、いいか。
天気も、いいことだし。
(2009年9月記)

日比谷線南千住駅(泪橋交差点)

2010-05-27 04:42:09 | Weblog
明治通りを、さらに、西へと歩いていく。
程なくして、南北に伸びる、吉野通りとの交差点。泪橋交差点だ。
昔は、明治通りに沿って、思川という、小川が、流れていたのだが、ここらへんに、泪橋が架かっていたのだろう。
その橋の北側には、小塚原の刑場があり、そのために、橋の名前が、泪の橋、だったのかな。
だが、泪橋、というと、自分が、まず、思い浮かべるのは、「あしたのジョー」。
主人公、矢吹丈が練習した、丹下段平のボクシングジムは、泪橋の下に、あるのだ。
むろん、あしたのジョーの中の泪橋は、創作なのだが、橋の名前は、泪橋交差点から、とられているに違いない。
ところで、なんで、ボクシングジムの上に架かっている橋は、泪橋なんだろうか。
たぶん、こういうことだろうと思う。
すなわち、世の中の、どうしようもない、悲しさ、辛さ、それらを、「泪」、と暗喩し、そこを、ボクシングで越えていく、ということだ。
でも、ボクシングでなくとも、他に、その、世の中の悲しさを、越える、手段は、ありそうな気もする。
現に、矢吹丈は、ボクシングを始める前、壮大な、解決案を持っていた。
隅田川の両岸には、遊園地。貧困地帯の、西側と東側には、それぞれ、大規模な病院と、老人ホーム。南側に、保育園。北側に、大規模な集合住宅と、巨大ショッピングセンター。そして、それらの、中央部、貧困地帯には、大きな工場。
矢吹丈の年齢から見て、ちょっと、あり得ない、発想のような気もするけど。
それはそれとして、この解決案、現代、特に、バブルが崩壊して以降の、日本の姿そのものではないだろうか。
ただ、「あしたのジョー」の中では、この、壮大な計画、資本を調達するための、詐欺行為で、あえなく頓挫、結果は、矢吹丈の少年院送致で、終わっている。
利益の見込めない投資など、詐欺でも行わなければ、成立しようがないからだが。
だから、むしろ、ボクシングとの出会いが、矢吹丈にとって、とても、幸運なことだったのだろう。
もし、ボクシングすらなければ、矢吹丈に、夢を託すしかないな。確率的には、そうなる方が、はるかに、高いけど。
もっとも、当初の矢吹丈の計画は、現代では、当たり前のように、実現している。
それで、結局、どうなったのだろう。
貧困はなくならないどころか、より一層、拡大している。そして、貧民は、一掃されて、どっかへ、いなくなってしまった。
かくて、世の中の、どうしようもない、悲しさ、辛さは、その底辺に、遍く、偏在することになるのだ。
これも、時代の流れなので、どうしようもないけど。
(2009年9月記)

日比谷線南千住駅(清川 玉姫神社)

2010-05-26 06:09:00 | Weblog
明治通りを西へ西へと、向かう。
かなり、歩いたところで、南へ。住宅街に、入っていく。
しばらくすると、玉姫神社。
以前、一度、行ったことがある。
バブルが崩壊した後ぐらいだったかな。
行く前から、少しは、話には、聞いていたけど。
行ったときは、ちょうど、炊き出しがあった時かもしれない。あるいは、特に、その日、というわけではなく、常時、炊き出しがあるのかもしれないが。
神社の境内は、その日の炊き出しを、必要とする者で、溢れていたっけ。
このような光景が、東京、あるいは、日本の中に、あるなんて、ちょっと、想像もできなかったなあ。
今、経済状況は、あの頃より、はるかに、よくはないのだが。
玉姫神社は、どうなっているのやら。
ちょっと、おっかなびっくりで、覗いてみると、存外、境内は、静か。
炊き出しがあったころは、貧しくとも、何か、こちらが、気圧されるような、妙な、熱気、迫力があったのだが。
今は、もう、それすらも、ないのかもしれない。
あたりが、こんな風に、静かになったのは、貧困が解決されて、平穏になったからではないだろう。
この静けさは、諦念、諦めなのかな。
むしろ、なにか、やり切れない、もの悲しさを感じる。
この、もの悲しさ、侘び、寂び、といった類では、もちろん、ない。
重苦しく、冷ややかな、悲しさだ。
結局、あの後、どうなったんだろう。
来ていないので、わからない。
でも、炊き出しの場面を、想像もできない光景だ、なんて、暢気なこと、自分も、言ってられなくなってしまったことは、確かだ。
そんな、時代になってしまった。
(2009年9月記)

