retifの都市探検日記(高層ビル編)

東京の街並みなどを報告します

丸ノ内線四谷三丁目駅(シティタワー四谷)

2008-07-31 06:14:46 | Weblog
東西に伸びる新宿通りを渡って四ッ谷駅へ。
高台の上に出たせいか、また、北風が強くなってきている。
JRではなくて、地下鉄の方の四ッ谷駅に行こうと思ったのだが、実は、JRのホームよりもずっと南側だった。
また、新宿通りを渡らなければならない。
四ッ谷駅で丸ノ内線に乗る。
次の四谷三丁目駅で降りる。
歩けなくもない距離なのだが、冷たい風が吹きまくっているので、その気になれない。
地上に出ると、すぐに、四谷消防署がある。
この消防署には、消防博物館が併設されていて、その特徴のある形をした建物は、遠くからでもわかるぐらいに目立つ。
入ってみたことないけど。
たしか、バブルの頃にできたように記憶している。雑誌に紹介されていたかな。
地上は、東西に伸びる新宿通りと南北に伸びる外苑東通りとの交差点になっている。
外苑東通りを北に歩く。
しばらくすると、外苑東通りの東側にシティタワー四谷がある。
バブルが崩壊した後の失われた10年、その次にやってきた、都心集積化の頃に竣工している。
本当に最近は、高層住宅が多く建っているのだ。
そんなことを思いながら、シティタワー四谷を見上げていると、猛烈な突風が吹き出した。
外苑東通りが南北に伸びていて、風が通りやすいためなのだろうか。
堪らないので、早々に引き上げる。
さっきの交差点へ。
また、消防博物館に見入ってしまう。
玩具のようなほのぼのとした建物の形を見ると、バブルの頃は、まだまだ、素朴な時代だったんだなあ、とつくづく思ってしまったのだ。
(2008年2月記)

丸ノ内線四ッ谷駅(上智大学新2号館)

2008-07-30 06:14:10 | Weblog
紀尾井坂をさらに西へ。
弁慶濠の土手みたいになっている道路に入り、北へ歩く。
そのまま歩いて行くと四ツ谷駅に着くのだが、この道路の東側には、上智大学の敷地が広がっている。
上智大学には、最近できた、上智大学新2号館がある。
近頃は、都心集積の時代のためなのかどうかわからないが、大学の校舎が高層ビルになることが多いように思う。
上智大学もその例に漏れない、ということか。
ところで、上智大学のある場所には、江戸時代、尾張藩の中屋敷があったらしい。
尾張藩、といえば、紀尾井町の「尾」の部分だ。
残りの「紀」は、紀州藩。「井」は、彦根藩の井伊家、となっている。
それら三つの藩の屋敷があった場所が、紀尾井町だ。
その紀尾井町は、明治時代になって、それぞれ、尾張徳川邸、北白川宮邸、伏見宮邸、その他、という風に変化する。
その中で、尾張徳川邸、その他がイエズス会の土地になり、そこに上智大学が開校している。
残りの、北白川宮邸、伏見宮邸は、戦後になって、プリンスホテル、ホテルニューオータニに代わる。
このような変遷を見ていると、時代の流れを感じてしまうが。
もっとも、紀尾井町の現在の、上智大学、プリンスホテル、ホテルニューオータニ、という区分けが、江戸時代の大名屋敷の区分けと変わっていない、というのは、興味深い。
しかも、この土地には、直接には関係のない、イエズス会の教育機関が、この区割りの中にきちんと納まっているのだ。
だからこそ、上智大学が、有力な大学として、日本の教育機関の一画を占めるようになったのだろう。
そして、最近、高層ビルも建った、というわけだ。
(2008年2月記)

銀座線赤坂見附駅(ホテルニューオータニ)

