retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

東武伊勢崎線越谷駅(越谷市中央市民会館)

2009-12-31 07:48:23 | Weblog
メインストリートを東へ東へと、歩いていくと、元荒川に架かる橋がある。
その橋の手前、通りの南側には、とても瀟洒な、洋館のような、建物。
かつて、何度か、この建物の近くを、通って、気になっていたが、たぶん、ホテルか、高級レストランなのかな、と思っていた。
今回は、確かめるべく、ちょっと、近づいてみると、中央市民会館という文字に、驚いてしまう。
こんな場違いな、豪勢な建築物、どう考えても、バブルの産物だろうな。
詳しいことはわからないが、デザイン的には、なにか、昔の、有名な建物を模したものなのかもしれない。
ただ、今となっては、この建築物自体が、バブルの時代を語る、歴史的な建物になってしまったような気がする。
それはそれとして、話は変わるが、自分は、都心と都心近郊を、ほぼ、隈なく、訪れているけど、元荒川を目の前にした、この場所ほど、美しいところを知らない。
美しい風景、というと、いろいろあるが、ここの場合、この雄大な、水郷地帯の美しい景色は、かつての、関東平野の原風景、を想起させてくれるのだ。
今では、信じられないが、鎌倉時代より以前、関東平野は、群馬県、栃木県の山際まで、こうした、湿地帯が、広がっていたらしい。
その広大な湿地帯は、鎌倉時代以降からの、気の遠くなるような、干拓事業で、今のような、関東平野になったのだ。
そして、ところどころに、このような、水郷地帯が、残ることになる。
考えてみれば、越谷は、かなり、内陸なはず。内陸奥深くなのに、水郷地帯なのだ。
自然の雄大さや、その自然と共に歩んできた、歴史に、思いを馳せてしまうなあ。
バブルの洋館も、このような、重い歴史の中にあっては、ちょっとした、飾り程度、に過ぎないのかもしれない。
(2009年7月記)

東武伊勢崎線越谷駅(越谷駅東口メインストリート)

2009-12-30 07:22:13 | Weblog
越谷駅の東口から、まっすぐ、東へ、メインストリートが伸びている。
そのメインストリートを、歩いていくと、やがて、南北に伸びる通り。
この南北の通りが、かつての、日光街道だ。
そして、北へ、元荒川を越えて、今の、北越谷駅ぐらいまでが、日光街道越ヶ谷宿だったらしい。
越ヶ谷宿の間を、元荒川が、横断しているが、たぶん、川の北側の方が、栄えていたのだろう。
川の北側にある、久伊豆神社のあたりは、越ヶ谷、という地名なのだが、間に「ヶ」が入る方が、本当の、地名らしいからだ。
とすると、かつて、越ヶ谷宿のあった江戸時代より以前、越谷の、中心は、久伊豆神社あたり、ということになるな。
と思ったら、元荒川の南側には、越ヶ谷本町、越ヶ谷一丁目から五丁目、という町名があったりする。
さらに、あとでわかったのだが、元荒川の流路は、かつて、久伊豆神社の北側だった、ということだ。
また、越ヶ谷本町の西側、宮元町の宮は、久伊豆神社のことらしい。
久伊豆神社は、それほど、古くはないので、ひょっとしたら、もとは、この宮元町に、あったのかも。
宮元町、というと、思い出してしまったが、その西側一帯には、かつて、越谷に来たとき、遭遇した、見渡す限りの、田園風景があったのだ。
このように、考えていくと、どうしても、稲穂の海原に辿り着いてしまう。
ということは、あの、長閑な田園風景が、越谷の、原風景、なのだろうか。
本当は、どうだか、わからないけど。
でも、そのように想像すると、なんだか、楽しい気がしてくる。
(2009年7月記)

東武伊勢崎線越谷駅(越谷駅東口再開発)