日比谷線南千住駅(南千住 石浜神社)

2010-05-25 06:08:38 | Weblog
白鬚橋を渡り、隅田川の西岸へ。
明治通りの、北側には、ちょっと、通りから、離れているが、石浜神社がある。
今では、なぜか、あまり、有名ではないのだが、昔は、かなり、著名な、神社だったらしい。以前の名前は、朝日神明宮といったのだが。
白鬚の渡しの、東岸には、白鬚神社、西岸には、石浜神社、ということなのかも。
おそらく、ここら一帯が、太古の昔から、交通の要衝だったから、著名だったのかな。
例えば、西に向かえば、今の王子の南側に、豊島があり、南に向かえば、浅草寺、鳥越神社を経て、今の、品川の方に出られる。奥州へは、いったん、ここから、白鬚の渡しで、隅田川の東岸に出て、北へ向かわなければならなかった。
さらに言えば、このあたりは、有名な、「伊勢物語」の東下りにも、出てくるし、「更級日記」にも、登場する。
源平合戦のとき、源頼朝は、この場所で、隅田川を渡り、鎌倉に入っている。
通れるところが、ここしかなかったので、当然、そうなるわけだが。
状況が、変わったのは、たぶん、江戸時代、日光街道が、整備されてからだろう。
奥州方面へは、そのまま、北へ、千住、千住大橋を、経て、直行できるようになった。
つまり、白鬚の渡しは、主要幹道ではなくなってしまったのだ。
賑やかさも、千住宿に、移ってしまったし。華やかなのは、対岸の、向島百花園ぐらいかな。
たぶん、そういう、街道から外れた、鄙びた光景が、向島百花園を作ろうという、動機になったのかもしれない。ちょっと、わからないが。
そして、今に至るわけだ。
こうして見ると、時代の流れを、感じるなあ。
(2009年9月記)

東武伊勢崎線東向島駅(隅田川に架かる白鬚橋)

2010-05-24 05:06:18 | Weblog
明治通りを、西へ。
すぐに、隅田川に架かる、白鬚橋。
昭和の初め頃、完成している。(先行して、木製の橋が、大正時代にできている)
それ以前は、渡し船だったのだが、その渡船場、とても、古い。
隅田川の渡しの中では、最古であり、その歴史は、少なくとも、奈良時代まで、遡る。あるいは、それ以上かも。
太古の、街道は、今の王子の南、豊島から、千葉県市川の北側、国府台を、結んでいたのだが、どうやら、白鬚の渡しは、その一部だったらしいのだ。
ちなみに、昔は、橋場の渡し、という名前だが。
だとすると、隅田川東岸、白鬚の渡しの船着場近くの、白鬚神社も、同じように、古いのだろう。
もっとも、白鬚神社と、この太古の古道、どういう関係があるのか、さっぱり、わからないけど。
そもそも、白鬚神社というのは、もとは、新羅(しらぎ)神社だったらしいのだが。
もし、新羅神社だったとすると、白鬚神社は、古代、朝鮮半島からの移住者が、この地に、入植した、ということの、痕跡なのかもしれない。
その当時、一帯は、一面、見渡す限り、湿地帯、葦原だったはずだ。
そんな中、いったい、どのような、生業で、生活していたんだろう。やはり、漁業なんだろうな。たぶん、海運なども、やっていたのかもしれない。
それで、渡船場の運用を、任された、とも、考えられる。
昔のことなので、今となっては、わからないが。
(2009年9月記)