2008-07-29 06:14:03 | Weblog
京橋駅に戻り、再び、銀座線に乗り込む。
赤坂見附駅で下車。
きらびやかな雰囲気のベルビー赤坂から地上に出る。
北へ歩いていく。
東西に伸びる青山通りを渡ると、北側には弁慶濠。
その弁慶濠を弁慶橋で越えてさらに北へ進む。
上り坂の紀尾井町通りとなっている。
西側には、ニューオータニ・ガーデンコートホテルニューオータニタワーがあり、東側には、赤坂プリンスホテル新館
まるで、それらの高層ホテル棟が通りの両側に聳えていて、門柱のようだ。
この通りを歩いて行くと、西側はブランド店が並び、東側には、清水谷公園が広がる。
自分には、本当に、まるで、縁のなさそうな世界だ。
さきほどから吹き荒れていた強い北風も、この一帯では、それほどでもない。
地形が起伏に富んでいるからなのか、木々が多く、風除けになっているためなのか。
坂の上に上がり、交差点を西へ曲る。
今度は急な下り坂、紀尾井坂になる。
少し下っていくと、紀尾井坂の南側に、ホテルニューオータニの入口があり、その先にホテルニューオータニの本館がある。
この建物が竣工したのは、高度成長期の真っ只中、東京オリンピック開催の直前、ということだ。
東京オリンピックのために建てられたので、そういうことになるのだが。
それにしても、あの頃の昔のままだ。変わらないなあ。
こんな、北風の吹き荒れている日にも、この一帯だけは、それほどでもない、ということとは、無関係なんだろうけど。
でも、一番町、麹町、という丘の上からみて、南側斜面になっているので、北風がそれほどでもないとすれば、無関係、ということでもないのかな。
それはそれとして、とにかく、この場所だけは、強くなった陽射しが降り注ぎ、もう春のような感じだ。
(2008年2月記)

銀座線京橋駅(第一生命相互館)

2008-07-28 06:15:31 | Weblog
地下道には、自分と同じように、地上の嵐を避けるために降りてきた、買い物客などが、心配そうな感じで、うろうろしている。
本当は、東西線で隣の日本橋駅に行って、銀座線に乗り換えたかったのだが。
肝心の東西線がストップしていては、どうしようもない。
早くも計画が頓挫してしまったな。どうしようか。
他に動いている地下鉄路線で大回りしてでも行こうかと思ったけど、どのくらい時間がかかるかわからないのでやめた。
代わりに地下道で、ぎりぎりまで日本橋駅に近いところに行く作戦。
なるべく強風が吹き荒れる地上での移動距離を短くしようと思ったのだ。
地下道を延々と東に進む。
行き止まりになったところで地上に出ると、外堀通りとの交差点だった。
強風のためによたつきながら交差点を渡りきると、もう日本橋駅の入口があった。
こんなに近いなら、地下道をつなげてしまえばいいのに、と思ったが。
つながっていれば、このまま、地上に出ないでも、日本橋駅へ行けたのだ。
でも、強い寒風が吹きすさぶ、ビルの合間から見えた空は、きらきらとしていて、随分と明るかったなあ。
陽射しは、もう春なのかもしれない。地上に出たからこそ、春の陽射しを感じれたのかな。
日本橋駅で銀座線に乗る。
京橋駅で降りる。
東西に伸びる鍛冶橋通りと南北に伸びる中央通りとの交差点がある。
地上に出ると、相変わらず、猛烈な北風が吹きまくっている。
その交差点の南東側に第一生命相互館がある。
高度成長期の終わり頃に竣工しているのだが。
このビルが建った時代が、一番、将来に希望を持てた雰囲気が満ちていたかもしれないなあ。
そういうことが理由、というわけでもないのだが。
なぜか、このとてもレトロな高層ビルが、吹きすさぶ北風の中、やけに明るく輝いて見えたのだ。
陽射しがもう冬の弱々しい光ではなく、力強い春の太陽の光だからだろうけど。
春はもうすぐ。そういう時代に建った建物だ。
(2008年2月記)

東西線大手町駅(東京海上日動ビルディング新館)