2009-12-29 07:19:48 | Weblog
越谷駅東口の北側には、越谷駅東口再開発の工事現場がある。
たしか、この場所には、以前、飲食店などが、ごちゃごちゃと、固まっていたように、記憶しているが。
今は、すっかり、きれいに、なくなってしまったな。
地方都市には、こうした、ラビリンスのような、商店の密集地帯があったりするのだが、これで、少なくとも、越谷駅周辺からは、姿を消したようだ。
ということは、越谷駅周辺も、地方都市から、新興住宅地になりつつある、ということか。
ところで、越谷、というと、最も、印象深く、思い出すのが、駅の、はるか西側、県民健康福祉村と、その北側に、広がる、見渡す限りの、田園風景だ。
県民健康福祉村は、おそらく、いや、間違いなく、雰囲気的に、バブルの頃、オープンしたのでは、と思う。
もっとも、特に、県民健康福祉村には、用は、なかったのだけど。
北を目指して歩いていたら、たまたま、目の前に立ちはだかったのが、この、広大な、施設。
ものすごく広大で、贅を尽くしているのに、まったく、誰もいなかったな。
まるで、砂漠の蜃気楼、砂上の楼閣、バブルの夢の跡、というところ。
そんな、県民健康福祉村を、東側に、大きく迂回しながら、その、北側へ出る。
すると、眼前には、大袈裟に言えば、地平線まで、青々とした、稲穂が、まるで、海のさざ波のごとく、揺れていたのだ。
用水路の脇の道を、北へ北へと、歩いていく。稲穂の海原を、分け入るような感じ。
都心から、郊外、といっていいような、距離に、こんな、田園風景が残っているとは。
しばらく、進んでいくと、東西に伸びる、田舎びた、道路。その道路を、少し、西へ。
やがて、北側に、これもまた、随分と、長閑な、石神井神社、という神社が、鎮座していたりする。
昔は、こうした光景の方が、当たり前だったのかな。
とにかく、もう一度見たい、景色の中では、間違いなく、三本指に入るほど。
だが、果たして、今も、その景色が残っているかどうか、ちょっとわからないけど。
(2009年7月記)

東武伊勢崎線越谷駅(越谷駅東口駅前広場)

2009-12-28 06:10:29 | Weblog
春日部駅で東武伊勢崎線に乗る。
春日部駅には、東武野田線も乗り入れているのだが、そんな感じは、微塵もないな。
もっとも、それなりに、ホームには、ちょっとした、軽食コーナーがあったりするのは、東武伊勢崎線と東武野田線の乗換え、のためなんだろうけど。
一見すると、東武伊勢崎線は、本数が多いのに、なんで、立ち食いそば屋ではなく、軽食コーナーなのか、と思ってしまうが。
それはそれとして、今回も、ちょっと、そこで、食事でも、と、好奇心が湧き上がってくる。でも、すぐに、列車が、ホームに入ってきて、やっぱり、店に入らずに終わってしまうのだ。
車内の椅子に座りながら、もう、春日部に来ることはない、ということに、ふと、気付いて、少しばかり後悔するけど。
列車は、武里団地のある、武里駅、千間台駅を過ぎ、越谷駅へ。
「クレヨンしんちゃん」の舞台も過ぎ去ってしまった。(この数ヵ月後に、「クレヨンしんちゃん」の作者も、鬼籍に入ってしまう。舞台となった武里団地でも、いつか、訪れてみようかな。この先、どうするか、決めていないけど。それにしても、本当に、悲しい知らせばかりが続く)
越谷駅の東口に降り立つ。春日部駅と違って、地方、というよりも、郊外の駅前だ。
と、一瞬、思ったけど、それは、高架になった駅舎だけだったな。
かつては、日光街道越ヶ谷宿があったわけで、どことなく、粕壁宿のあった、春日部と同じく、地方都市、という雰囲気が残っている。
新興住宅地、「クレヨンしんちゃん」の舞台は、やはり、春日部と越谷に挟まれた、歴史のない、地域なんだろう。
ただ、江戸時代より前は、粕壁宿や越ヶ谷宿には、何も、なかったと思う。
現在、近くを流れる、古利根川や、元荒川が、本流で、大河だったからだ。
江戸時代に入って、利根川、荒川は、人工的に、流路が変わっている。
そして、今のような、穏やかな、中規模の河川になったのだ。
そういうわけで、粕壁宿や越ヶ谷宿が開かれ、街ができたのだろう。
時代の流れによって、街並みも、変わっていくのだな。
(2009年7月記)

東武伊勢崎線春日部駅(近くのお寺最勝院)