東武伊勢崎線東向島駅(都営白鬚東アパート)

2010-05-23 07:09:37 | Weblog
南北に伸びる、墨堤通りへ出て、北へ北へと、歩いていく。
しばらくすると、西へと伸びる、明治通りとの交差点。
明治通りに入り、西へ向かうのだが、その交差点の、北西側には、都営白鬚東アパートがある。
棟が、北側へと、連なり、まるで、壁のような感じだ。
実際、大規模な火災が発生した際の、防火壁になるので、その意味では、壁である。
ただ、一見すると、火災の延焼を、防ぐための壁に、見えるが、そうではなさそうだ。
東側は、墨田区の下町、隅田川を挟んで、西側は、今は、なくなってしまったが、汐入と、南千住の下町が広がっているので、両方とも、火災の危険があるからだ。
もし、両方、同時に、火災が、発生した場合、防火壁の意味は、なくなってしまうに違いない。
たぶん、隅田川と都営白鬚東アパートの間の敷地に、避難した場合、その安全を、確保するための、防火壁なのだろう。
もっとも、西側、隅田川西岸の、汐入は、消滅し、集合住宅になっている。
南千住も、墨田区の下町も、マンションが、どんどん、建っていて、だんだん、下町が、消えてきている。
とすると、長大な、防火壁の必要性は、薄れているのかもしれない。
そんな都営白鬚東アパートなのだが、完成したのは、高度成長を達成した後、安定期の頃だ。
当時は、まだ、下町が、消滅するとは、思わなかったのだろう。
そういえば、曳舟に、ボーリング場が、できた時期だな。
曳舟には、今は、ボーリング場しか、残っていない。
とすると、同じように、将来は、都営白鬚東アパートの壁だけ、残るのかも。
(2009年9月記)

東武伊勢崎線東向島駅(東向島 白鬚神社)

2010-05-22 04:29:38 | Weblog
向島百花園を出て、西へ西へと歩き、南北に伸びる、墨堤通りを北へ。
すぐに、白鬚神社がある。
相当、古い歴史を持つ、神社だ。
その長い歴史の中で、興味深い、妙な、言伝えがある。
史実かどうか、わからないが、1592年、将軍家より寄進、ということがあったらしい。
でも、1592年といえば、足利幕府は、もう、とっくになくなっており、さりとて、まだ、徳川幕府は、登場していない。
将軍は、幕府の棟梁なわけで、ということは、この時期、将軍家は、存在しないことになっている。
もちろん、常識的に考えれば、この将軍家、というのは、徳川家を指しているんだろうけど。
もう少し、細かく見てみよう。
1590年、関東平野を治めていた、北条氏が、豊臣秀吉による、小田原征伐で、滅びてしまうと、その後に、徳川家康が、関東移封で、三河から、移ってくる。
1592年、将軍家より寄進、というのは、この地域での、その統治の移譲の、プロセスを、示しているようにも思える。
すなわち、代わって、一帯を、領したのは、徳川家に仕えていた、多賀氏で、治者の代替をアピールするために、古来よりある、白鬚神社に、寄進してみせたのではないだろうか。
そのとき、思わず、徳川家を、将軍家、という風に、告げてしまったのだ。
数年後には、実現するので、いいのだけど。
ちなみに、その、多賀氏の屋敷があったのが、向島百花園の場所だ。
そして、多賀氏は、いつしか、没落して、なくなっていまい、屋敷跡が、向島百花園になっている。
話は、戻るが、こんな風に、将軍家からの寄進、と格を上げてみせなかればならないほどに、白鬚神社は、歴史のある神社だったわけかな。
言伝えで、史実かどうか、わからないけど。
(2009年9月記)