2008-07-27 02:02:48 | Weblog
少し日比谷通りを南側に歩く。
日比谷通りの東側に東京海上日動ビルディング新館がある。
南側にある本館の方は、高度成長期が終わった安定期に建っている。
新館の方は、バブルの頃だ。
この新しい高層ビルの方が一回り小さい建物になっている。
このように、バブルの頃、一帯には、巨大なビルが建ったりはしなかった。
バブルの頃は、都心の中心部は、意外と変化はなかったようだ。
少し前の高度成長期の終わりから、その次に訪れる安定期に、大手町のオフィス街は形成されたらしい。
そういうわけで、都心部の高層ビルに関しては、バブルの熱狂は、及ばず、わりと静かだったのだ。
だが、都心集積化の時代になって、状況は、一変する。
まわりに巨大な高層オフィスビルが、矢継ぎ早に建っていく。そして、今後も建ち続けることだろう。
この急激な変化、今日の冬の嵐のような感じかもしれない。
それにしても、とにかく、風が強くて堪らないなあ。しかも、冷たい北風だ。
ビル風なのか暴風なのか、それとも両方なのか。
東京海上日動ビルディング新館まで普段なら歩いてもすぐなのだが、この時は、やっと辿り着いた、という感じだ。
写真なんか撮ってる場合じゃないな。
そういえば、東京海上日動ビルディング新館も土色のビルだ。
そうしている間にも、顔に砂粒が当たってくる。
ほうほうの態でさっきの地下鉄の入口になっている階段を降りて、とりあえずは地下に避難する。
さて、地上は嵐だが、東西線に乗り込んで次の駅に移動しようかな。
と、思ったら、改札口で駅員が大声で叫んでいる。
「東西線は、強風のため、全線で運転を見合わせています」
立ち往生ではないか。
(2008年2月記)

東西線大手町駅(AIG東京ビル)

2008-07-26 02:39:38 | Weblog
高田馬場駅で東西線に乗り換える。
今年の冬は意外と寒い日が多い。
こんな風に地下鉄に乗り継いでしまうと、暖かくて楽なのだが。
なるべく、今回は、地下鉄で移動して、地上には出ないようにしよう。
大手町で下車。
東西線のホームから改札口を出ると、大手町の交差点に出るようだ。
だから、地上にちょっと顔を出して、また、地下に引っ込む、というのもいいかもしれないな。
そんなことを、思い描きながら、地下道を歩き、地上への階段を目指す。
すると、ただならぬ感じで、おばさん達が階段を駆け下りてきたりする。
なんだろうと訝しがりながら、階段を登っていくと、地上は、凄まじい、暴風が吹き荒れていた。
ちょっと前に春一番の南風だったらしいのだが、この時は、吹き返しの強い北風。
南北に伸びる日比谷通りの南側を見ると、もはや、砂嵐状態で視界がきかない。
日比谷通りの西側、パレスホテルの手前にAIG東京ビルがあるのだが。
間近に建っているはずのこのAIG東京ビルも、舞い上がる土煙の中に隠れてしまいそうに見える。
北側には、かつて、JFEビル、という同じぐらいの高さの高層ビルが並ぶように建っていたのだが、今は、再開発、ということで、なくなり、その場所は更地になっている。
そういうわけで、砂嵐の真っ只中のAIG東京ビルは、なんだか、砂漠にある、大昔の遺跡に見えてしまった。
ビルの外壁の色も土色っぽいし。
まるで、砂の上に、突き出した、塔のような建物の遺跡だ。
砂嵐のたびに砂粒が外壁に容赦なく当たるが、いまだにポツンと一棟だけ建ち続けている、そういう感じだ。
もっとも、西側のパレスホテルも再開発で建て替えられるらしいので、もし、そうなれば、本当にこの一画にポツンと一棟だけ残ることになる。
高度成長期が終わって、安定期の頃に竣工してこの一画にビル群を形成していたのに。
都心集積化の嵐で一棟しか残らなくなるのだ。
なにか、この冬の砂嵐の中に建つAIG東京ビルは、そのことを象徴しているように見えてしまう。
(2008年2月記)