2009-12-27 06:54:14 | Weblog
BELISTAタワー春日部の南側の道路を、西へ行くと、すぐに、最勝院という、大きなお寺に行き当たる。
その他にも、いくつかのお寺があり、寺町を形成しているようだ。
最勝院の創建は、江戸時代の前らしい。寺町は、おそらく、江戸時代か。
実は、BELISTAタワー春日部の南側の道路は、日光街道の延長線にあるわけで、だから、そういう町割りになっているのだろう。
もっと詳しくいうと、BELISTAタワー春日部の南東側交差点から、東側が、日光街道粕壁宿だったのだ。
日光街道は、この交差点から、北へ曲がり、古利根川を渡って、北上していく。
ひょっとしたら、交差点から西は、寺町への参道だったのかな。
もし、そうなら、その参道の脇にBELISTAタワー春日部が、建っていることになるが。
ちなみに江戸時代より前、街道筋は、もっと、ずっと、西側、川口、岩槻あたり、だったらしい。
だからだろうか。春日部の地名の由来になった、鎌倉時代の、春日部氏の館は、最勝院の、さらに、西側、八幡神社あたりにあった、ということだ。
春日部の中心は、太古の昔から、そちらの方だったのだろう。
もっとも、この場所を訪れたときは、こういう歴史的な事実は、まったく知らなかったけど。
ただ、再開発が終わり、街並みが、きれいになったな、と思ったぐらい。
最勝院の門を見て、すぐに、駅へ向かうため、東へ歩く。
BELISTAタワー春日部を通り過ぎ、江戸時代の頃の、粕壁宿の跡にできた、新しい、幅広の道路を進む。
歩いているとき、ここが、かつての粕壁宿と知らなければ、ほとんど、それと、気付かないだろうな。
お祭りの準備が見れたぐらいだ。
途中、南側に曲がり、住宅地に入る。
細い道を、くねくねと、歩いていくと、駅前から伸びる、メインストリートに出た。
とても立派な通りだが、あとは、何もない。
なにもないところに、お祭りのお囃子が、どこからともなく、聞こえるだけか。
そんな中、春日部駅に急ぐ。
(2009年7月記)

東武伊勢崎線春日部駅(BELISTAタワー春日部)

2009-12-26 07:20:04 | Weblog
長閑な街中を、西へ、歩いていくと、突然、巨大な、高層住宅が現れる。
最近、竣工した、BELISTAタワー春日部だ。(工事中はこちら
いちおう、駅前の高層住宅、なんだろうが、以前、来たときは、随分、辺鄙な場所だなあ、と思ったものだ。駅からは、ちょっと、遠いし。
でも、できあがってみると、まわりも整備されているので、それなりに、新興住宅地のようには、見えるな。
ふと、BELISTAタワー春日部の地階を見ると、何かのキャンペーンで、たくさんの風船が、飾り付けてあった。
お祭りと、連動している催しなのだろうか。ちょっと、わからない。
そのうち、いくつかの、風船が、結び目が解けたのか、ゆらゆらと、上空に上りだす。
風船は、BELISTAタワー春日部の壁面に、付かず離れず、まとわり付くようにして、上って行き、やがて、小さな点のようになって、どこかへ行ってしまった。
空高く浮かんだ風船は、いつかは、また、地上に落下していくだろう。
落ちたら落ちたで、処分に困る、やっかいな、ゴミになるに違いない。
これは、ひとときの、興のため、ということが、後々の、禍根になることもある、なんていう、奥深い喩え、なのかな。そんなわけないけど。
とにかく、風船を、空へ、飛ばすのは、よくないな。
ところで、この高層住宅の、ちょっと離れるが、北側を、古利根川が、東へと流れている。
川の近くは、住環境がよくないので、下町になったり、商店街ができたり、こうして、高層住宅が建ったりするわけだ。
さらに、再開発されて、整備されるたりする。
BELISTAタワー春日部の南側にも、真新しい、幅広の道路があるが、以前来たときは、細い道路しかなかったな。この道路も、BELISTAタワー春日部に合わせて、整備されたのだろう。
こうして、古いものは、なくなっていく。
なくなったものは、もう、二度とは、戻らないのだ。思い出に残るだけ。
それでいいのなら、いいんだけど。
(2009年7月記)