東西線九段下駅(千代田ファーストビル南館)

2008-07-25 06:15:15 | Weblog
早稲田通りと明治通りとの交差点から高田馬場駅へ向かう。
緩やかな下り坂が続いているので、歩くのには楽だ。
途中、通りの南側には映画館、早稲田松竹がある。
この映画館は、昔の洋画とかを上映していたりする。
そういえば、ちょっと前までは、「未来世紀ブラジル」を上映していたっけ。
本当にゆっくり映画でも見たいものだなあ。
もし、そういう機会があれば、シネコンなんかではなく、絶対に、この早稲田松竹で映画を見よう。
もっとも、その時までに、この映画館が残っていてくれればの話だが。
さらに少し歩くと、いったい、いつの時代からあるんだろう、と思ってしまう甘味処や、その他の飲食店などがある。みんな相変わらず変わらないなあ。
高田馬場駅で東西線に乗る。
東西線で九段下駅へ。
地上に出ると、東西に伸びる幅広の靖国通り。
東に歩いていく。すぐに首都高池袋線の高架とその下を流れる日本橋川。
日本橋川を渡りつつ、首都高の高架の下をくぐる、ということになる。
さらに東側に歩き、途中、北へ。街中に入っていく。
すぐに、千代田ファーストビル南館がある。
最近、竣工した高層ビルだ。
北側に東西に伸びる大通りがあるが、その大通りのさらに北側には、千代田ファーストビル西館がある。東館もあるけど、この3棟、デザインがばらばらなので面白い。
この千代田ファーストビル南館で、飯田橋からのビル群の拡大は、終わりそうだ。
こうして見ると、一帯は、ずいぶん変わってしまったな。
ちょっと前までは、まだ下町みたいな感じが残っていたのだが。
時代は流れていく。
だからこそ、取り残されたものが懐かしいのかもしれない。
そんなことを考えていたら、このまま靖国通りを進んで、神保町の古本屋街にでも寄っていきたくなった。
たまにはいいかもしれないな。
(2008年2月記)

山手線高田馬場駅東口(センテニアルタワー)

2008-07-24 06:12:44 | Weblog
西武新宿線で高田馬場駅へ。
高田馬場駅は、学生の頃からずっと利用させてもらっている。
だから、最寄り駅を除けば、最も乗り降りした駅だ。
そんなわけで、自分にとっては、一番、馴染みのある都心の駅ではある。
高田馬場駅界隈を一言で説明すると、北の目白、南の戸山、という山の手住宅地に挟まれた、神田川沿いの下町、といったところかな。
このように、山の手に囲まれているような感じなので、下町なのに、再開発されないのだろうか。
よくわからないが、自分が学生の頃から、ほとんど街並みは変わっていないなあ。
早稲田通りを東に歩いていく。
徐々に上り坂となっていく。ということは、東側も山の手住宅地なのだな。
やがて、南北に伸びる明治通りとの交差点。
一応、ここまでが、高田馬場の街の東端、と自分で勝手に決めている。
本当は、飲食店や古本屋などが、途切れず、早稲田大学の方まで続いているのだけど。
でも、自分は、早稲田大学とは無関係なので、やはり、この交差点が境界、とどうしても思ってしまっているのだ。
交差点の北西側には、センテニアルタワーがある。
バブルが崩壊した後の失われた10年の頃に竣工している。
なんか、いつの間にか建っていた、という印象だ。
ふと、この高層ビルを見上げると、また、さっきの境界のことを思ってしまった。
この交差点あたりが、坂の上、丘陵地の突端、とすると、つまり、山の手と下町の境界でもあるわけだ。センテニアルタワーはその目印、というところか。
なるほど、そうだったのだな。と、勝手に納得してしまう。
本当にそうなんだろうか。
そして、いつものように、この交差点で回れ右して、高田馬場駅の方へ戻る。
(2008年2月記)

山手線池袋駅東口(アーバンネット池袋ビル)

2008-07-23 06:13:34 | Weblog
再び、辰巳桜橋で辰巳運河を渡り、辰巳駅へ。
有楽町線に乗り込む。
有楽町線は、都心中心部を抜け、池袋へ。
都心の端から端まで移動したような感じだ。
東口に出て、相変わらず賑やかな、サンシャイン60ストリートに入る。
東へと歩いく。
この通りは、昔から変わらないので、なんか、ほっとするなあ。
サンシャインシティが、もはや、レトロなので、変わらないのだろうか。
やがて首都高池袋線の高架とその下を通る大通りへ。
信号を渡って、さらに東へと歩いていく。
サンシャインシティの北側にアーバンネット池袋ビルがある。
バブルの頃に竣工している。
こうしてみると、都心の中心部から外れたような場所で、そこそこに高い高層ビルは、バブルの頃に建った、という気がする。
こんな辺鄙な場所にも、バブルの勢いでビルが建った、というわけだ。
ところで、サンシャインシティは、巣鴨刑務所の跡地に建っている、ということは知られている。
だが、その巣鴨刑務所の敷地は、どのくらいの広さだったのだろうか。
南側は、サンシャインシティの範囲と同じだが、北側に関しては、春日通りまで広がっていたらしいのだ。
とすると、サンシャインシティは、巣鴨刑務所の南半分だけなのだろう。
そして、残り北半分の中にアーバンネット池袋ビルは建っている、ということだ。
どうりで一帯は、辺鄙な場所なわけだ。
でも、今、まわりを見回してみると、高層住宅だらけになっている。
都心集積化により、辺鄙な場所も中心に組み込まれてしまったのだろうな。
まだまだ、池袋の街は変化していくかもしれない。
(2008年2月記)

有楽町線辰巳駅(キャナルファーストタワー)

2008-07-22 06:17:49 | Weblog
勝どき1丁目地区プロジェクト再開発地あたりから、北東へ歩く。
清澄通りに並行するように、小道が伸びている。
その小道を歩いて行くと、やがて、月島西仲通り、という名前の商店街となる。
両側にもんじゃ焼きのお店が多数、並んでいる。
有名なもんじゃストリートだ。
もんじゃ焼きテーマパークとして、いまだに健在なのかどうか、わからないけど。
もんじゃ焼きには詳しくないので、なんとも言えない。
ただ、そういった立場から見ると、この商店街は、なんだか、ごみごみした普通の飲食店街にしか見えないのだ。
それぞれのお店には、特徴があるのかもしれないが、見たところ、商店街そのものに、特徴がないのは残念な気がする。
そもそも、普通の車道、というのも、無粋だなあ。
思い切って、勝どき駅あたりから月島駅まで、完全な遊歩道にすれば、雰囲気がでるのに。
などと余計なことを考えているうちに月島駅へ。
有楽町線に乗る。
辰巳駅で降りて、西側に向かう。いつものコース。
辰巳運河を歩道橋、辰巳桜橋で渡って、西岸へ。
集合住宅、キャナルコートが広がる。
そのキャナルコートの東側には、南北に3棟の高層住宅が並び建つ予定だ。
一番南側のアップルタワーが、最初に完成し、次は、真ん中のキャナルファーストタワー、ということになる(工事中はこちら)。
だんだん、キャナルコートの全体像が姿を現してきている。
だけど、完成する前は、近未来的な、光り輝くような街かと思ったが。
この寂しげな光景は何だろうか。住んでるわけじゃないので、本当はどうだか知らないが。
こうしてみると、なんだか、辰巳運河を挟んで東側の古ぼけた、都営辰巳団地の方が、暮らしやすそうなんだが。
(2008年2月記)