東武伊勢崎線春日部駅(春日部駅北側の商店街)

2009-12-25 07:29:00 | Weblog
駅北側の駅前広場から、まっすぐ、幅広のメインストリートが、北へ伸びているが、まわりには、何もない。
行ったことはないが、駅の南側の方が、市役所があるので、賑やかなのかもしれない。
とりあえず、線路に沿うようにして、西側へ。
すごく古そうなお店が、ぽつんぽつんとあるだけで、ちょっと、侘しい街並みだ。
もっとも、今、地方都市は、ほとんど、こんな感じだろうと思う。
それでも、たしか、前回、来たときは、古い、プラモデル屋があったんだけど。
歩いている道が、違うので、そのプラモデル屋が、今も、残っているのか、確かめなかったが、今回は、新たに、小鳥屋さんを、発見した。
お店が、古く、少ない、とはいえ、こんな風に、趣味的なお店が、あるところを見ると、寂れ果てている、というわけではなさそうだ。
たぶん、駅北側の東方向に、かつて、日光街道の、粕壁宿があり、歴史のある街として、余裕があるからなのかもしれない。
市役所もあるし、何もないのに、メインストリートは、妙に、立派だったし。
ただ、自分にとって、春日部、というと、歴史のある、かつての宿場町、というより、クレヨンしんちゃんの街、なのだが。
「クレヨンしんちゃん」は、床屋で、暇つぶしに、ちょっと、読んだぐらいで、詳しくは、判らないのだが、舞台は、新興住宅地だったような気がする。
だから、実際は、この、長閑な、地方都市、春日部駅周辺ではないんだろうな。
本当は、どうだか、わからないけど。
などと、考えているうちに、小鳥屋さんも過ぎ、点在していたお店もなくなって、いつしか、住宅地になってしまう。
住宅地、といっても、やはり、まばらに、住宅が建っているだけ。
ここまで来て、ふと、気付いたが、ひょっとしたら、春日部駅周辺では、東側が旧市街、南側が、新市街。そして、今、歩いているあたりは、街外れ、なのかも。
今さら気付いても、確かめようもないなあ。
それに、まわりが、あまりに、のんびりした光景なので、とっくに、確かめようなんて、気はなくなっているんだけど。
(2009年7月記)

東武伊勢崎線春日部駅(春日部駅北側の駅前広場)

2009-12-24 05:00:05 | Weblog
武蔵野線に乗る。ひさしぶりだな。
関東平野を疾走する、この路線は、好きなのだが、最近、あまり、埼玉県で高層ビルが建たないので、乗る機会もない。
そんなわけで、車窓の、懐かしい風景に、浸ってしまう。
列車は、浦和を過ぎ、さらに、東へと向かう。
浦和を越えると、なんとなく、雰囲気が、変わるように思えるな。
浦和から西は、多摩、埼玉、という雰囲気。東側は、千葉、茨城、という感じがするのだが。
たぶん、多摩に住んでいるので、そこから、遠ざかるにつれ、異郷を感じるだけなんだろうけど。
そんなことを考えているうちに、やがて、列車は、南越谷駅へ。
東武伊勢崎線に乗り換える。
東武伊勢崎線では、新越谷駅、となっている。
そういえば、東武伊勢崎線、昔、よく、乗ったな。
高架複々線化工事をやっていて、それを見に来ていたのだけど。
あの頃は、まだ、地方都市、という雰囲気だったっけ。
交通の便がよくなって、今では、すっかり、新興のベッドタウンになったみたい。
北越谷を過ぎると、路線は、高架複々線から、地平の複線へ。
風景も、少し、昔のままの、地方都市の感じがしてくる。
本当は、北越谷までではなく、東武動物公園まで、高架複々線化すれば、よかったのかもしれないが。
もっとも、そこまでして、新興住宅地を広げても、人口が増えているわけでもないので、需要はない気もする。それに、昔のままの方が、静かでいいかも。
春日部駅で下車。
以前、一度、訪れたことがあるけど、もう、完全に、地方都市、という感じだな。
たぶん、新興のベッドタウンは、手前の、武里団地まで、だと思う。
折しも、祭りの最中らしい。
ますます、地方都市っぽくて、懐かしい雰囲気だ。
(2009年7月記)

有楽町線月島駅(佃住吉神社)

2009-12-23 07:55:15 | Weblog
広場をさらに西に進むと、突き当たりは、隅田川。
隅田川沿いに、少し、北へ。東側に、佃住吉神社がある。
佃の地の鎮守だ。
佃は、もともと、江戸時代の初め、大阪の佃からの、入植者によって拓かれたのだが、その、大阪佃の鎮守、田蓑神社も、その時、一緒に、付いてきたのである。
今は、田蓑神社という名前だが、当時は、住吉神社だった、ということだ。
田蓑、という名前については、大阪住吉大社を開いた、津守氏の当初の名前だったらしい。(田裳見宿禰、というのだが、田蓑宿禰、ともいうらしい。どうして、二つの名前があるのか、わからない)
津守氏、というと、名前のごとく、津(港)を守っていたのだろうか。
ところで、津守氏の、同族には、尾張の国を開いた、尾張氏、がいる。
尾張、今の名古屋だが、その尾張の西隣には、三河がある。三河、といえば、徳川氏。
こう見てくると、意外に深いところで、江戸と、佃は、関係があったりする。
もっとも、江戸時代の初めに、そういった、組織的な、繋がりがあったとは、思えないし、そのような、由緒が存在している程度のことだったと思うのだが。
ただ、言い伝えのように、徳川家康との個人的な縁だけで、田蓑の地(江戸時代前に、田蓑から佃に地名が変わっている)の住民が、この佃に、入植したとも、考えられない。
たぶん、江戸の街を開くにあたって、縁起が必要だったのかも。同時に、東京湾の、海産物資源の開発ができれば、というところか。
それにしても、江戸時代の初め、大阪から、はるばる、東京湾までやってきた、住民、何百年か経つと、佃の地が、こんなになっているなんて、想像もしていないだろうなあ。
ということは、今より、何百年か経つと、今からは、想像もできないような、変化を遂げていることになる。
だが、江戸時代の佃の漁師たちが、現代のこの地を見て、それが、望ましい未来の姿だと、思うだろうか。変化には、十分、驚くだろうけど。
そんな先のことではなく、一日先、一月先、一年先、そして、あと、何年か先。それだけ、安穏であれば、いいと思うのだろうなあ。
ずっと、そう望んでいたからこそ、こうして、今に到るまで、時代が流れてきたのだ。
そして、そう思うことによって、さらに、時代は、この先も、流れていくことだろう。
(2009年7月記)

有楽町線月島駅(佃の街の広場)

2009-12-22 05:05:14 | Weblog
佃小橋を渡って、佃島に入り、そのまま、西へと歩くと、すぐに、広場のような場所に出る。
そこだけ、ちょっと、道幅が、広がっているだけなのだが。
この場所は、よく覚えているなあ。
以前、バブルの頃に来たとき、この広場に、観光バスが乗り付けていた。
両側には、土産物屋だか、佃煮屋だか、忘れたが、観光客の呼び込みをやっていて、賑やかだったけど。
今は、ずいぶん、静まり返っているみたい。
あの頃のお店は、残っているようだから、そのような、観光は、まだ、やっているんだろうな。
それに、あちこち、歩き回っていたら、江戸情緒溢れる民家の駐車場に、高級車が、停まっていたりするのを見つけてしまう。見なかったことにしよう。
そういうわけで、寂れているわけでは、ないらしい。
たしかに、都心には、近接しているし、地下鉄の駅は近い。おまけに、隣には、高層住宅が林立している。
テーマパークとしては、申し分のない、立地条件だ。
ただ、あまり条件がいいと、だんだん、まんねりになるのかも。
さっき、入口を通ってきた、もんじゃストリート、いつも感じるが、外観は、普通の商店街と、変わらないし。もっと、工夫したら、楽しい、と思うのだが。
佃島と、合体すると、さらに、面白いに違いない。
佃島の、佃川支川を挟んで、北側には、佃公園というのがあるのだが、その公園とも、一体化すると、かなりの広がりをもつことになる。
もっとも、今から、そんな心配しなくても、いずれ、将来的には、そうなるような気もする。
アーバンリゾート地、というところか。
でも、特に興味はないから、どうでもいいことなんだけど。
(2009年7月記)